第一話
僕は西の森に入って兎を狩っていた。
セルリアンス共和国の片田舎、人口1万の街メイクーン。皇都エレファンティスから遥か西にある森に囲まれた辺境の街。人口二百万と言われる皇都と比較して小さな街。
ここで僕は生まれた。
僕の名前はハク・メイクーン。
メイクーンの街を治めるメイクーン子爵の三男として生まれた。先月八歳になり、あと半年すると西公都バスティタの上級学院への入学が決まっている。
一応、上級学院に通うことが決まっているけど辺境の子爵に過ぎないメイクーン家、しかも三男。八歳の子が家でできるのは雑用ぐらいしかなく、外に出ても兎を狩るぐらいしかできない。
それでも、兎を狩ると食事のグレードが上がる。
家で剣と魔法、歴史と算術を学ぶよりも狩りに出た方が何百倍も良いと思う。
ただ、その日は家にいた方がマシだった。
メイクーンの街には城郭はない。
小さな街なので簡単な木の柵がある程度で、歴史が浅く開拓村から多少大きくなった程度の街ならばそんなものだ。
そんな街の西門を潜って平野に出た。
麦畑に開墾している平野を抜けると西の森に着く。
西の森は奥の方は開拓が進んでいないので、密度が濃く危険になるが少し入った程度だと狩場として適当だ。
兎を探して森の中に入った僕は急に寒気を感じた。
ゾワリ。
背筋に冷や汗が伝い、首筋から上の毛が逆立つと、圧倒的な気配が山の奥から降りてくる。
ブワッ!
腕の毛が波打ち、脳内を警報が鳴り響く。
ここにいたらマズい。
圧倒的な何かが来る。
まるで空気が重たくなったかのようだ。
気温が下がり、吐く息が白くなったように感じる。
刹那、身体が熱くなる。
血液が沸騰し身体中を一気に巡っているようだ。
筋肉が張り、すぐにでも森をかけ抜けられる。
目が充血し視界が紅く染まる。
……何が起きた?
一瞬の悪寒、その後に圧力を感じると同時に、僕の体内にも力が湧き上がった。
頭が真っ白になる。
……こことは違う世界。
日本の大学に通う学生だった。
人工知能を学びたくて工学部に進学し一人暮らしを始めてた。
四年目の夏休み、何人かの友達と行った海で大波に攫われ溺れた記憶。そこで途切れた記憶。
大学生、猫宮士郎の記憶が急に甦った。
……異世界転生か?
ハク・メイクーン。メイクーン子爵家の三男の事実と、日本の大学生猫宮士郎の記憶がゴッチャになって立ち眩みを起こした。
ライトノベルじゃあるまいし、異世界転生って何だよ。
しかも、……。
改めて自分の身体を見ると、色々と前世とは違う。
大きな手。肉厚で五本指なんかは一緒だけど、鋭い爪が伸びている。視線を腕に移すと白い毛に覆われている。服装は学生服のようなタイトな白地の礼装。
その服に覆われていない胸元、袖口などからは綺麗な毛並みが見えフサフサと輝いている。
顔を触ると顔自体に違和感は無いけど、耳が高い位置にある。猫耳。
お尻には尻尾。視界の端でフルフルしてる。
それもそのはず、ハク・メイクーンは猫人だ。
急に甦った人間だった記憶は何なんだ?
人間、猫宮士郎って何だよ?
そもそもセルリアンス共和国は獣人の国だ。
獣人の国が集まってできた共和国。人口は千二百万人。
人、でいいのか? ……これまでの感覚がおかしくなってくる。
とにかく、人口千二百万人。全てが獣人だ。
そして猫宮志郎の知識にある人工知能とか科学文明とかが脳裏を駆け抜けていったけど、僕は弓で兎を狩りに来たに過ぎない。
目の前の光景とギャップがあり過ぎる。
……一瞬の夢にしては異常な濃さだった。
うん。夢だな。変な夢だった。
それよりも悪寒と圧迫感の方だ。
悪寒を感じた山の奥に向かって目を凝らし、耳を澄ますと、微かに唸るような暴れるような音が聞こえた。
何だ?
剣を構えて始めて自分に溢れる力に気付いた。
剣は護身用に持たされているもので、訓練はしてるけど使ったことはない。
それなのに自然と剣を構えてた。
この力は何だ?
僕、ハク・メイクーンは八歳の子供。
子爵家の子だから帯剣してるけど、剣は使えない。
魔術も習っているけど、兎一匹倒せない。
弓を使って何とか兎を狩ることができる程度の子供だった。
この溢れる力は何だ?
