中間市:中間高校・玄関 -8:42-
「―――きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!??」
そんな、英人の思考は唐突に響き渡った悲鳴によって遮られた。
「!? なんだ!!」
「あ、おい!?」
窓際に近い生徒が声を上げ、立ち上がり窓に駆け寄る。
教師はその生徒を叱ろうと声を上げるが、それより先に彼は大声を上げた。
「……先生! なんか、校門のところで、人が襲われてないか!?」
「なにぃ?」
教師は少年の言葉に眉を吊り上げるが、すぐに窓際に寄っていった。
「どこだ!?」
「ほら、あそこ!!」
少年が指差す先。校門の辺り。
確かに、誰かが襲われ、そのまま崩れ落ちている様な影が見えた。
教師は目を細め、それを睨みつけながら携帯電話を取り出す。
短縮ダイヤルを使って呼び出したのは、グラウンドで生徒の指導に当たっている同僚だろうか。
「――おい、俺だ! 今、校門の辺りで人が倒れ――ああ、そうだ! お前も見たか!?」
「先生、どうなってんだ!?」
「霧が濃くて、誰かまでは――バカ、そんなこと言ってないで、とっととと傍によって確かめろ!!」
教師が携帯電話の向こう側の同僚に向かって怒鳴りつけると、グラウンドの中の影の一つが慌てた様子で校門の方に動き出したのが見えた。
窓際にはあっという間に教室の中の全員が駆け寄り、校門に向かって動く影を見守っていた。
「……先生」
「まて! まだ返事が返ってこない……!」
生徒の言葉に、教師は鋭く返す。
教師が抱いている緊張が、遠く離れている英人にも伝わってくる。彼も、不安を抱いていたのだろう。今の、この状況に。
「………」
「英人君……」
微かに震えた声を上げる湊の手を、英人は握りしめる。
突如発生した霧。上がった悲鳴。それらが発生する直前のサイレン――。
まるで、今目の前に横たわっている霧のように見通しのきかない状況。あまりにも日常から、かけ離れたこの状況に、英人は心臓がじわりじわり押しつぶされているかのような感覚に襲われていた。
「はっちゃん……俺の手も……」
「自分で包め」
不意に耳元で聞こえた武蔵の声に対し、英人は裏拳を解き放つ。
生憎裏拳は躱されてしまったが、おかげで少し心が晴れた。
「……お前、少しは空気読めよ」
「心無い幼馴染の裏拳! 俺は悲しい!」
変わらぬ武蔵の態度に、内心ほっとしつつも悪態をつく英人。
こういう時は、無理にでも明るく振る舞おうとする彼の態度は色々とありがたい。
お化け屋敷でも、己を貫く武蔵の強さは、英人にとっては少し羨ましく思う点であった。空気の読めなさは、見習いたくはなかったが。
「―――なに? おい、どうした!?」
と、不意に教師が声を荒げる。
武蔵と漫才している間に、何か進展があったようだ。
慌てて教師の方に目をやると、校門を睨みながら教師は電話の向こうの同僚に声をかけているところであった。
「なに!? 人が……大勢!? おい、だからなんだ!? お前、何を言って――!?」
不意に、教師が目を見開く。その瞳の中にあるのは、強い驚愕。
何かを見つけたわけではない。その目が見据えているのは中空。
だが、彼が驚いている理由は英人たちにも理解できた。
「『――ぃぃぃぃぎぃぃぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!』」
細く、長い、悲鳴が携帯電話の向こうから流れてきた。そして、校門の辺りからも。
重なる悲鳴はハウリングでも起こしているかのように、その場にいる全員の脳みそを揺らす。
「………!」
英人の産毛が逆立つ。身の毛のよだつような悲鳴。一体、何を見れば、どんな目にあえば、そんな声が出せるのだろうか?
