アーサーの側近 1
エリザが執務室に入るなり、アーサーが挨拶をする間も与えずに、一枚の便箋と手紙を突きつけた。
「エリザ・ハーディス子爵令嬢」
「どうぞエリザとお呼びくださいませ」
「ではエリザ。まずはこの手紙を書き写してみろ。それから、各地方の領主の名をこっちの用紙に書くんだ」
「あの……これは一体?」
「これは私の使用人に相応しいかどうか見極めるための試験だと思え」
エリザは言われるがままに空いた席へと座り、そこで黙々と手紙を書き写した。それが終わると、すでに用紙に書かれた地名の横に領主の名前を書き連ねる。
伯爵令嬢の頃は家庭教師をつけて勉学に励んでいたおかげで、学生時代の成績はよかった。それに、父から貴族間のことについて普段からよく話を聞いていたので、難なくこの試験を終えることが出来た。
試験が終わる頃には、いつの間にかオーガスタとルカの姿があった。どうやらエリザが試験を受けている間に出勤したようだ。
アーサーに用紙を手渡すと、まじまじと眺めて口の中で何か呟いている。
それにしても、単なる使用人にこのような試験が必要なのだろうか。エリザは恐らく身の回りの世話をする侍女やメイドとして雇われるはずなのだから、一般的な教養さえあれば問題ないと思うのだが。
疑問に思っていると、ルカがアーサーから手紙と用紙を取り上げた。
「なるほど。字は綺麗だし、貴族名も間違いない。王妃付きの侍女はおしゃればかりに気を取られていると思っていたが、皆こうなのか?」
「そんなわけないだろう。若い娘はここまで把握してないに決まってる。あそこの侍女は皆王妃と女官長の顔色を伺って媚を売って昇進するか、上級貴族を捕まえることに夢中だからな。エリザは例外だろう」
アーサーからは散々な言われようだが、エリザは若くなければ王妃に媚を売ったこともないので、そこは否定も肯定もしなかった。
「全問正解だわ。文句無しで合格ね」
オーガスタがルカの横から用紙を覗き見て、満面の笑みで言った。
むっとアーサーは唇を引き結ぶと、渋々といった様子でそうだなと呟いて、すぐに視線を逸らした。それきり中々口を開かないアーサーに、痺れを切らしたルカが代わりに言った。
「エリザ。今日からアーサーの使用人として働いてもらうわけだが、下働きのメイドや身の回りの世話をする侍従の手は足りている。だが、側近が圧倒的に足りていないのが現状だ。そこでエリザを女官として雇うが、側近の補佐をしてもらう」
「側近の補佐……?」
「そうだ。主にアーサーや俺の書類や手紙などの代筆をしてもらい、時にはオーガスタの手伝いもしてもらう。まあ、この執務室の雑務を任せようというわけだ」
侍女からまさかの女官への昇進に、エリザは喜びよりも驚きと恐れ多さに震えた。
「ですが、私が女官だなんて恐れ多いです……。国の許可は降りたのでしょうか?」
「もちろんだ。女官といっても最下級からスタートだがな。アーサーの使用人にはよく来てくれたと感謝こそすれ、嫉妬する者はいない。激務だからな。皆泣いて歓迎している」
「げ、激務……泣いて……」
「それに、アーサー付きの侍女はいない。女官は五十代のベテランが数名。二十代はエリザだけだ。追々は女官の仕事もすることになるだろうから、後で紹介する」
「あの、そちらのオーガスタ様は侍女では……?」
「ああ……こいつの説明を忘れてたな。こいつは侍従だ。こんな格好をしてはいるが、男だ」
ルカのざっくりとした説明に、エリザは驚愕した。
だって、オーガスタが以前エリザに会いに来た時に、侍女だと自己紹介をしていた。エリザはそれを疑いもしなかったのに、男?!
