中間市 -7:53-
―……ミツケタ―
耳障りな異音と共に呟きが聞こえてきたのは、英人が一歩踏み出し始めたときだった。
「っ!」
英人は素早く周囲を確認する。
いつの間にか、ノイズがかなり近くまで寄ってきているのを感じた。
全力疾走していたせいで気がそぞろになったか……とも思ったが、どうもおかしい。
そいつのノイズの気配はとても小さく、意図的に自分の気配を隠している……と言った風情に感じるのだ。
感じるノイズは反対側の壁の向こう側。ノイズの主はゆらりと体を動かし――。
―シャァッ!!―
「!」
鋭い呼気を吐き、上へと飛び上がった。
その辺りにある家屋ならば余裕で飛び越えられるほどに飛び上がったそいつは英人の真上を跳び越し、そのまま近くの家の屋根へと着地。
英人が視線を巡らせるより早く、屋根の上を飛び跳ねながらいずこかへと去ってしまった。
「………早い」
英人は油断なく先の化け物が去っていった先を睨みながら小さく呟いた。
今までとは明らかに動きが異なる。
動きのよさではない。いや、それも十分驚くに値するが、それ以上に逃走という選択肢を取ったことに驚愕を隠せない。
今まで英人に向かってきた化け物たちは、とにかくがむしゃらに英人へと突っかかってきた。
その後どうなるかを考えない特攻。相手のことを殺傷せしめることしか考えない蛮行。それが、今までのゾンビを含めた全ての化け物たちの行動だった。
だが今の化け物はこちらを発見すると同時に即座に逃げ出した。偵察を旨とする斥候のような動きだ。組織だった行動原理がなければ、ああいった選択肢はないだろう。
一瞬であったため正確な判別はつかなかったが、恐らく触肢を持つタイプの化け物だ。大きさは子供タイプより一回りか二回りほど大きい。
そして見間違いでなければ……中間高校の制服を着ていたように思えた。
「………ッ!」
英人は奥歯をかみ締めた。脳裏に最悪の想像が浮かんでしまったためだ。
あれが仮に中間高校の生徒の一人であるとするならば、湊たちの篭っていた中間高校はすでに崩落してしまった可能性があるのだ。
……だが、英人があの場所を追い出されるのと同時に中間高校を脱出した者たちもいるはずだ。そうした者の一人が、化け物に堕ちてしまった可能性も十分にありうるはずだ。
どちらにせよ、化け物はもうすでに立ち去った。これ以上関わる必要はない。
ミツケタ、の一言が何を意味するのかが気にかかるが……。
「………はぁ」
英人は気を取り直すように息を吐きながら総合病院へと向かう。
携帯電話を取り出し、目印になりそうなものを探しながら歩き始めた英人であったが、今度は真上にいくつかのノイズを感じまたしても足を止める羽目になった。
「………」
薮睨みに上を見上げると、霧の向こうに数匹の怪鳥の姿が見える。
英人の上を周回している怪鳥たちは、まるでこちらの隙を窺っているかのように英人の頭上をついて離れない。
……先の斥候の報告を受けてこちらの監視にでも来たのだろうか。
英人はとりあえず無視を決め込もうと考え、総合病院への道を歩き始めたが、怪鳥たちは離れる様子もなく以前英人の頭上を回り続けている。
「………」
差し当たって近場のコンビニを目指して歩く英人であったが、意識は頭上を回り続けている怪鳥たちに向きっぱなしであった。
「………」
体の構造のみに焦点を絞れば、怪鳥は驚異的な相手とは言い難い。例え先手を取られても、腕を噛まれただけでは致命傷にはならないし、今の英人であれば先手を取り返す自信もある。
しかし、それも同じ土俵に立てた場合の話だ。そもそも怪鳥のテリトリーは空。同じ土俵に立たないことが、連中の戦術の前提となる。
さすがに空を飛ばれては、英人にも手が出せなくなる。いや、わざわざ空まで追いかけるメリットがないというべきか。
