困惑 2
「エリザ。この礼状を清書しておいてくれ」
「エリザならお休みよ。朝からいないのに何言ってんのよ。寝ぼけてんの?」
オーガスタに言われて、ルカははっとした。そういえばそうだったと思い出して、隣の席に視線をやった。
エリザの席は整理整頓が行き届いて綺麗に保たれている。資料は種類別に分けられて、見やすいようにラベルが貼ってある。机の端には分からないことを書きつけてまとめられたメモが綺麗に並んでいた。
ルカは資料と手紙で雑然とした自分の机を見下ろすと、小さなため息を吐き出して、半紙を引っ掴んだ。
いつもならエリザが朝早くに来て机の上を綺麗にしてくれるのだが、今朝来てみれば昨晩仕事を終えたままの、散らかった机がそこにあった。エリザが休みだから当然だった。
ルカは邪魔な資料を端へ寄せると、引き出しから白い便箋を取り出した。そして羽ペンを手に取ったものの、そこで手が止まった。
「ピール公爵夫人に夜会のお礼状を書くんだが、この便箋でよかったか?」
向かいの席で貴族名簿に目を走らせていたオーガスタに尋ねると、オーガスタはちらと便箋を見やってから眉を上げた。
「私に聞かれてもね」
「……何でもいいか?」
ルカが羽ペンをインクに浸した時、アーサーが待て!と鋭い声を上げた。
「ピール公爵夫人はセンスのいい貴婦人なんだ。お礼状なんだから、質がよくて品のあるものでないと困る。それに、先日の夜会の招待状がとても字が綺麗で、センスがいいと褒めてくださったばかりなんだ。そんな紙を使うな!」
「なんだよ……それじゃあどれを使えばいいんだよ?」
ルカがげんなりして聞くと、アーサーは腕を組んで言い放つ。
「私が知るか。大体、夜会の招待状の便箋を選んで書いたのはエリザだ。エリザに聞け」
「そのエリザがいないから、俺が書こうとしたんだろ……。ああもう……これじゃあ何も進まない。これは後回しにする」
ルカは半紙を再びエリザの席へと追いやってから、次の手紙を手に取った。宛名を見ると、これまたお洒落にうるさそうなご婦人の名前。うんざりしたルカは、手紙の束ごとエリザの机に追いやった。
「ちょっとルカ。何でもかんでもエリザに押しつけないで自分でやりなさいよ。呆れた男ね」
「俺が書いたらご婦人方にセンスがないと言われるのはアーサーだからな。アーサーのためにもエリザに任せるのが一番だろ」
「エリザがいなかった頃は自分で書いてたじゃないのよ」
「エリザが書いたほうが評判がいいんだから、これでいいんだよ」
「確かにルカの言うとおりだ。ルカは女性に向けての手紙はもう書かないでくれ」
アーサーがあまりにはっきり言うものだから、ルカは少しムッとした。自分で言うとなんとも思わないが、他人に言われると腹が立つものだ。
ルカは手紙を書くのは後回しにして資料を手にすると、少し出てくると言いおいて、執務室を出た。
まずはじめに向かった先は、花栄殿。
シャーリーの住まいがある花栄殿は、水明殿とは薔薇の庭園を挟んで隣接したところにあり、庭園を突っ切っていくと近道になる。
ルカは回廊から庭園へと出ると、まっすぐ花栄殿へ向かった。その途中で、シャーリーとエレノアに遭遇した。
シャーリーはスカートの裾が広がったチュールドレスを着ていた。なんだかボリュームがあり過ぎて歩きにくそうで、後ろでエレノアがスカートの裾を持ち上げている。
どうやら二人はキャロラインのところでお茶をするために出て来たようだ。
「シャーリー。護衛をつけないと危ないだろ」
「ルカ兄様。護衛なら影がその辺にいるから大丈夫です」
「それでもきちんとした護衛をつけないと」
「大丈夫よ。ルカ兄様は相変わらず口うるさいわね。ね、エレノア」
エレノアはくすくすと笑いながら頷いた。
「アーサー殿下程ではありませんけどね」
「確かに」
と、二人は笑いあっている。
