クリーンヒット 2
「ルカ。今夜も頼んだぞ」
ルカはアーサーに言われて、ようやく今日が週末であることに気がついた。休みなく働いているせいで、曜日感覚がなくなっていた。
山積みの書類から顔を出してアーサーを見やり、ルカははっと小さく息を吐き出した。
「アーサー。今晩は自分で行ってみたらど……」
「断る!」
「そんな即答しなくても」
「もしも私が行って何かあったらルカが責任を取れるのか?」
「取れるわけないだろ」
「だったらルカが行ってくれ」
ルカに何かあったらアーサーはどう責任を取ってくれるのだろう。聞いてやりたかったが、ルカはぐっと我慢して書類に視線を落とした。
本当に困った王子だ。
ルカはその日、茶会の招待客リストの洗い直しをしていた。
デヴィッドに言われた通りに事前に出欠確認をとってみると、十人以上が欠席すると連絡があった。
早めにデヴィッドからアドバイスをもらっていて助かった。でなければ、招待状を送ってから料理や会場の規模を変更しなければいけなかった。助かった。
ルカは早速作り直した招待客リストと、ルカが作った見積書を持って朱月殿を訪ねた。
しかし、デヴィッドは財務大臣と共に会合に出席するために席を外していた。ルカは資料だけ置いて、不備があれば連絡をくれるように他の秘書官に言づけて朱月殿を出た。
回廊を歩いていると、アーサーの護衛を務める第三騎士団の団長、ロージー・ラッセルズと行きあった。
ロージーは騎士団長とは思えない程細身で猫背気味の二十八歳の男だ。それこそデヴィッドといい勝負なのだが、ロージーは身のこなしが軽くて跳躍力に優れ、素早い。短刀の使い手で暗殺術に特化しており、魔法も扱える手練である。
灰色の短髪に、黒い瞳は切れ長で鋭い。近寄り難い雰囲気をまとっている。そのせいかどうかは分からないが、独身である。
「ああ。ルカ。アーサー殿下のところへ行って来たところなんだ。来月の茶会の警護の人員で用があったんだが、相変わらずアーサー殿下は神経質で、うちの新入りが信用ならないとうるさくてな」
「ああ……それは申し訳ありません」
「いや。ルカのせいではないが、もう少し我々を信用してくれないと困るな」
苦笑するロージーに、ルカも苦笑で返した。
ロージーが護衛リストを渡したいから、騎士団棟まで来てほしいと言うので、ルカはロージーと二人で騎士団棟へと向かった。
「それから、先日はうちの奴らが悪かったな。たまたま居合わせたんだって?」
「ああ……棍棒で襲いかかったあれですか。相手の侍女にはきちんと謝罪の手紙は送りましたか?」
「その日のうちに書かせて、後日慰謝料を包んで届けたよ。気にしないでくれと言ってくれたが、怪我を負わせた騎士二人は、直接謝罪したいと未だに言っててな」
ルカは、エリザが慰謝料を受け取ってスカートのポケットにねじ込み、ほくそ笑んでいる想像をした。臨時収入があってよかったなと思う。
「侍女の方は関わりたくないとはっきり言っておりましたよ」
「やはりそうか。ならば今一度注意しておくよ」
「それがいいですね」
「それにしても、あの侍女はルカの知り合いか?」
「……ええ。以前資料を届けに来たことがありましてね」
咄嗟に嘘をついたが、ルカは自分が話しすぎたことに気がついた。ロージーはそれ以上何も聞いてこなかったが、勘の鋭い男だから何かを感じ取ったかもしれない。
エリザとあまり仲良くしていると、周囲から詮索される可能性がある。気をつけたほうがいいかもしれないと、ルカは肝に銘じた。
その日、ルカは初めて東の寝室へ行くのに遅れた。理由は時間ぎりぎりまで仕事をしていたからだ。
疲れた目をこすりながら、アーサーの変装をして東の寝室へ入ると、すでにエリザはいた。ルカに気づくと一瞬緊張して顔を強張らせた。
「遅れたな。悪かった」
遅れたところで何の支障もないのだか、エリザは気にした様子もなくふるふると首を振って、ルカと目があうとなぜか目を泳がせて俯いた。
「いえ。大丈夫です。どうかなされたんですか?」
「仕事が立て込んでいてな」