……声が響き渡るのと同時に、校門辺りの影が濃くなる。
いや、数が増えたのだろうか? 濃くなった影が、ゆっくりと扇上に広がってゆく。
まるで、何かを探すように。
教師は数瞬呆けていたが、即座に携帯電話をポケットにねじ込み、校庭に向かって大声で叫んだ。
「校庭にいる全員ッ!!! 今すぐ校内に入れぇっ!!!」
果たしてどれだけの人間にその声が届いたか。即座に動いたのは、彼がいた場所の真下辺りに蠢いた影だけだ。
他の……校庭のあちこちにポツリポツリと点在している影たちは、その声か、あるいは見えない状況にか、戸惑ったように蠢くばかりだった。
「くっそ……!」
教師は即座に踵を返し、教室を飛び出していった。
「先生!!」
クラスメイトの一人がその背に声をかけるが、教師は振り返らない。
しばらく呆然としていたクラスメイト達が、すぐにハッとなったようにざわめき出した。
「な、なに今の……!?」
「悲鳴だよね……!?」
「なんだよ、なんだよ……!?」
クラスメイト達は先に聞こえてきた悲鳴に混乱している。
無理もない。連続して響き渡った悲鳴に、校庭に広がってゆく正体不明の影。
どちらも、理解できない事象だ。落ち着けという方が、無理がある……。
「………クソッ!」
やがて、場の空気の重さに耐えきれなくなった一人が教師を追って教室から駆け出してゆく。
何があったのか。これから何が起こるのか。
自分の目で確かめようというのだろうか。
「あ、待つんだ!?」
「おい、待てって!」
委員長の制止の声を振り切り駆け出す彼を追って、さらに数人が教室を飛び出してゆく。
騒然となる教室の中で、英人と武蔵は顔を見合わせ互いに頷き合う。
「……武蔵」
「……おう!」
二人は同時に駆け出し、教室の外を目指す。
「あ、二人とも!?」
そんな二人に向かって湊は手を伸ばすが、振り返った英人は彼女にこう告げる。
「湊はみんなと一緒にいてくれ!」
「だいじょーぶ! ヤバいのは分かってるから、すぐ戻るって!」
武蔵もまた親指を立て、英人と共に廊下を駆け出してゆく。
「英人君……武蔵君……」
湊のか細い声を背中に受けながら、英人は険しい表情で下り階段の先を見据える。
「妙な霧……さっきの悲鳴……武蔵、何だと思う?」
「霧っていやぁ、静岡系だな? 案外、俺たちみんな別世界に来ちまってたり?」
冗談めかしたようにそういう武蔵であるが、恐怖を誤魔化すように手汗を制服で拭く。
霧に埋もれた街が別世界となっていた……というのは創作ではよくある話だ。
だとすれば、この先で起こりうる出来事は、決して穏やかではないだろう。
英人は表情を変えないまま、武蔵を叱責する。
「……湊の前でそういうこと言うなよ」
「わかってますって! 湊ちゃん、ホラゲ苦手だもんなー」
あくまで調子を崩さぬ武蔵であるが、そんな友の姿に英人は安堵を抱く。
まだ、大丈夫だ。まだ飲まれ切っていない。
自分も、武蔵も。いざとなれば、湊を庇う程度には体が動くはずだ。
(……何があったか知らないが、湊だけは……!)
胸中で固く決意した英人は、霧が侵入し始めている学校の一階まで到達する。
漂う霧を見て、武蔵は顔をしかめた。
「うへぇ!? 霧が入り込んでやがるぅ……!」
「夏休みの間は、クーラーオフにする関係で窓とか出入り口を開放してるからな。そのせいだろ」
英人は武蔵の前に出ながら、霧の向こう側を見据えようと睨みつける。
学校の中の霧は、外に比べればまだ薄い。おかげで、玄関先程度までなら階段の位置からでも視認できた。
「早く中に入れ! 急げ!」
「みんな中へ! 慌てないで!!」
外から聞こえてくる大声は、教師たちのものだ。おそらく、校庭で練習などをしていた生徒たちを中へと誘導しているのだろう。
その声に導かれ、大慌てで中へと入ってきた生徒たちが、英人と武蔵の間やそばを通り抜けて階上へと駆け上がってゆく。
先の悲鳴が聞こえていた者もいるのか、異様に顔の強張った生徒もいた。
「おい! 待ってくれ! 何があったか……!」
「いや、無理っしょこの状況じゃ。もうちっと、前に出てみる?」
英人が周りの生徒たちに声をかけようとするのを、武蔵は制する。
