中間市 -8:14-
自動ドアを抜けて中に入ると、シンと冷え込んだ病院内の冷気が体を凍えさせる。
耳を澄ませてみると、どうも冷房が動いているようであった。夏場であれば当たり前だが、人気のないこの病院でいったい誰がそんなものを動かしたのだろうか。
……そう、人気が無い。三日前の時点で大勢の入院患者がいたはずの総合病院の中に、生きた人間の気配がしなかった。
入ってすぐの入り口の時点で、病院内で起きた惨劇をうかがわせる臓物のオブジェが塗りたくられているせいだろうか。少なくとも、生きた人間がいるようには思えなかった。
「………」
英人は引きずり出されたらしい臓腑を踏みつけながら病院入り口のカウンターへと近づき、この惨状の手がかりになりそうなものを探した。
程なくして、昨日で日付が停止している日捲りのカレンダーが目に入った。
「昨日……ってことは、昨日の時点ではまだ生きてる人間がいたのか……?」
日付から察するに、この日捲りカレンダーが最後に捲くられたのは昨日の朝だろう。少なくともその時点では病院入り口付近は異常が無かったと考えられる。
……ならば病院内で感じる大量のノイズの正体は……。
「………」
英人は慎重に周囲を睥睨する。病院に入った途端、ここまで英人を誘導してきた触肢子供は姿を消していた。
役目は果たしたと言うことか。……いきなり携帯を見つける手がかりを失ってしまった。
「チッ……」
忌々しげに舌打ちしながら、英人は試しにノイズを探ってみる。
病院中に散らばる多数のノイズ。これらを一つ一つ判別し、固体の認識が出来れば先の触肢子供を見つけられると思うのだが……さすがにそこまで便利にはなれないようだ。どこまで言っても、ノイズはノイズでしかなかった。
やむなく英人はカウンターを離れ、適当に病院を探索してみることにした。
ほんの昨日までの間は生きている人間がいたのであれば、ひょっとしたら携帯の一つも見つかるかもしれない。一番いいのは自分の携帯を手に入れることであるが、最悪使えれば何でもいいだろう。
カウンターを離れしばらく歩くと、診察室の姿が見える。
内科に外科に整形外科。その隣にあるのはリハビリテーション科、と言うらしい。
普段病院のお世話になることはほとんど無いため、少々不謹慎ではあったが病院の中をゆっくり見て回ることができるのは新鮮な気分であった。
……とはいえ、扉の節々に血の跡がべったり付いているのを見ると気分が滅入ってくるわけなのだが。
「……これじゃ、医者もいないだろうな……」
いたとしても元医者だろう。対話すら可能かどうかもわからない。
惨劇の跡を横目に流しつつ、英人は周囲の様子を窺う。
今いる場所は診察室が集中しているらしい。英人の記憶が確かならば、すぐ上の二階にも診察室が並んでおり、奥のほうへ進むと病棟になっていたはずだ。
ノイズが集中しているのも、感じ的には病棟だろう。携帯電話を持って逃げた触肢子供がいるのも、携帯が捨て置かれている可能性があるのも皆病棟だ。
とりあえず、まっすぐ病棟を目指すべきか。
そう決め、英人は一歩踏み出す。
―カワイイネェ―
不愉快な声が聞こえてきたのはその瞬間だった。
砂嵐のような音の入り混じった、人間の声。
男か女かもわからなくなったその声の主は、唐突に英人の背後に現れた。ノイズの出現も、いきなりだった。
「ッ!」
反射的に後ろ足を蹴り上げる英人。
だが手ごたえは無く、ノイズも消える。
足を下ろした英人はゆっくりと振り返る。
当然後ろには誰もおらず、化け物の姿形も認められない。
―カワイイコヲ、ツレテルネェ……―
しかし声は聞こえてくる。それも英人の背後から。眠っている礼奈の顔を覗き込んでいるような感じで。
―アア、カワイイコ……タベテシマイタイクライ、カワイイネェ……―
「……礼奈に触れるんじゃない。殺すぞ」
英人は怒気も露にし、端的に相手を威嚇した。
言葉に込められた殺意は重く、心臓を貫くような冷たさを伴っていたが……声の主はそれが聞こえていなかったようだ。
―アア、カワイイ、カワイイコォ……―
「………」
こちらの言葉を無視する声の主に対する苛立ちを隠さず、英人はさらに怒気を強める。
明らかに一瞬即発の雰囲気を放ち始める英人に対し、声の主はあっけらかんとこんなことをのたまった。