「今日は手ぶらですか?」
「ああ……。仕事は済ませてきた」
「そうですか」
エリザは丸テーブルにハンカチを乗せて刺繍をしていた。ルカは寝台を挟んだテーブルの前に座ると、横目でエリザを見やった。
「それはお針子の仕事か?」
「いえ。父にあげようと思って。鳩の刺繍を入れているところです」
「へえ。見せてくれ」
ルカは寝台に腰掛けると、エリザの方に身を乗り出して手を差し出した。エリザは遠慮がちにルカにハンカチを渡した。
見てみると、ハンカチの角に小さな鳩の刺繍が入っていた。オリーブの枝を銜えた鳩は一見シンプルに見えるが、色の違う糸を使って陰影を付けた複雑な刺繍だった。
「すごいな……。本当に手先が器用なんだな」
ハンカチを返すと、エリザは曖昧に頷いた。そして刺繍を再開した。ルカは手持ち無沙汰になって、寝台に横たわった。
今朝から働き通しで休憩もろくにとっていなかったので、うとうとしてきた。脳裏にアーサーが暗殺者に気をつけろと、目を釣り上げて叫んでいたが、うるさいと振り払う。
エリザが暗殺者だったら、飛んできた棍棒を避けるくらい容易いだろうに。
「額はどうだ?まだ痛むか?」
「もう大丈夫です。腫れは引きましたし、痛みもありません。お礼がまだでしたね。先日はありがとうございました」
エリザは少しだけ顔を赤らめて頭を下げた。
「医療費を払うどころか、慰謝料をもらえたろ」
「ええ……そこまで想像していませんでした」
「これでまた借金返済に近づいたな。……それから」
ルカは言葉を切って、上体を起こしてエリザに向き直った。エリザはきょとんとしてルカを見ている。
「この間はエリザの気持ちも考えずに、無神経なことを言って悪かった」
大きな目を更に大きくしたエリザが、何のことを言っているのか気づいて、気まずそうに視線を逸らして首を振った。
「いえ。誰もが知っていることですから、気にする必要はありません。自分の口から説明するのが恥ずかしかっただけですから」
「それでも、軽々しく聞いていいことではなかった」
「謝られるほどのことではないんです。本当に。あの頃の私達は、ただ……」
言いかけて、エリザはぐっと唇をひき結んだ。そして、ごくりと喉を鳴らして言葉を飲み込み、止めていた手を動かしはじめた。
「知ってますか?鳩の刺繍は幸運を祈るという意味なんですよ」
突然話題を切り替えたエリザは、ただひたすらに刺繍を見下ろして手を動かし続けている。
「刺繍の絵柄には様々な意味が込められているんです」
「ああ……。戦争の時はよく獅子の刺繍を施した物を、戦地に向かう軍人に渡していたと聞くな」
ルカは戦争当時はまだ学生だった。このまま戦争が激しくなれば、一般人にも兵士として召集令状がかかるのではと、当時はヒヤヒヤしていたが、結局終戦まで戦火が広がることはなく、ルカが戦争に参加することはなかった。
それでも、多くの軍人達がこの世を去った。エリザの夫、いや、婚約者のように。
ルカは寝台に寝転んで、天蓋を見上げた。
「武運を祈るという意味が込められているんです」
「金運は?」
「蛇です。健康なら亀」
「蛇の刺繍にしてやったほうがいいんじゃないのか?」
「散々願掛けしてダメでしたから。父も私も懲りました」
「占いか」
「そうです。神にも頼んだし、占い師にも、医者にも、最後に魔法使いに頼もうとして、目が覚めました。……全部無駄でした」
エリザの横顔を伺う。刺繍を見つめている目が遠い。ふっと小さく息を吐いて、手を止めた。中途半端なまま、針をしまって片づけをはじめる。
「今日はもう、寝ます」
「ああ」
疲れたように呟いて、エリザはまとめていた髪を解くと、上着を脱いで椅子にかけ、灯りを消しにいった。
ルカがスタンドライトを灯すと、エリザが灯りを消して帰ってきた。
布団をまくって寝台へと腰掛けたエリザの背中は小さかった。布団に足を入れて、顔にかかった髪を背中へと払うと、真っ白で細い首筋から、骨の浮いた鎖骨にかけてが露わになった。キメの細かい肌に、伏せたまつ毛が影を作っていた。
