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逃走、そして転職 1



 エリザが使用人出入り口から王宮を飛び出して向かった先は、チャーリー帽子店だった。

 時刻は午後三時半を過ぎた頃。エリザが店に飛び込むと、チャーリーとカカ、クロエの三人は揃っていた。幸いなことに客の姿はなかった。


「エリザ?!ど、どうしたの?」


「その格好は?」


「走って来たの?ちょっとやだ!大丈夫?!」


 王宮からここまで走ってきたせいで、エリザは息も絶え絶えといった状態だった。足がガクガクして立っていられずに、店のカウンターの前でへたりこんだエリザを、三人が慌てて取り囲む。

 チャーリーが店の奥へとエリザを抱えて連れて行くと、カカがタオルを持ってきて汗だくのエリザの顔を拭き、クロエが水を注いだグラスを持ってきた。


 椅子に座って水を飲むと、ようやく呼吸が整って落ち着いてきた。そんなエリザに、三人は何があったのか心配そうに尋ねた。

 すると今度は、自分のしでかしたことの重大さに思い至り、エリザはじわじわと恐怖と後悔に苛まれて、涙が溢れてきた。


「わ、私、侍女の仕事をクビになったんです……!全部、私の自業自得でッ……!」


 それ以上は嗚咽に塗れて言えなかった。今度はテーブルに突っ伏してわっと泣き出したものだから、三人は再び慌てた。

 カカが困惑しながらもエリザを抱きしめて、クロエは落ち着かせようとエリザの背をさする。チャーリーはやって来た客の対応をしながらも、隙を見ては様子を見に来てくれた。


 散々泣いて迷惑をかけた後、エリザはチャーリーの家で夕飯をご馳走になった。その頃にはすっかり落ち着いていたが、エリザは三人に侍女を辞めた経緯は話さなかった。王室内部の事情を話してしまえば、三人にまで迷惑がかかるからだ。

 結局何も説明出来ないまま、エリザは迷惑をかけたことをひたすら謝るしかなかった。


「エリザ、うちで帽子職人として働けばいいんだよ」


「そうよ。どんな事情があっても、私達はエリザの味方なんだから。いつでも頼ってちょうだい」


「エリザ、家に帰れないのなら私の家に来る?しばらく泊まったらどう?」


「大丈夫よクロエ。皆ありがとうございます。今日は父のことも心配だし帰ります。ご迷惑おかけしました」


 すでに日は落ちている。送っていくというチャーリーの申し出をありがたく受け取って、アパートメントの前までチャーリーとクロエに送ってもらうと、二人に再度礼を言って別れた。


 門扉を潜り二人に頭を下げると、暗い小道を歩いてアパートメントへと入る。陰気な雰囲気のアパートメントを見上げると、自然とため息が出た。


 デヴィッドはまだ帰っていないだろうが、帰ってきたら何から説明したらいいだろう。

 侍女を辞めたこと、辞めた経緯はすでに耳に入っているかもしれない。それを知ったらデヴィッドはエリザを責めるだろうか。それとも、庇ってくれるだろうか。


 もしもデヴィッドも貴族を辞めると言い出したらどうしよう。せっかくもう少しで借金が返済出来る目処が立つところだったのに、エリザのせいで水の泡だ。


 暗い気持ちでのろのろと階段を登ると、廊下に人影が見えた。今日はシビルが来る日ではない。アパートメントの住人だろうかと目を凝らすと、切れかけたライトに照らされて、背の高い黒髪の男の姿が見えた。

 エリザは足を止めた。それはルカだった。


「エリザ、遅かったな。待ったぞ」


 おんぼろアパートメントの廊下に、秘書官の制服をピシリと着こなした洗練されたルカという組み合わせは、なんだか不釣り合いで違和感を覚えたが、そんなことを気にしている場合ではない。


 つかつかと長い足を動かしてやって来たルカは、ホッとしたような呆れたような顔でエリザを見下ろした。


「中々帰って来ないから心配した」


「……処罰も聞かずに逃げ出してしまい、申し訳ありませんでした」


「そういうことを言ってるんじゃない。あー……何から話したらいいのか」


 ルカは額に手を当てて目を閉じると、うーんと唸った。


「まず、エリザが処罰を受けることは絶対にない。王妃やアーサーがエリザを辞めさせることもない」


「ですが、全ては私の身から出た錆です……」


「侍女からチップを受け取っていたことか?」


「そうです」


「仕事を代わりにしてくれと頼まれて、そのお礼を受け取ることが悪なのか?ボランティアじゃないんだ。代わりに仕事してやったんだから、見返りを要求して何が悪いんだよ?」


 ルカが勢いよく言ったものだから、エリザは気圧されつつも、でもと言い募る。


「王妃の命令に背きました……。嘘もついてしまったし」


「今の時代に伽を押しつけるなんて時代錯誤も甚だしい。一介の侍女が、王妃と女官長にアーサーの相手をしろと迫られて断れるはずがない。それを見越してあの二人はエリザを脅迫したんだ。悪いのは王妃のほうだ」