エリザは目を見開いてオーガスタを見る。
言われてみると、確かに背が高いし肩幅も広い。侍女の制服を着ているために、腕や足が隠れていて分からなかったが、色々な意味で中性的な人ではある。
エリザはオーガスタに手を撫で回されたことを思い出して、顔を赤くした。確かに女性にしては大きな手だとは思ったが、まさか男だったとは。
そんなエリザには気づきもせずに、オーガスタは憤慨している。
「ちょっと!何よその雑な説明は?!」
「事実だろ」
「もっときちんと説明してほしかったわ!」
「そんな格好してるから、いつも説明するのが面倒なんだ。そろそろ男に戻ったらどうだ?」
「どんな格好をしようと、私の自由でしょ?でもそうねえ……エリザも女官の制服を着ることになるのだし、私も明日から女官の制服を着ることにするわ!」
「そういう問題じゃなくてだな。侍従として……」
「二人共うるさいぞ。仕事は山積みなんだ。話が終わったら早速仕事に取りかかってもらおう」
アーサーが二人を取りなしたので、ルカは話を中断してエリザに向き直った。
「それもそうだな。それじゃあエリザ。まずは手紙の仕分けから教える。エリザは俺の隣の席だ。これからはそこを使ってくれ」
「あの……その前に一つ質問をよろしいでしょうか?」
何だ?とアーサーが険しい顔で尋ねる。エリザは恐る恐る聞いた。
「アーサー殿下の側近の方々はここにいらっしゃる方だけでしょうか?」
「執事や女官もいるが、まあそうなるな」
エリザを含めてたった三人……。
目眩がした。確かにこれは激務だ。ルカが側近を欲しがる理由が、ようやく分かった気がした。
「覚悟しておいたほうがいい」
こうしてエリザの新たな仕事がはじまった。
エリザはまず手紙の選別からはじめたが、アーサーに届けられた茶会や夜会の招待状や手紙は膨大な量で、仕分けするだけでも時間がかかった。
その上アーサーは現在婚約者の選定途中であり、婚約者候補の膨大な資料が毎日のように送られてきては、日々新しくなる情報を更新していかなければならなかった。
リストを作り、階級ごとに分けていき、派閥争いも考慮して令嬢達の政治的背景を細かく調べていく。この作業が一番時間がかかった。
その他にも、アーサーの公務の補佐もしなければならない。エリザは手紙を書いて、資料を分けて、婚約者候補達の資料を読み漁り、分からないことがあればルカやアーサーに伺いをたてて、必死でメモを取り、資料の作成をする。
インクはすぐに無くなった。これほど文字を書いたのは初めてで、手首が痛くなった。
「どうだ?俺の苦労が少しは分かったろ?」
どこか得意気に言ったルカに、エリザは余裕のない顔でええ……と呟いた。
激務だ。猫の手も借りたい忙しさとはこのことだ。王妃付き侍女の頃とはまったく違った忙しさに、エリザは必死で目の前の仕事をこなしていくしかなかった。
「そろそろ昼休憩にしようか」
アーサーが顔を上げて言ったのは、とっくに昼を過ぎたお茶の時間のことだった。エリザはルカに仕事を教わるのに集中していて、時計を見る余裕がなかったので、お腹が空いているのにも気づかなかった。
「毎回思うが、昼食くらい昼間に食べさせてくれないか?」
ルカがうんざりしたように言うと、アーサーは知らん顔をして呼び鈴を鳴らした。
現れたのは、背の高い中年の女官だった。笑うと目が糸目になる優しい顔つきの女性は、ユーリ・ランスレー伯爵夫人。聞けば、アーサーが生まれた頃から女官として仕えているそうで、アーサーに仕える女官を取りまとめている。
「昼食の用意を頼む」
「殿下……毎度のことですが、もうお茶の時間でございますよ。側近の方々のことも考えてください。ただでさえ若い女性が入ったのですから、もっと周囲に気を配らないとなりません」
ユーリの説教を、アーサーは大人しく聞いている。
「倒れたらもっと大変なことになるのですからね。それで困るのは殿下なのですよ」
「分かってるよ」
「分かってないから言ってるのですよ」
「まあまあそこまでにして。昼食を食べましょうよ」
ね?ときれいに微笑んだオーガスタに促されて、一同は執務室を出ると小食堂へと向かった。ぞろぞろと廊下を歩きながら、エリザの隣を歩くユーリがにこやかに話しかけてくる。
「ところで私もエリザとお呼びしてよろしいかしら?」