当然だがシャーリーもルカの従妹にあたるため、気安い関係である。また、シャーリーとエレノアも幼馴染で仲がよかった。
二人をよく知るルカは、これ以上説教したところで話を聞かないと思って、話題を変えた。
「それにしても、大層な格好だ。茶会に行くだけだろう?誰か来るのか?」
「誰も来ないけど、エレノアが似合うから着てみてって」
「今一番人気のデザイナーに作ってもらった新作なのよ!普通に頼んだら予約一年待ちなのよ。でも、王族だから特別に作ってもらったの。ね、素敵でしょ?」
「さあ。俺にはドレスのことは分からないからな。歩きにくそうだし、身内の茶会ならもっと動きやすいドレスを着たらいいんじゃないか?」
ふとルカの脳裏に、貴族の女性にとって、ドレスはとても重要なものだと言ったエリザの言葉が過ぎった。
王妃が他者から嘲られるようなドレスを着てはならないのなら、シャーリーもまた同じではないか。
だとしたら、このドレスは今のシャーリーに相応しいのだろうか。夜会に出るわけではあるまいし、そもそもシャーリーに似合っているのだろうか。
いつも夜会の前にエレノアのドレスを仕立てる時も、馴染みの仕立て屋に丸投げしているため、ドレスには疎くてよく分からなかった。
そんなルカに、これだからルカは!とエレノアが頬を膨らませた。
「これでいいのよ!ね、シャーリー?」
「う、うん」
「さ、ルカのことは置いて行きましょう!」
「ああ。遅れる前に行ってこい。次からはきちんと護衛をつけろよ」
はぁいとエレノアとシャーリーが答えると、笑いながら回廊の方へと去って行った。ルカはため息を吐き出した。若い娘の相手はなんだか疲れると頭をかいて、足早に花栄殿へと入っていった。
それから資料を届け終えたルカは、その足で今度は六華殿へと向かった。ここ最近は、六華殿に用事がある時はエリザに任せていたが、今日は仕方がない。
ルカがロージーの執務室を訪れると、ロージーはルカを見るなりエリザの名を口にした。
「エリザ嬢はどうしたんだ?」
「なんです?私ではだめですか?」
「野郎ばっかりの中で仕事してて、毎日エリザ嬢が来てくれるのが私の癒やしになっていたのに、今日はそれがないと思うと……残念だ」
いつもは鋭いロージーの目が、疲れもあってかしょんぼりして見えた。あからさまにががっかりしてみせるものだから、ルカはふんと鼻を鳴らして、資料を乱暴に机の上に置いた。
どいつもこいつもエリザのほうがいいらしい。
「相変わらず忙しいのか?」
「ええ。ですが、そちらも大変そうですね」
ロージーの机の上は資料が積み上がっている。ルカといい勝負だった。
「猫の手も借りたいよ。昨日エリザ嬢に、ルカが嫌になったらうちにおいでと誘ったんだ。彼女は優秀そうだし気が利くから」
ルカは驚いて、座りかけた腰を上げた。
「エリザはなんと?」
「笑って誤魔化されたな。冗談だと思われたんだろうな」
それを聞いてほっとしたルカは、ようやく椅子に腰掛けた。それを見てロージーは薄く笑う。
「真面目で仕事熱心な、いい子を引き入れたな」
「そうですね。エリザが補佐についてくれて本当に助かってます」
それはルカの本心だった。エリザが来てから、一ヶ月と少し。以前は明け方まで執務室に残って仕事をしたこともあったというのに、今ではエリザのおかげでさくさく仕事が進む。
ルカは、エリザがこれ程働き者だとは思っていなかった。普通の侍女ならば、とっくに音を上げているだろう。
しかしエリザは、どうしたら仕事を早く覚えられるか考えたり、効率よく仕事を進めるためにあれこれ工夫している。
それに、朝早く来て執務室を片付けて、夜遅くまで働かされても文句は言わない。エリザからは、もっと役に立ちたいという意欲を感じた。
「ですから、私は引き抜きは認めませんよ」
きっぱりと言い切ると、ロージーは苦笑した。
