中間市:中間高校・3-B教室 -8:27-
突如、鳴り響くサイレン。
真面目に講習を受けていた者、半分くらい寝こけていた者、教壇に立つ教師……。
それら全員が、一様に同じリアクションをとった。
「な、なんだ!?」
教室内にいた全員、驚き戸惑い、辺りを見回す。
サイレンが聞こえてきたのは、校内の各所に備え付けられているスピーカーではない。
学校の外……すなわち、市内放送に使用されるスピーカーからだ。
「なに!? なになに、地震!?」
「ひょっとして火事か何かか!? やべーよやべーよ!」
あるものは怯え、ある者は興奮する。
驚きが過ぎれば、それぞれ勝手に騒ぎ始めるのは若さゆえだろうか。
退屈な日常の中に響き渡るサイレンは、英人たちにとっては非日常を告げる鬨の声のようなものだった。
「地震……かなぁ? 揺れ、なかったよね?」
「ですなぁ。女子の豊かなふくらみも、特段変化はなかったような?」
「見るべき部分、そこじゃないだろう……」
「ごべっ」
「武蔵君……自重しよ?」
下世話な武蔵の一言に拳で答えてやりながら、英人は湊と一緒に首を傾げる。
彼女の言うとおり、地面が揺れたような感じはしなかったし……。
何より、聞こえてきたサイレンは耳慣れないものだった。
いや、中間市では日常的にサイレンが鳴るわけではない。
だが、生まれた頃から暮らしているこの街のサイレンであれば、聞き覚えはある。
だからこそ、引っかかった。今聞こえてきたサイレンは、聞いたことのない音色だった。
そこまで、明確に差があるわけではない。だが、何か微妙に違う……。だまし絵を眺めているかのような気分になっていた。
「なんなんだ? 市内放送のサイレン、変わったのか?」
「……あー、おほん」
不審を覚える英人をよそに、教壇に立つ教師は聞こえてきたサイレンに対する戸惑いを即座に飲み下し、蜂の巣を突いたように騒ぎ始める生徒たちに喝を飛ばす。
「コラ! お前ら! 落ち着きなさい!」
「でも先生! サイレンが――!」
「サイレンが鳴ったからこそ、落ち着くんだよ! 騒いでちゃ、その後の放送が聞こえないだろうが!」
怯える少女を教師は一喝する。
中間市において、非常事態時にはサイレンの後、市内放送が流れる。
火事であれ、地震であれ、中間市市民はそれを聞いて適切な行動をとるのだ。
……もっとも、サイレン後の市内放送は地震の到来を告げるばかりではなく、迷い人の捜索願や、市内祭りの開催を知らせるものだったりするのだが。
教師の一喝を聞き、生徒たちは即座に静まり返ってゆく。
不安や興奮が静まったわけではない。だが、少なくとも教師の言葉の正当性を聞き入れるだけの理性は残っていた。
教師はそんな教え子たちの様子に満足げに頷き、自身も耳を澄ませる。
サイレンの後の放送が、他愛ない内容であればそれでよし。仮に地震などの大災害であれば、聞こえてくる放送の通りに、生徒たちを導けばよいのだ……。
… … … 。
……サイレンは、止んだ。
だが、聞こえてくるはずの放送が、いつまで経ってもやってこない。
「……あの、先生?」
「……おかしいな?」
無音の続く状況に耐え切れなくなった少女の言葉に、教師も眉を顰めながら首を傾げる。
先に述べたように、サイレンが鳴れば市内放送が流れる。これに、例外はない。
もっと言えば、サイレンそのものに意味はない。サイレンを鳴らすことにより聞く者に異常を伝え、その後に続く言葉に耳を傾けさせるものだ。サイレンの後に言葉が続かなければ、サイレンの意味がなくなってしまう。
サイレンだけを鳴らして、その後に続くはずの言葉を告げない。そんなことは、今までありえなかった。
「……なんだ、なんだ?」
「なにこれ……今までこんなの、なかったよね?」
「おかしいじゃん……」
「なんか、やだぁ……」
静かにしていた生徒たちも、沈黙に耐え切れなくなったようにざわめき始める。
教師はそれを見て、騒ぎを鎮めるように手のひらを強く叩いた。
「……あー、ほらほら! 静かにしなさい!」
「静かにっても、先生! 市内放送!」
「そういうこともある! ……まあ、先生もずっとこの街で暮らしてて、こんなことになったの初めてだけど……」
教師は生徒たちには聞こえないようぼそりと呟き、その呟きを誤魔化すように咳払いをする。
「……ご、ごほん! ともかく! 放送が流れないってことは、大したことがないってことだ! お前たちも受験生なんだから、そんなに騒ぎ立てるんじゃない!」
生徒たちを諌めるように一喝してから教師はちらりと時計を見上げ。
「――それじゃあ、丁度いい時間だし、いったん休憩だ! 十五分したら、講習再開するから、席についているように!」
「あ……」
それだけ告げ、そのまま逃げるように教室を去っていった。
生徒たちからの追及を避けるような彼の行動を前に、そこかしこから失笑や嘲笑が上がる。