その気になればその辺りの電柱でも投げつけてやる程度のことは出来そうではあるが、全力振り絞ってそんなことしても叩き落せるのは怪鳥が数匹。そんなことする暇があるなら、一歩でも先に進むべきだろう。
怪鳥どももそれを理解しているのか、英人のほうへと下りてこようとはせず、ひたすらにこちらの上空を取っている。
「……チッ」
首筋にチリチリした何かを感じ、英人はいらだたしげにそこを掻く。
いやな感じだ。こちらに対して無理に仕掛けてこようとはしない。だからこそ、いらだたしい。
今までであれば問答無用で襲ってくるだけだったから、まだ単純だった。襲ってくるなら迎え討てばいい。
だが、今真上にいる連中はこちらに襲い掛かってくる気配がない。ずっと、ずっと英人についてくるだけだ。
まるで、目印か何かのように。襲うのではなく、張り付くことで己の役目が果たせるとでも言うように。
……それはまるで、一介の見張りであるかのように。組織立った動きで、英人を監視しているかのように。
「………」
仮定が疑念を生み、英人の中の焦燥感をじりじりと焼き始める。
今まで何とか逃げ切れてきたのは、化け物たちに群れて行動し、組織だって動く気配がなかったからだ。
怪鳥はただ漫然と空から襲い掛かり、巨人は自らのテリトリーからあまり動かず。
触肢人間は蜘蛛か何かのように獲物に襲い掛かり、黒い女は影の中に隠れ。
……だからこそ、逃げ遂せた。今まで出会ってきた化け物たちは、基本的に一種のみで襲い掛かってきたから。
一番群れをなしたように見える黒い女とて、奴を中心にゾンビが動いていただけだ。大きな犠牲を払いはしたが、だからこそ一度に殲滅することも出来た。
あれが小分けに襲い掛かり、そして黒い女が生き残っていたのであれば……英人は生きていなかったかもしれない。
確かに数の暴力は恐ろしい。だが、ただそれだけでは単一の力であり、見極めさえ誤らなければ切り抜けるのは難しくない。
こうした化け物たちを相手にするうえで最も恐ろしいのは……それぞれの力を適切に運用されることなのだ。
「……クソ」
人気のないコンビニの入り口付近に手を付き、怪鳥たちの視線から隠れつつ英人は息を付く。
見られているだけだというのに、酷く疲れる。軽くにじんできた冷や汗を乱暴に拭った。
姿が見えなくとも、ノイズは相変わらず真上に感じている。
何もない。ただそれだけで、今まで相手にしてきた化け物よりも遥かに消耗させられていることを、英人ははっきりと自覚していた。
「……わけわからねぇ。クソ」
英人は忌々しげに呟きながら、上空を漂うノイズを睨み付ける。
普通の人間であれば気が付かない位置の怪鳥たちであるが、ノイズと言う形で化け物を感知できる英人にとってははっきりと認識できるせいでどうしても気になってしまう。
仮に付かず離れずの距離を保つことでこちらの消耗を狙っていると言うのであれば、きわめて有効な作戦だといわざるを得ない。
……やはり、指揮官が付いたと考えるべきだろう。化け物たちを統率する指揮官が。
「………」
英人は瞑目し、しばしたたずむ。
暗くなった視界の中に、白く浮かび上がるノイズのイメージ。
上空に三つ。そして英人を中心に半径十メートル半径以内で確認できる数が、五、六といったところか。
いずれも英人が一足飛びに跳びかかれない距離を保ちつつ、こちらの様子を窺っているようだ。
今、英人の周辺にいる化け物たちはこちらの様子を窺っている。
では、その理由は? 何らかの作戦に基いて動いていると言うのであれば、何らかの作戦があるはずだ。
何を狙って動いている? 一体、何を――。
―シッ!―
「!?」
一瞬、思考に耽った瞬間。
手にしていた携帯電話を一瞬で掠め取られた。
触肢となった子供は逆さになったまま携帯電話を握り締め、そのまま英人の視界から脱兎のごとく逃げ出してゆく。