「それでも私はお金を受け取りました……」


「くれるっていうから受け取ったんだ。それの何が悪いんだ?お金をやったほうが悪いだろ」


 ああ言えばこう言う。ルカは悪びれた様子もなく、かなり強気な発言ばかりしているが、嘘をついていたのはルカも同罪だ。

 エリザは不安で仕方がないのに、ルカは堂々としている。エリザとは違って肝が座っている。それがなんだか羨ましいのと同時に、呆れてしまった。


「それから、私のせいで王妃殿下とアーサー殿下の仲が悪くなったらどうしましょう……。ルカ様が危惧していたように、お二人が対立関係に発展したら大変なことになります!お二人は大丈夫でしょうか?」


「巻き込まれたエリザがそんなことを心配してる場合か?案外お人好しなんだな。呆れた……。とにかくその辺りの説明もしなければならないから、エリザには一旦王宮に戻ってもらう必要がある。近くに馬車を待たせてあるんだ。一緒に来てくれるな?」


 このままではいけないのはエリザも分かっている。エリザが素直に頷くと、ルカはエリザの手を取って歩き出した。


 関節が太くて指が長く、爪が短く切り揃えられたルカの手は、すっぽりとエリザの手を包み込んでいる。手から伝わる体温は熱いくらいで、エリザはこんな状況でも心臓が跳ねてしまった。


「あの、もう逃げ出したりしませんよ」


「いいから。暗いから危ないだろ」


 そう言ってルカはエリザの手を離そうとしなかった。

エリザはそれ以上反論出来ずに、ルカに連れられるまま手を繋いで歩いた。


「お二人さん!熱いねぇ!今から宿に行っておたのしみかい?」


 酔っ払いがすれ違いざまにエリザとルカをからかって指笛を鳴らした。エリザはかっとなったが、ルカはまったく取り合わずに涼しい顔をしていた。


「そうだよ。羨ましいだろ」


 乾いた笑いを投げつけて、ルカは庇うようにエリザを引き寄せると、さっさとその場を立ち去った。

 顔が熱くて心臓がドキドキと早鐘を打っていたが、暗闇のせいでバレていないはずだ。


 なんとか心臓をなだめて落ち着かせたところで、王宮の馬車が目に飛び込んできた。それで今の状況を思い出したエリザの気分は、再度沈んでしまった。こんな時にドキドキしている場合ではなかった。何をしてるんだか。


 街路端に停めた馬車へと乗り込むと、ようやくルカはエリザの手を離した。そして真向かいに座ったルカは、エリザの意気消沈した様子に困ったように頬をかいた。


 エリザはひどい顔をしている自覚はあった。走って乱れた髪の毛はカカが整えてくれたが、泣きじゃくったせいで目は少し腫れているし、化粧はすっかり取れている。

 ルカにそんな顔を晒しているのが恥ずかしくあったし、王宮ではみっともない姿を見せたくないと思っていたはずなのに、今はどうでもいいという投げやりな気持ちのほうが勝っていた。


 静まり返った馬車の中で、ルカはエリザに視線を注ぎ続けている。沈黙に耐えられなくなったエリザは、ルカと再会してからずっと考えていたことを口にした。


「私……侍女を辞めます」


「王妃や女官長はエリザを解雇させるつもりはないと言っている。今回のことでエリザは責任に問われない」


「それでも、辞めます。思えば、王妃と女官長から、アーサー殿下のお相手をするように言われた時に辞めるべきでした。それに私もいい歳ですし、今回のことがなくても近いうちに侍女は辞めなければいけなかったでしょう」


「女官になれるかもしれないだろ」


「子爵令嬢の私には無理です。私は裏方に徹していたので、王妃殿下からの信任が厚いわけではありません。それに、今回の件で王妃殿下は今後私の扱いに困るのではないでしょうか」


「それは……」


「王妃殿下から辞めるように言うことが難しくなった今、私のほうから辞めなければいけません。そうしたほうが、双方のためになると思います」


 小声ながらもきっぱりと言い切ったエリザの意思を汲み取ったのか、ルカは何も言わずに真一文字に口を閉ざした。

 それきり、ルカもエリザも口を開くことはなかった。



 王宮に到着して馬車を降りると、ルカはエリザと並んで歩きながら言った。


「エリザ。侍女を辞める決意は固まっているのか?」


「はい」


「辞めてどうするんだ?」


「朝は牛乳配達をして、昼間は帽子店でお針子として働き、夜は知人の飲み屋で働かせてもらいます」


 それを聞いたルカは盛大に顔をしかめた。


「……そうか。ならば、俺にも考えがある」


「考え?」


「ああ。それは、後で話す」


 ルカはそう言うと、足早に歩き出した。その背を、エリザは小走りで追いかけた。


 

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