―カワイイ、コノコ……マモッテアゲヨウネェ―
「なに?」
―コワイコワァイバケモノカラ……マモッテアゲヨウネェ―
「なにをわけのわからない――」
英人は正体不明の存在の発言に対し、苛立ちを叩きつけようと口を開いた。
……その時だった。礼奈の体と自分の体を結んでいた紐が、するりと解けたのは。
「――な」
―マモッテアゲルヨォ……コワイコワイ、バケモノカラァ……―
ずるりと英人の背中から滑り落ちる礼奈。
その体が地面に触れる前に、何者かが礼奈の体を抱え上げ、そのまま彼女を連れて行こうとする。
「………!?」
―サア、オイデェ……? ミンナ、ミィンナ、マモッテアゲルカラネェ……―
ふわりと浮かび上がった礼奈は、まるで磔にされているかのような体勢で英人から遠ざかってゆく。
もはやか細い息も聞こえず、死んでしまったかのように瞳の閉じられた表情は真っ青であった。
あまりのことに呆然となってしまった英人は、礼奈の体が病棟の奥へと消えていくのを目の当たりにし、その姿が消えた辺りでようやく我に返った。
「ま……まてぇ!!??」
一気に駆け出し、礼奈が消えた曲がり角へと飛びつく。
礼奈が消えてしまった方向へと視線を向けるが、すでに彼女の姿はどこにも存在していなかった。
愕然となる英人。まったく、予想だにしない事態であった。礼奈が……化け物に連れ攫われるなど。
「なんだ……!? 一体、何が……何がおきてやがるんだ……!?」
片手で顔を覆い、うわ言のように呟く英人。
ノイズは感じなかった。聞こえてきたのは声だけだ。ここにたどり着くまで、ノイズの感じない化け物が存在するなどとは思っても見なかった。
姿も見えなかった以上、透明化できる化け物もいると見て相違ないだろう。……そんな単純な判断すら下せないほど、英人の思考は乱れる。
「くそ……! 礼奈……!!」
その重さを感じないほどに弱っていた彼女が離れた途端、ずしりと重石が圧し掛かったように英人の体が沈みこむ。
先ほどまであったはずのものが無い。ただそれだけで、英人の心は折れかかっていた。
絶対に。助けると決めていた。
だが、彼女は化け物に連れさらわれてしまった。何の目的を持っているかもわからないような、そんな連中に。
ここまで英人を連れてきたのは、初めから彼女が目的だったのだろうか。
「くそ……! くそ……!」
膝を、手を突き、うなだれる英人。
口から漏れるのは怒りと憎悪、悔しさとふがいなさがない交ぜになった呟きばかりだ。
一瞬の油断が、英人の背中から全てを奪っていった。
化け物に連れて行かれてしまった礼奈の命運は、もう――。
―シィ!―
―キァ!―
ズブズブと、沼のような絶望につかり始めていた英人の意識を、現実に引き戻す者たちがいた。
触肢子供だ。どこからかいつの間にか現れた触肢どもが、英人の体に飛び掛りその指や牙を突きたててきた。
肩に食いつかれ、背中から肺を貫かれる。
鮮血が吹き上がり、電流のように体中を痛みが駆け抜けた。
「―――」
思考に空白が生まれたのは一瞬。
次の瞬間には、英人の思考は赤く染まっていた。
「――どけぇぇ!!!」
紅蓮のごとき、赫怒。今一度湧き上がったその感情に任せ、英人は両腕を振るう。
背中に礼奈のいない、遠慮呵責の一切ない全力の一撃。
英人がそれを振るった瞬間、爆ぜる様な音共に触肢どもの体が消滅した。
悲鳴さえ上げることなく、英人のこぶしが触れた瞬間、体の内側から弾けるように、触肢どもの体が粉砕されたのだ。
「………礼奈」
そのまま辺りを漂う塵と化した触肢どもに一瞥もくれず、英人はギラリと前に伸びる廊下を睨み付ける。
「……必ず、助ける……!」
好きにさせてなるものか。
人ならざるもの共に、最後に残った妹を……好きにさせてなるものか。
痛みと共に引っ込み、今再び沸きあがろうとする後悔を握りつぶしながら、英人は一歩ずつ踏み出してゆく。
すでに癒えてしまった傷が、英人を再び立ち上がらせた。先の一瞬で体を駆け巡った激痛。それが、いずれ礼奈に襲い掛かる未来なのだと。
礼奈は、必ず助けてみせる。失いかけた目的を再び取り戻し、英人は妹を助けるために病院内を歩き始めた。
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