クロワッサン-いまだ恋愛には及ばない-
人には五感に刻み込まれる記憶やイメージがある。
味噌汁は、おふくろの味や家庭の食卓のイメージ。
虹を見れば、雨上がりやプリズムを連想する。
Uターン組になったアラサーの栞にとって、クロワッサンと直結するイメージは……
「あ……」
思わず足を止めたのは、よつばベーカリーという地元では馴染みのパン屋の前だった。実家に戻って早速この店に引き寄せられるとは――本田栞は鼻から大きく息を吸い込む。
バターの芳しい香り。素朴な食パンや、他の菓子パンや惣菜パンの生地から漂う香りとは明らかにちがう。
「相変わらずだなぁ、この店って」
この独特の香ばしさは店の前を通るだけですぐにわかる。
『クロワッサンは芸術なんだぞ!』
記憶のなかの幼い声がよみがえり、自然と口許が緩む。どのパン屋でもクロワッサンを見かけると彼のことを思い出した。その度に懐かしくなって、すり減った心が癒されるようで、気づけばトングでクロワッサンをはさんでいたものだ。だから、この時も迷わず店のドアを開けていた。
カランコロン、カラン。ドアベルが鳴っても、店側の人間は見当たらない。おそらく奥の厨房で作業をしているのだろう。この店は昔からそうだったので栞も別段気にならなかった。
―オジサン、元気かな?
就職して二年経った頃、祖父の法事で帰郷した際に見かけた店主は相変わらず元気のかたまり、といった印象だったが……。何かと理由をつけて帰省せずに東京で働いていれば、故郷のパン屋の近況などわからなくて当然だ。
「いらっしゃいませ!」
ドアベルの音を聞きつけて、ようやく厨房から誰かがやってきた。しかし、店主の声にしては若く、客を出迎えた店員の顔を見て栞は絶句した。相手も驚いているが、栞に声をかける余裕はあったらしい。
「……本田?本田栞だよな?」
目の前に立っていたのは、小学校時代の同級生・樺谷健介だった。栞の記憶のなかの彼は中学生で成長が止まっていた。実物はずいぶん背が伸びて、白いコックコートを着た彼は、それなりにイケメンのベーカリー店員になっていた。それでも当時の面影がある。
「……カバヤン、何してんの?」
「その呼び名はやめてくれ!」
カバヤンというのは、健介が栞の通っていた小学校に転校してきてから間もなくつけられたあだ名だ。栞の口から反射的に出た呼び名は、本人には忘れたい過去の一部らしい。
「カバヤン、どうしてパン屋で働いてんのよ?」
「俺、この店の見習いなんだよ」
風の噂では、健介は地元の進学校から有名国立大学に合格、さらに大手企業の東京本社に就職したと聞いていたので、地元で顔を合わせるとは夢にも思わなかった。
「一昨年帰省したときにおじさんが、跡継ぎがいなくて店を畳むっていうから、俺に後継がせてほしいって、頼み込んで弟子にしてもらったんだ」
「そうなんだ。カバヤン昔からパン大好きだったもんね。とくにクロワッサンが――」
彼が転校してくる前に暮らしていた町にはパン屋は一軒だけで、昔ながらのアンパン、クリームパン、そしてコッペパンを活用した焼きそばパン等の惣菜パンで勝負していたらしい。だから、健介は新しい街のパン屋で初めて見かけたクロワッサンの虜になってしまった。香りはもとより味とフォルムが彼の好みに適っていたらしく、クラスメイトたちにもクロワッサンはパンのなかで最高の食べ物だと豪語していた。当然、クロワッサンは芸術、というのも健介の言葉だ。
「強烈だったわ、カバヤンの熱中ぶり。私、今でもクロワッサンを見たらカバヤンのことを思い出しちゃうもん」
「本当?俺だって……いや、まぁそれはいいか。俺そんなにひどかった?」
そりゃもうドン引きするくらい、と栞は冗談っぽく答えた。それからパンの種類を確認して、トングとトレイを手にとる。
「本田こそどうしたんだ?東京で働いてたんだろう?」
彼の耳にも、栞の情報は届いていたらしい。
「仕事に生活を占拠されちゃってね。私たちもうすぐ二十九歳になるんだよ?先行き見えないところに、親が地元では珍しく条件の良い求人情報教えてくれたから、いい機会だと思って――」
栞はそう言いながら、クロワッサンと、家族の誰かしらが食べそうなアンパンとウインナーロールをトレイにのせる。
「それじゃ、晴れて本田もUターン組の仲間入りか!」
「うん、またよつばベーカリーにもお世話になるからヨロシクね」
レジで会計を済ませると、栞はパンの入った袋を大事そうに提げて店を後にした。
「……待てば海路の日和あり、だな!」
「なんだオジサン、まだ帰ってなかったの?」
奥の厨房には、健介が師匠と崇めるよつばベーカリーの店主・竹田が残っていた。もうじき七十に手が届く店の主は白髪も増え、腰痛を訴えることが増えている。一時は店の閉店を意識してすっかり老け込んだが、後継者ができたことでやる気が漲っているようだ。