「っ! 待てぇ!!」
英人は叫びながら触肢子供を追いかける。
いまだ霧の濃い中間市を歩いていられたのは携帯電話のマップがあったからだ。
今あれがなくなってしまうと、総合病院に向かうどころか家に戻るのさえおぼつかなくなるだろう。
何とかして取り返さなければ。
英人は背中の礼奈を背負いなおしながら、必死に足を動かす。
触肢子供は片手に携帯電話を握り占めながら、残った三本の足を使って器用にコンクリート塀を駆け抜けてゆく。
霧の中にまぎれかねないほどに早いが、まだ辛うじてその背中を追いかけられている。
「クソッ!」
己の迂闊に唾棄しながら、英人は全力で触肢子供を追いかける。
やがて英人の足がコンクリートに皹を入れるほどの力を生み出し、触肢子供の速度を超え、一気にその背中へと接近してゆく。
―!?―
触肢子供の動きが、目に見えて慌て始めた。まあ、轟音響かせながら後ろから何か迫ってきたら人間でなくともビビるだろう。
「返してもらうぞ……!」
手の触れる距離まで一気に近づいた英人は、触肢の一本を捕らえるべく腕を伸ばす。
―シィッ!!―
「ッ!」
だが、それを阻むように英人の真上を滞空していた怪鳥の一匹が強襲をかけて来た。
背後からの強襲に対応すべく、英人は速度を殺さないまま振り返り、手刀の一撃で怪鳥の首をへし折る。
そのままもう一度反転し、触肢子供の追跡を再開したときにはもうかなり距離を離されていた。
「チッ……!」
苛立ちを隠さないまま英人はもう一度触肢子供の背中を追いかける。
そしてスピードを上げようとした瞬間、再び怪鳥が襲い掛かってきた。
―イイィィッ!!―
「邪魔だ!!」
今度は振り返ることなく拳をふるって怪鳥を叩き落す。幸いなことに、触肢子供はまだ見える範囲に姿があった。まだ追いつけそうだ。
壁の染みとなった怪鳥を無視して駆け出そうとしたとき、正面にまた怪鳥が現れた。
―ギギィ!!―
「………?」
さすがにここまで来るとおかしいと英人は感じた。今まで不動の位置を貫いていた連中が、触肢子供を追いかけ始めた途端、こちらに下りてきて襲いかかってきた。
まるでこちらの足を止めるように。
「いまさらなんだってんだ」
英人はそのままもう一度拳をふるって怪鳥を打ち払い、もう一度前を見据える。
触肢子供は、まだ英人が辛うじて背中を見れる距離にいた。
いや……立ち止まっていた。こちらが動き出すのを待つかのごとく。
「………」
英人が駆け出すと、触肢子供も駆け出した。今度は速度を上げないよう、しかし離れすぎないような速さを保って触肢子供を追いかけてみた。
その背中は相変わらず霧にまぎれて消えてしまいそうではあったが……不思議と見失うことはなかった。
まるで、英人をどこかに誘うように。
「……誘ってんのか?」
英人は不審げに呟きながら触肢子供を追いかける。
一体どこをどう駆け抜けたのか。何度か角を曲がり、そのたびに触肢子供を見失いそうになりながらも走り抜けた英人はやがてある建物にたどり着いた。
「……!」
広大な敷地を持つ白亜の建造物。多量の霧の中にあっても圧倒的な存在感でそこにある施設。
……中間市立総合病院。英人が目指していた場所が、そこにあった。
「ここは……」
英人が慎重に総合病院の敷地内に入ると、ちょうど触肢子供が病院の入り口付近にたたずんているところであった。
触肢子供は手にした携帯をわざと見せ付けるように振ると、そのまま自動ドアを潜り抜けて中に入っていった。
……英人を誘い込むように。
「…………」
……病院の中には無数のノイズを感じる。明らかに罠の気配しかしない。
だが、触肢子供に携帯を奪われたままだ。この先まともに動く携帯があれ以外に手に入るとも限らない。
選択肢はなかった。
英人は無言のまま病院の中へと駆け込んでゆく。




