第二百四十四話
帰らずの谷を調べるために黒霧山を奥に進んだ僕は、山々が連なる麓、険峻な岩場にある滝に降りた。
滝から水が流れ落ち、その音が谷に反響して響く。
滝で散った飛沫が周囲を霧に包み、滝の周囲を水浸しにしている。
黒い岩が濡れて艶を放つそばには巨木が苔むしてそそり立っている。
しかし、その側には白い幹を晒した折れたばかりの巨木が何本か転がっている。
直径三メートルほどもある巨木を立て続けに倒すほどの何かがこの辺りにいるはずだ。
斬ったような跡は無い。
単純に鈍器で叩いて折ったような、あるいは力でへし折ったような感じだ。
しばらく辺りを見回して気配を探るけど、動くものは見当たらない。
「猫人とは珍しい」
不意に重低音の声が谷に響いた。
驚いてキョロキョロと視線を這わす。
「ここじゃよ」
ザバァーと滝壷の水面が盛り上がり、そこから白い亀が首を出した。
白いと言っても表面に淡い虹色の光沢があり輝く甲羅をした亀だ。
体高二メートル、楕円のツルツルな甲羅を背負った陸亀が滝壷からゆっくりと歩いてくる。
「虹真珠亀……」
「儂のことを知っておるのか?」
思わず呟いた僕に亀が聞く。
虹真珠亀は海王の使いと呼ばれる伝説の生物だ。
欠けることの無い真珠の甲羅を持ち、人々に知恵を授けると言われる。
「まさか……」
僕が驚いて言葉を失っている間、虹真珠亀は首を伸ばしてこちらを見透かすような眼でジッと見ている。
「こんな奥地に何のようじゃ?
猫人が来るような場所では無いぞ」
虹真珠亀は岩場に上がってくると四本の足を折るようにして座り込んだ。
本で読んだ伝説の虹真珠亀は拳ほどの大きさで宙に浮いていたが、実物は四足で歩き、かなり重そうな体をしている。磨き抜かれた大きな岩のようだ。
「あなたは本当に虹真珠亀ですか?」
虹真珠亀はこちらに敵意を向けていないし、警戒もしていないようだ。
先程までのピリピリした感覚が薄くなっている。
「昔はそう呼ばれたこともあるな」
「本当にいたんですね」
「あぁ、しかし儂を探しに来た訳では無いようじゃな」
「え、えぇ。そうですが……」
「儂がいることに驚いているようじゃが、そもそも何をしに来たんじゃ?」
虹真珠亀が首を振り、折れた木々に目をやる。
「伝説の妖精人を探しに……」
スッと虹真珠亀が目を細める。
「妖精人を探しに、か?」
その真意を探るように真正面から僕を見定めると、時間が止まったように感じる。
思わず呼吸を止めて睨み合ったが虹真珠亀が力を抜いたので、こちらも大きく息を吐いた。
「妖精人はこの辺りにはいない」
「いないのですか?」
僕が問い返すと虹真珠亀は数拍の間を取って答える。
「あぁ、亜人戦争でその姿を消したはずじゃ。
どこかに生き残りがいるかも知れんが、ここでは無い」
「亜人戦争?」
聞いたことのない言葉を呟き返すと虹真珠亀が目を見開く。
「そうであったな。
寿命の短い猫人や犬人にとっては余りにも古い話かも知れん。
お主らが迷宮戦争を繰り広げる更に昔の話じゃ」
「迷宮戦争よりも昔、ですか?
亜人戦争とは一体?
何があったのか教えて頂けませんか?」
妖精人に繋がる情報が一切見つからないので、例え昔の話でも聞くべきだと僕の勘が働いた。
「ほっほ。お主も物好きじゃのう」
虹真珠亀は一度笑ってこちらを見ると、意思を確認してから昔話を始めた。
「何、簡単な話だ。
昔々、この大地には人間や亜人と呼ばれる大地人や森小人、妖精人が住んでいた。
貴様のような猫人も獣人と呼ばれ共存しておった。
亜人たちは森のあちこちに別れてそれぞれがそれぞれの縄張りで大人しく、それぞれが関わり合うことも無く小さな集落を作っていた。
その内ちいさな諍いを起こすようになり、それが種族間の争いになり、複数の種族間の戦争に発展してしまった。
そんな戦争じゃよ」
「大地人や森小人、妖精人たちが戦争を?」
「そうじゃ。
最初は人間対亜人じゃったな。
人口が増え森を潰す人間に対して各地に住む亜人たちが同盟を組んで対抗した。
数に物を言わせた人間だったが妖精人たちの使う魔法に敵わずに敗戦が続き絶滅したはずじゃ。
しかし亜人たちの平和も長くは続かなかった。
戦争で活躍した妖精人が他の亜人たちを蔑ろにして横暴をするようになって争いが再発した。
第二次亜人戦争と言ったところじゃ。
その戦争では魔法による被害が大きすぎて亜人の各種族は大きく人口を減らして集結した。
終戦というよりもどの種族も絶滅の危機に陥ったというのが正しいかも知れん」
「そんなことが……」
「その後、儂は争いを避けて森の奥に引きこもったが、妖精人を見たのはその頃までじゃな」
「しかし妖精人はその後も生き延びているんですよね?」
「どうかな?
亜人戦争の後期には妖精人の都市が集団暴走に巻き込まれたと聞く。
その事故を境に妖精人は住処を無くして流浪するようになり、形勢は不利になった」
「ひょっとして集団暴走に襲われた都市はペルハストではありませんか?」
「おぉ、よく知っておるの。
妖精人の都市ペルハストの研究所で竜人が暴れたとか。
妖精人が己の力を過信して災いを呼んだんじゃ」
「研究所で竜人が暴れた?」
「そうじゃ。
妖精人たちは竜人を対象にして新しい魔法の実験を繰り返していたんじゃ」