「まだまだお前に修行させないとな。店を譲ったとたんつぶれちまったら元も子もねぇ」
痛いところを突かれて健介は肩を竦めた。基本的な技術は体で覚えてきたが、次に求められるのは経験から学ぶ職人のカンなのだ。
「ところで、あのコだろ?お前の言ってたお月さまってのは!」
「ええ、まぁ……」
――まいったな、こんなことならオジサンに話すんじゃなかった……
竹田も健介のクロワッサン好きは知っていたが、この店を継ぐ気になった理由を聞いてきたので健介はうっかり本音を言ってしまったのだ。
『初恋の女のコに、俺が作ったクロワッサンを食べてもらえたらいいなって思ってさ。しかも、俺がよつばベーカリーの店長だって驚かせてやりたいんだよ……もちろん元々パンが大好きだからだけどね』
それでは、なぜ彼女がお月さまなのか。答えは、健介の記憶を小学四年生の頃まで遡る。
『あの食べたときの、フワフワなのにサクッとした食感がたまらないんだよな~』
その日も教室で、健介はクロワッサンについて熱く語っていた。それを少し離れて聞いていた栞はふと何かを思い出して彼に話しかけたのだ。
「カバヤン!クロワッサンって言葉の意味知ってる?」
栞の質問に健介は面食らった。パンの名前に意味があるなんてことを当時は全然知らなかった――クロワッサンの存在自体知らなかったほどだから。
「フランス語でね、『三日月』って意味なんだって……キレイ言葉なんだね」
彼女の言葉のどこが、健介の琴線に触れたのか、実は本人にもわからない。転校してきたばかりの自分に話しかけてくれる数少ない女子だったせいかもしれないが、そのおかげで気負わずクラスメイトとも接することができた。
時が経つにつれてあれが初恋だったんだなと意識するようになったのだ。当時は健介自身が幼すぎて想いを告げるとか、つき合うといった発想さえなかった。しかし、大人になってからも、三日月に限らず月の満ち欠けを見るたびに初恋を思い出す自分がいる。
「よかったな、地元に帰ってきたならお前の作ったクロワッサン、山ほど食べてもらえるじゃねえか!」
しっかりふたりの会話を聞いていたらしく、竹田がにやりと笑う。
「そうだけど……ちょっと早すぎたなぁー」
健介の理想としては、彼女との再会は一人前のパン職人になってから――と思っていた。
「何言ってんだ!相手も独りで帰ってきたんだから、どこに問題があるんだよ?」
竹田の言うとおりだった。その時彼女の隣に見知らぬ男がいたり、下手すると子供連れで来店したとすれば事情は大きくちがってしまうだろう。健介は思っていた以上に動揺していたのだ――彼女との再会に。
それでも嬉しかった。
昼間でもお月さまが拝めるようになったのだから。
「晩ご飯にパンって……あんた、どういう風の吹き回し?」
休日の外出から戻ってきた娘の手土産が近所の店で買ったパンと知った母親は目を丸くした。
「パン屋の前を通ったら美味しい匂いがしたから。嫌なら自分で全部食べるから無理しなくていいよ」
「嫌なんて言ってないじゃない!私もよつばベーカリーのパン大好きだもの♪」
結局土産としては意外だったが、パンは食べたいようだ。
『クロワッサンってフランス語でね、三日月って意味なんだって……』
小学四年生当時、健介にそう言ったのを覚えている。栞も、前日の夜にクイズ番組の出題問題から知ったばかりのマメ知識だった。当時健介との思い出はパンに関するものばかりだったけれど、彼はちゃんと相手の話を聞く用意があった。
――エリート社員から商店街のパン屋って……カバヤン、思い切ったことしたなぁ。
同じUターン組になった栞には共感できることもあるが、彼はどれだけのものを東京に置いてきたのだろう。きっとよつばベーカリーへの、クロワッサンへの思い入れが凄まじいからだ。一途な性格だな、と栞は感心する。彼らしいと言えば彼らしいけれど、と。
そんな健介から、自分が「お月さま」扱いされているとは、栞は知る由もない。ましてや二人の関係が複雑化していくことなど想像もできなかった。
「クロワッサン、か……」
日が沈んだ空には、すでに淡い九夜月が姿を現している。
まだ、三日月には遠い。
時間も、気持ちも――。
終
最後までご覧いただきありがとうございます。
パン屋の焼きたての匂いが大好きなので、一度パン絡みの話を書いてみたくて挑戦しました。
サブタイトルにあるとおり、この後ふたりの関係が恋愛に発展するかどうかは曖昧にしているつもりです。白黒つけていないのは、恋って幼すぎても進展しないし、大人になりすぎても二の足を踏んで進まないという不思議な矛盾をはらんでいるからです。
クロワッサンの香りを想像したり、月の満ち欠けと同様、ふたりの関係が少しずつ変わればいいなという願望を添えて読んでもらえていたら幸いです。