「もちろんです。これから女官として仕事を教えていただくことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「エリザの場合は女官というよりも秘書官に近い仕事をするのだと思いますけど、私からも仕事を頼むかもしれませんので、よろしくね。それから、東棟の使用人寮へは引っ越しは終わっているのかしら?」
「はい。済ませてあります」
「アーサー殿下に仕える女官は皆家庭を持っているから、通いで来ている者がほとんどなの。だから、独身のエリザが入ってくれて助かるわ。何かあった時に呼ばれることになると思うけど、その時はお願いね」
「かしこまりました」
東棟の使用人寮は、一階に大浴場や食堂があり、二階は女性使用人部屋、三階が男性使用人部屋となっている。
こちらの寮に住んでいるのは、王子と王女に仕える使用人だけで、エリザが以前住んでいたのは西棟の使用人寮である。こちらは国王夫妻に仕える使用人専用となっていて、国王夫妻の住まいから近い所に建っている。
東棟はアーサーの住まいがある水明殿と、王女の住まいがある花栄殿から近い所に位置しているため、エリザは寮を引っ越す必要があった。
エリザは異動が決まったその日に、ニーナに王妃付きの侍女を辞めることになった経緯を言える範囲で説明した。
ニーナははじめは動揺していたが、エリザがアーサーの使用人になると知ると、完全に離れることになったわけではないと気丈に笑ってみせた。
「エリザ様と離れるのは寂しいですけど、私もエリザ様のような一人前の侍女になれるように努力します。でも……たまには相談に伺ってもいいですか?」
「もちろんよ」
その翌日、エリザは仕事の引き継ぎのためにいつものように出勤した。王室家令のゴードンをはじめ、ウィリアムや使用人達に異動が決まったことを知らせると、皆残念がってくれた。
特にウィリアムは見るからにショックを受けた様子だったが、また一緒に働けるといいですねと、最後には笑って握手を交わしたのだった。
「西棟と違って東棟の使用人寮は、建物が小さくて使用人の数も少ないのよ。だけど、西棟より規則は緩いしアットホームな雰囲気だから、庭で野菜を育てたりしている人もいるのよ。何か分からないことがあれば、オーガスタ様やルカ様に聞いたらいいわ」
「分かりました。色々とお世話になります」
「いいのよ。エリザが入ってくれたことによって、私達は本当に助かるんだから。これで、殿下の人見知りも治ってくれたらいいのだけど」
ユーリはそう言ったが、エリザはアーサーとはここまでほぼ会話らしい会話はしていない。こんな状態で人見知りが治るのだろうか。エリザはいささか不安だった。
小食堂に着いて驚いたのは、エリザも共に昼食を取るように言われたことだ。エリザはアーサーとルカ、オーガスタと共に席に着くと、遠慮がちに言った。
「使用人の私がご一緒してよろしいのでしょうか?」
「嫌でも一緒にしてもらう。毒の暗殺を防ぐには、同じ窯の飯を食べることだからな」
なんとまだ暗殺者の疑いは晴れていなかったようだ。
「お前まだそんなこと言ってるのか。呆れた奴だな」
「殿下、まだ処罰が足りないんじゃないですか?」
呆れ顔の面々に、アーサーはしれっと言う。
「一流の暗殺者は、相手を懐柔して油断させてから殺すものだ。エリザがそうでないと言い切れるか?」
まさかそこまで疑われているとは思っていなかったエリザは驚いた。どうやらアーサーは噂以上に疑り深いようだ。
「ならば、私がはじめに料理を口にします。せっかくですから、毒味役も兼ねましょう」
エリザがそう切り返すと、アーサーは意外そうに目を大きくした後、思いついたように言った。
「なるほど。そうやって油断させるつもりなんだな」
いい加減にしろとルカが言った。
「お前のその性格はちょっとやそっとじゃ治りそうもないな。一度記憶喪失にでもなったほうがいいかもな」
アーサーはただ肩をすくめてみせた。中々の頑固者である。
その日の昼食に毒が盛られていることはもちろんなかった。エリザは暗殺者ではないし、毒をどこから入手すればいいのか、それすら知らないのだから当然だった。
それにしても、この調子ではアーサーにいつ信用されるか分かったものではない。疑われ続けるのもしんどいが、こればかりはアーサーの問題だ。エリザは一生懸命仕事をこなすしかない。
その日、エリザは夜が更けるまで仕事に打ち込んだ。さすがのエリザも、くたくたに疲れ果てたのだった。