ルカは思わず視線を逸らした。その間にエリザは布団の中へと潜り込んだ。再びルカが横目で見やると、エリザは目を閉じていた。
「ルカ様はなぜ秘書官になったのですか?」
唐突に聞かれて、ルカは少し考えた後に口を開いた。
「アーサーの手助けをするように言われてな。俺は次男だから家を継げないし、宮廷貴族になるのがいいと思った。ただ、それだけだ。大した理由はない」
「兄弟仲はいいのですか?」
「ああ。昔から仲はいいな。父は堅物だが、母親は真逆の性格をしてるからうまくいってるし。うちは家族仲はいいな」
「それはいいですね」
「エリザは一人娘だったか?」
「そうです」
「嫁に行く予定はないのか?」
ルカはおしゃべりな女官が、エリザはランズダウン家の次男の婚約者に据えられるのではと、ほのめかしていたことを思い出した。
しかし、エリザはきっぱりと言った。
「私は行き遅れてますから、今更相手は見つかりません。それに、父は仕事以外は何も出来ない人ですから、放っておけません。ルカ様はご結婚されないのですか?」
「俺も仕事で手一杯だから、考えたことがないな」
「婚約もしていないのですか?」
「ああ。次男だからと、ある程度は自由にさせてもらっているんだ」
「それはいいですね」
ぽつりぽつりと話をしているうちに、一度は吹き飛んだ眠気が襲ってきた。
エリザとの会話はなんだか心地よかった。難しいことを考えずに会話が出来る。こんな個人的な話をしてしまうくらいに。
これを知ったらアーサーが怒るだろうから、黙っておこうと心に決めて、ルカはふと横目でエリザを伺った。
エリザは目を閉じたまま薄っすらと微笑んでいるように見えた。しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
「エリザ」
小声で声をかけても返事はない。眠ってしまったようだ。寝返りを打ったエリザがこちらに顔を向けると、長い髪が顔にかかった。
ルカは気になって手をのばすと、エリザの顔にかかった髪を払ってやった。すると、エリザの気の抜けた安心しきった寝顔が見えて、ルカはなんだか複雑な気持ちになった。
たった二度同じ寝台で眠った相手に、こうまで無防備な姿をさらけ出してしまうエリザは、やや危機感に欠けていると思う。
エリザからしたら、ルカに暗殺者ではないかと疑いをかけられているから、かえって安心して眠れるのかもしれないが。
好みじゃないから安心して眠れと言ったのはルカだが、それにしたってルカを男として見ていない証拠である。
のばした手を引っ込めて、ルカは灯りを消した。真っ暗になると、強い眠気を感じた。
隣からはすやすやと気持ちよく眠る寝息。ルカは眠気に逆らえなくて、ついに意識を手放した。
翌朝、隣で起きる気配がして、ルカははっとして目を開けた。その瞬間、寝台から降り立ったエリザと目があって、ルカは思わずぽかんと口を開けた。
……しまった。朝までぐっすり眠ってしまった。
「おはようございます。起こしてしまいましたね。まだ早いので眠っててください」
言われて窓のほうへ目を向ければ、カーテン越しに外が暗いことが伺えた。
「もう行くのか」
咄嗟に出た言葉だったが、言った後で、いつも夜明け前の早い時間にエリザが出て行くことを思い出した。
「誰かに見られるといけませんし、仕事もございますので」
「そうか……そうだな」
「はい。では」
上着を着て髪を結んだエリザは、持ってきた袋を抱えると歩き出した。扉の前で止まって振り返ったエリザが、小さく頭を下げて出て行った。
ルカはそれを見送った後、大きなため息を吐き出して、額に手を当てた。
「しまった……」
自分でも驚く程ぐっすり眠ってしまった。ここ連日の多忙さもあったが、それは初日と二回目も同じだ。
少しずつエリザに気を許しつつあるのだと自覚して、またため息が出た。
アーサーにバレたら何を言われるか分かったものではない。昨夜のことは黙っておこうと心に決めて、ルカは再び目を閉じたが、結局眠れずじまいで夜が明けた。