「なんだあれ。かっこわりぃ」
「都合が悪くなったらガン逃げだよ……」
「始めから期待なんてしてないけど、あれはないよねー」
「だよねー」
教室の中の生徒たちは好き勝手口々に言い合いながら、背を伸ばしたり携帯を弄り始める。もう、先ほどなったサイレンのことなど気にしていないかのようだ。
英人はそんな教室の中を眺めながらも、渋面を崩さなかった。
「………」
「あれ? どうしたの、英人君」
「いや、さっきのサイレン……」
湊に問われ、英人は軽く頭を振りながら、窓の外に目を向ける。
突き抜けるような青空の下にあるはずのスピーカー。見えるはずのないそれを睨みながら、自身の感じたことを口にする。
「今まで、聞いたことのないサイレンだったからさ……。なんか、気になるっていうか……」
「……そうだっけ?」
「あー、言われてみれば」
英人の言葉に武蔵が同意するように頷く。
「確かになんかこう……微妙に音程が違うっていうか……ちょっと高かったかな? いや、低かったかな?」
「どっちだよ。いや、高い低いはともかく……。耳慣れないっていうか」
この違和感をどう表現したらいいのかわからず、英人は乱暴に頭を掻き毟る。
……結局うまい言葉が見つからず、英人はあきらめたように一つため息をついた。
「……ともかく、いつもと違う感じがした。なんか、ボタンを掛け違えたみたいに、引っかかるんだよな……」
「んんー。はっちゃんは気にしぃだなー。あんなの、機械の調子がちょっと悪かったくらいなもんっしょー」
英人とは対照的に、武蔵はなんてこともないようにそう告げ、後ろ頭に手を組んだ。
「ほら、マイクが変わると歌の調子の変わる歌手みたいな? あとで市役所にでも文句言ってやればいいじゃーん?」
「武蔵君の言うとおりだよ。そんなに、気にすることじゃないよ」
「……うん、まあ」
湊も微かに微笑みながら、英人を諭そうとする。
英人は湊の言葉に小さく頷く。彼女の笑顔の裏にある、心配そうな気配を察し。
「湊のいうとおりかな……ごめん」
「うん、いいよ別に。気になるのは仕方ないんだし」
「あれー? 俺の意見は聞いてくれないのはっちゃん」
「自動で却下」
「ひでぇ」
武蔵は笑い、それから窓の外に目をやり。
「まあ、確かに変な音がしたら気になるもん――おりょ?」
不意に、声を上げる。
そのまま窓に近づいてゆく武蔵の背中を英人は視線で追った。
「どうした、タケゾウ?」
「いや……あれ? なんだ? 北側の方……」
武蔵は目を凝らし、自身が見たものの正体を口にする。
「……うん、やっぱりそうだ」
「だから、なにが?」
「いやさ。さっきはなかったんだけど……北から霧が寄ってね?」
「……はぁ?」
武蔵の言葉に、英人は素っ頓狂な声を上げる。
霧が寄ってくるとはまた面妖な。
「お前……霧が寄るってなんだよそれ……」
「いやほら。はっちゃんも見てみて。霧が寄ってるようにしか見えないから」
「いや、いくらなんでもそんな……」
武蔵の言葉に首を振りながら英人は窓枠に手をかけ、外を――中間市の北側に目をやる。
すると、武蔵の言葉を証明するようにゆっくりと白い霧が中間市を覆っているのが見えた。
白い霧はゆっくりと……しかし確かに中間市を侵食し、辺りを白く染め上げていっている。
「……確かに、霧が寄ってる、な……?」
「なー? 言った通りだべ?」
「なにあれ……」
湊もまた窓枠により、霧の浸食を目にして、目を丸くしている。
「こんなの初めて見た……すごぉい!」
「ん? なんだなんだ?」
「霧がどうしたって?」
思わずといった様子で出た湊の歓声を聞き、教室の中でたむろしていたクラスメイト達も窓の傍に寄ってくる。
「……お? なんだこりゃ!?」
「うわすげぇー!」
「町中でスモーク焚いてるみたい……!」
霧が広がる様を見たクラスメイト達も、口々に歓声を上げる。
霧が広がってゆく光景は、一種の幻想のようであった。
見たこともない景色を前に興奮するクラスメイト達とは反対に、英人の表情は硬い。
「なんだこれ……。霧って、こんなふうに広がったりしないだろ……」
「確かに。自然現象としてはあり得ない」
クラスの中でも秀才で通っている委員長も、英人の言葉に同意するように頷き、眼鏡を押し上げる。
「だとしても、人工的なものとも言い難い。これだけの量の霧を発生させるなんて、前準備もなしにできはしない」
「……じゃあ、今目の前で起こってるこの光景は何なんだよ……」
広がってゆく霧はやがて、学校の校庭にまで届き、グラウンドを白く染めてゆく。
突然の霧にグランドで動き回っていた生徒たちが悲鳴とも歓声ともつかない声を上げ、身を竦ませているのが見えた。
「……もう学校まで届いたぞ……」
「ゆっくりに見えたけど、結構スピード速かったのかね?」