英人は小さく舌打ちするが、武蔵の言うとおりだ。
無理に足止めをして余計に混乱し、こちらを攻撃してこられても困る。
それよりも、先に降りてきている連中がいるはずだ。そちらを探して、合流した方がいいだろうか……。
「……武蔵。先に来た連中は?」
「そばにゃいないねぇ。外に出てんのかな?」
武蔵は訝しげに眉を顰めながら、人の流れに逆らうように前に出てゆく。
霧のせいで、玄関先程度までしか見通せない。が、その辺りでうろちょろしている人影の姿はあった。
英人も武蔵と一緒に前へと進んだ。
「……少し出てみようぜ」
「おう」
二人は慎重に、玄関へと向かう。
「これで全員か!?」
「いえ、まだ何名か……!」
外にいた生徒たちの大半は校内へと入り込んだようだが、まだ何人か取り残された者もいるようだ。教師たちの焦ったような声が聞こえてくる。
それと一緒に、先に駆け下りていったクラスメイト達の声も。
「なあ、おい! 何が起こってるんだよ!?」
「いったいどうなってるんだ!? 分かるだけでいいから、説明してくれよ!」
「説明は後だ! お前たちも、中に入っていろぉ!!」
縋るようなクラスメイト達の声に対して帰ってきたのは、罵声にも等しい怒声だった。相当焦っているように思える。
そんな教師たちの視界に入らぬよう、物陰から英人と武蔵は校庭の様子を窺う。
「異様な焦りようだな……」
「悲鳴が上がるような状況なわけだし、納得っちゃ納得じゃね?」
「おぉい! まだ残っている者がいるだろう!? 早く、こっちにこぉい!!」
夏休みでも、部活の練習は夏期講習のために出てきている数名の教師たちは、必死に霧の向こうへと声を投げかけている。まだ、残っているはずの生徒を呼んでいるのだろう。
そんな、教師の呼びかけに対して返ってきたのは、木霊ですらなかった。
「 う ぅ 、 あ ぐ ぁ … … 」
呻き声。だいぶくぐもった、呻き声が聞こえてきた。
「!? 今のは!」
教師の一人が、声のした方に視線を向ける。
聞こえてきたのは、子供の声ではなかった……だが、彼らにとっては聞き覚えのある声だったのだろう。声の主と思しき名を、教師の一人が告げた。
「青山! そこにいるのか!?」
「 ふ ぐ 、 あ 、 が ぁ … … 」
呼びかけに返ってきたのは、呻き声。誰かがいるのは間違いないようだ。
……問題は、その呻き声、返事として返ってきた感じがしないということだ。
思わずといったように零れた吐息が、聞こえてきたように英人には感じた。
「………っ」
固唾を飲んで、教師たちの背中を見つめる英人。
やがて、呻き声とは別の音が聞こえ始める。
ひたり、ひたり、という足音と、何かを引きずるような音。
少なくとも、人を引きずるような重い音ではない……。
強いて言うなら、足か。足を引きずるような音が、聞こえてきている。
その音を聞き、教師の一人が声をかける。
「怪我をしているのか!? 早くこっちに……!」
何かから、誰かが逃げてきた。そう考えて声をかける教師。
その声に応じるように、人影は霧の向こう側から現れた。
「――え、あ」
その人影が、一歩前に出ると、ばたりと大きな音を立てて紅い滴が口元から零れた。
「――――」
「 あ が ぁ … … う、 げ 」
人が、人を喰らっていた。
そうとしか表現の仕様がない。大柄な中年男性が、青山と呼ばれた小柄な教師の喉笛を喰らいながら、ゆっくりと前進していたのだ。
青山がいくら小柄とはいえ、人一人を咥えながら歩く異様な姿の中年男性の目の焦点は定まらず、黒目があちらこちらを向いて痙攣している。
中年男性が一歩歩くたび、宙吊りのように揺れる青山教師の足がグラウンドをひっかく。聞こえてきた、足を引きずるかのような音の正体が、これだったのか。
「あお……やま……!」
異様すぎる光景に絶句する教師。
目の前の現実を受け入れられなかったのか、あるいは青山教師を助けるためか。
ふらふらと前に、手が差し伸べられる。
瞬間、中年男性がまっすぐに教師を見据えた。
「―――」
「………っ!?」
血走った眼で見据えられた教師が、身を竦ませる。
瞬間、中年男性が大声を上げた。