試しに長剣を抜いてみる。体格と比較して引き摺るような長剣なのに軽い。これまでその重さで長剣を抜いても構えることができなかった。それがまるで十年以上訓練したかのようにしっくりと馴染む。
身体が熱く、力が漲る。
ハク・メイクーンの子供の身体、子供の脳に対して猫宮士郎の大人の記憶、知識が追加されただけじゃ無い。
得体の知れない筋力が溢れ出てくる。
恐怖よりも興味。
抑えられない興奮。
ハクとしての僕も、士郎としての僕も知らない力。
その筋力、本能に突き動かされるようにして長剣を構えて呼吸を整えた。
そして、その瞬間がやって来る。
獣たちが森の奥から溢れ出して来た。
集団暴走!
森の中を獣たちが暴走して迫って来る。
森の奥から地響きが延々と続く。
僕の身体も一層熱くなり、視界が真っ赤に変わる。
走って突撃して来る獣を次々と長剣で切り捨てる。
猪、鹿、兎、猿。
鼠、兎、鹿、鹿。
猪、猪、兎、兎。
森の中、足元が悪い中、とにかく長剣を叩きつけるようにして斬りつける。
不思議なことに恐怖や躊躇いを一切感じない。
ただ興奮と歓喜がある。
息も切れず、赤い視界の中で獣の動きが良く見える。
疲れも痛みも感じずにどれだけ剣を振っただろうか?
ギチギチと煩い腰丈ほどの蟻の化物。
牛のような角をした真っ赤な鹿の化物。
斑ら模様で赤い目の緑の栗鼠。
尖った歯で噛み付いてくるデカい黒兎。
長さが十五メートルもある黄色い蛇。
森の獣の続いて見たこともない化け物が次から次へと湧いて来た。
コイツらは獣じゃない。魔物だ。
森にいるような獣とは凶暴さが違う。
魔力を喰らった生物は化け物と化し、獣とは別次元の強さを持っている。
化け物たちは身体が大きい。そして硬い。生命力が強い。
流石に普通の獣を狩るように簡単にはいかなくなって来た。それでも力任せに長剣を振り回す。
途中で身体のあちこちを獣や木々にぶつけた。
オレはこんなことではくたばらない!
諦めない!
次第に化け物の数が減って来る。
身体に力が滾るのに、もう終わりかと口惜しく思ったとき、そいつは現れた。
五つの首を持つ多頭邪龍。
身体の大きさはこれまでの化け物とは桁が違う。
見上げる高さは五メートル、五つの首がそれぞれ独立して動いている。
三メートルぐらいの首の下には大きな鰐のような胴体。皮か甲羅か、鱗かも知れない。何か分からない頑丈そうな表皮。その胴体から伸びる四肢で木々をへし折りながら近づいて来る。
はははっ。
乾いた笑いが出てきた。
笑いながら長剣を多頭邪龍の首に叩きつける。
ザクリと長剣が首を切り裂いて一番右の首が落ちた。
他の首が僕を噛もうと鋭く伸びて来るのを躱すと、落とした首が復活する。
ズルルルと傷口から首が再生して伸びて来る。そして伸びた首の先端が膨張して頭が出来上がった。
フフフッ。
不死の姿を見せられても笑いがこみ上げて来る。
首を切っても、一度距離を取ったときには再生している。
いいだろう、それでもオレが倒してやる。
そういえば本で読んだことがある。不死の多頭邪龍でも、首を落としたその傷口を焼いて再生を封じて倒した英雄がいたらしい。
しかし、そんな方法じゃなくてもいい。
首が復活するよりももっと速く、もっと速く。
首が再生する前に首を落とす。
一本目が再生する前に二本目を、二本目が再生する前に三本目を。
一本ずつが難しければ、より身体の近くで二本まとめて、いや三本まとめて。
オレは溢れ出る力のままに多頭邪龍の首に長剣を叩きつけた。
しかし、それは一際太い中央の首に弾かれてしまう。
……面白い。速さと強さ、オレはまだまだ行ける。
長剣を振り被り再び斬りつける。
更に剣速を上げて左から薙いで二本、左右から袈裟斬りに二本。中央の一本に対して、左右から連撃を繰り返し鱗を一枚ずつ破壊していく。
首が再生したら、その首も纏めて叩き潰す。
首元の鱗がボロボロになったところで多頭邪龍が噛みついてきた。
多頭邪龍の牙を躱したオレは一気に剣を首に突き刺すと、そこから切り上げて首を半分切断した。刹那、切り返して振り下ろし、残り半分をぶった斬った。
辺りに多頭邪龍の毒血が飛び散り、シューシューと煙を上げている。
いつの間にかあちこちに血溜まりができて泥沼ができ、その泥沼から毒素が噴き出ている。
あぁー、どうするかな? これ?
多頭邪龍を倒したまでは良かったけど、一部だけとは言え、汚染された森を見ていると取り返しのつかない事態に気づかされる。
悩んでると、平野の方から騎馬の音が聞こえた。
しばらく目を凝らしていると、軽装に皮当てをした騎馬隊が走ってくる。
「無事か?」
馬上から長い銀髪を靡かせた女騎士が言った。