のんきな武蔵の言葉を証明するように、霧の浸食は学校を通り過ぎて行った。
後に残るのは真っ白に染まった校庭と、中間市の姿だけだった。
霧は民家の一階の屋根を覆いつくし、その下にある姿をすっかり覆い隠してしまっている。
グラウンドにいる生徒たちの姿も、かろうじて見えるか見えないかといったところだ。校門の辺りまでは何とか人影が見えるが、そこから先はもう白い霧に包まれて何が何だか分からなくなっている。
「……自然の霧でも、ここまではならないだろ、普通……」
「……んだなぁ」
顔を引きつらせる英人。真顔で頷く武蔵。
目の前の状況に、クラスメイト達も困惑し始める。
先ほどまでの幻想的な光景に対する感動もさすがに冷めてしまい、今はなにが起こっているのかわからない不安の方が大きくなっていた。
「……なんかのイベント?」
「バカ、イベントっつっても、こんな霧出せねぇって委員長いってるじゃねぇか……」
「じゃあ、他になんだってんだよ!?」
「……あ! さっきのサイレン、このイベントを知らせるためのものだったり!」
「あ、そっかぁー! なら納得! ……できる?」
「全然」
普通はあり得るはずのない、異様な光景。
先ほど鳴り響いた、唐突なサイレンと合わせて強い不安を覚えた一人の少女がポツリとつぶやいた。
「……もう、世界には私たちしか残ってなかったりして」
「ちょ、やめなよー! そういうこというの!」
「そうそう! ファンタジーやメルヘンじゃねぇんだから!」
不安げな少女の言葉を吹き飛ばすように笑い声を上げるクラスメイト達。……いささか、その表情は引きつっていたが。
こうしたイベントや……町内の異常を告げるための市内放送スピーカーは、沈黙を保ったままだ。
一瞬、痛いほどの沈黙が教室に舞い降りる。
「よし! 講習の続きを始めるぞ! 皆席に着けー」
それを打ち破ったのは、教室の中に入ってきた教師であった。
彼は窓際に集まっている生徒たちの姿を見て、声を張り上げる。
「ん? なんだお前ら、そんなところで……。休憩は終わりだ! 早く席に着きなさい」
「あ……先生!」
自らを叱る教師の存在に、不安を口にした少女がホッと安堵したように表情を緩める。
教師はそんな少女の様子を訝しげに見つめるが、すぐに気を取り直したように言葉を続ける。
「? よくわからんが、皆席に着いて、講習を――」
「いやそれどころじゃねぇって! 外! 外見ろって!」
教師の言葉を遮り、窓の外を指差す生徒の姿に、教師は眉根を顰める。
「お前は相変わらず言葉遣いが……まあいい。外がどうしたんだ?」
「外! 霧だらけじゃんか! こんな明らかにおかしい――!」
「霧? 霧がどうしたんだ?」
教師は少し語気を荒げながら、生徒を叱りつける。
「確かに外は霧だらけになったが、それが一体なんだというんだ? 霧くらい、中間市でだって出てくるだろう?」
「だからってこんな……!」
「そんなことで騒ぐ暇があるんなら、勉強しろ勉強を! お前はただでさえ全国模試順位、最低レベルだろうが!! そういう小さなことで騒ぐ小さい男だから、勉強もできないんだろうが! 男ならもっと、どんと構えろ!!」
「っ……! 勉強は関係ないじゃんか!!」
自身の成績のことをはっきり言われ、少年の顔が真っ赤に染まる。
だが教師はその程度で彼を許すつもりはないようだった。
「関係ないわけないだろう! 余裕がないからそういう小さなことが気になるんだ! 勉強して余裕ができれば、霧程度で動揺なんぞするか!」
「くっそ……!」
少年は一瞬悪態をつきかけるが、すぐに口を閉じて乱暴に自分の席に着く。
教師の言うとおり、ただ霧が発生しているだけだ。確かに霧としては異常ではあるが、だからと言って特別騒ぎ立てるような事象とも言い難い。
こういうことも、まれによくあるのだろう。世界中では、異常気象が騒がれているわけだし。
不満たらたらといった様子で席に着く少年の姿を見て満足そうに頷いた教師は、まだ窓の傍に立っている残りの生徒たちに向かって、やや語気荒めに声をかける。
「……ほら! お前たちも、早く席に着け!」
「……はい、わかりました」
教師の言葉に委員長が頷き、それに従うように残った生徒たちも席に着いてゆく。
あまりにも直接的な教師の物言いに対して、意見がないわけでもないが……この場においては彼の方が正しいだろう。
中途半端な時間で講習を中断したのは彼だとはいえ……この場にいるのは、夏期講習を受けるために集まった生徒たちだ。教えを賜る立場で、一々教師に逆らっていてはやってられない。
英人も不可思議な現象に対する不信は募るものの、大人しく自分の席に腰を落ち着ける。
まあ、霧が出てきたとはいえ、そんなに長くとどまるものでもないだろう。どうせ一時間もすれば晴れるに違いない。その間は、夏期講習に集中していればいいだろう――。