「束縛の強い上司だな」
ルカはふんと鼻で笑ってみせた。
六華殿を出たルカが訓練所の前を歩いていると、アーノルドが訓練所のほうからやって来て、ルカに尋ねた。
「今日はエリザはいないんですか?」
「今日は休みです。どうかしましたか?」
ルカが聞き返すと、アーノルドは首を振った。
「いえ。今日は朝から姿が見えないので。エリザは昨日転んで怪我をしたんですが、頬の傷は大丈夫そうでしたか?すぐに薬を塗ったんですが、跡が残ると大変ですから」
「ああ……医務室へ行かせたから大丈夫です。すぐに治るでしょう。ところで、あなたはその場に居合わせたのですか?」
「ええ。ひどい格好だったので私の部屋で着替えてもらって、その時に薬を塗ってあげたんですよ」
「部屋で、着替え、薬を塗って、あげた……?」
ルカは驚愕して目を見開いた。アーノルドはなんでもないように頷いた。
「ええ。ともあれ、大丈夫そうならよかったです。それじゃあ私はこれで」
アーノルドはなぜかルカに敬礼すると、颯爽とその場を去って行った。ルカはアーノルドが去った後も、しばしその場に立ち尽くしていた。
「……何であの男の部屋で着替えてるんだよ……」
ルカは無性に腹が立ってきた。
アーノルドは自己愛の激しい女好きである。そしてエリザは、ルカと同じ寝台でぐっすりと眠るような危機感の薄い女だ。
エリザはしっかりして見えて、そういうところは抜けているから危ない。危なすぎる。何やってるんだよ。ふざけるな。絶対だめだろ。
ルカは足音を鳴らしながら回廊を歩いた。通りかかる侍女や文官が、ルカの顔を見ると慌てて端に避けていった。
どうでもいいが、アーノルドのやつ髪を切ったなと、執務室に戻ってから気がついた。
あれだけ自慢げに髪を伸ばしていたのに、襟足からばっさりと切ったのは、何か心境の変化でもあったのたろうか。そんなことにも、なぜか無性に腹が立った。
その日、ルカは日が落ちると早々に仕事をやめた。なんだかむしゃくしゃしていて、これ以上仕事をしてても進まないので、オーガスタを残して帰ることにした。
すると寮へ向かう途中で、エリザを見つけた。のろのろと廊下を歩くエリザの背中を一目見て、元気がないことが分かった。
声をかけて振り返ったエリザの表情を見れば、覇気がない。ぼんやりとして、何を考えているのか分からなくて、ルカはもどかしい気持ちになった。
ルカはエリザに会ったらアーノルドのことを追求しようと考えていたのだが、そんなことは頭から吹き飛んで、ただエリザが心配になった。
夕食を一緒に食べようと食堂まで連れて行ったが、結局エリザは何も相談してこなかった。それでも、他愛のない話をしているうちに元気が戻ってきて、ルカはほっとした。
エリザはあの細い身体にたくさんの悩みごとを抱えて生きている。その悩みを少しでも減らすことが出来たならと、いつしか考えるようになっていた。
自分に何が出来るだろうか。エリザの役に立てることがあるだろうか。
風呂から上がって寝台に寝転んだルカは、天井を見上げてエリザのことを思い出す。
嘘をつくと僅かに揺れる大きな瞳。俯くと長いまつ毛が影を作り、嬉しいと頬が赤く染まる。
東の寝室で見た骨の浮いた鎖骨と白い首筋。栗色のまっすぐな髪。
アパートメントの廊下で掴んだ手は細く小さくて、きちんと掴んでいないと、ルカの手の中からすり抜けていきそうで、引き寄せた華奢な腰は驚くほど細かった。
もしもこの手で抱きしめたなら、折れてしまうのではないか。そこまで考えて、ルカはハッとした。
「何考えてんだ……」
呟いて目を閉じた。
今日はなんだかおかしい。思考回路が狂ったようにエリザのことばかり考えている。
それにしても、アーノルドのことは聞けずじまいだったと思い出して、また腹が立ってきた。
その夜、ルカは眠りにつくのに時間がかかった。




