中間市 -7:41-
蟹岡医院を後にした英人は、いまだ霧煙る中間市の西側を目指しつつ総合病院へと向かう。
もはや蟻の足跡ほどに小さな手がかりであったが、蟹岡医院で得た情報は英人にとっては唯一の指針であった。
西側における奇妙な病気の蔓延。風邪にも似た症状が出るようであったが、実際は風邪などでは済まされない症状だったのだろう。
「 …… ………」
背中に背負っている礼奈の呼吸がか細く、耳で聞き取れないほど小さくなってしまっている。
仮にこの症状が今中間市を席巻しているであろう謎のウィルスによるものであるならば、遅かれ早かれ礼奈も蟹岡医院で見たような化け物たちの仲間入りを果たすのだろう……。
噛まれればゾンビに、噛まれずとも化け物に成り果てる……。中間市でバイオテロを図った連中は、よほど性根か根性、はたまたその両方が腐っているに違いない。
天井に刺さった鉈を回収できず、空手のまま総合病院を目指す英人は薮睨みのまま前を見る。
ちょうど、進行方向から数名のゾンビたちがこちらに向かってやってくるところであった。
「 あ ー … … 」
「 う ー … … 」
口を大きく開いたしまりのない表情をしたゾンビたちは、英人を目視で確認したらしくやや歩調を速め始める。
対し英人は無言のまま前へと突き進む。
彼我の距離は十メートル前後。その程度の差は程なく埋まり、両者が触れ合えるほどに近づいていった。
「 あ ー … … 」
ゾンビは英人の体が射程に入った瞬間、両手を挙げてその体を掴もうとする。
だが、それより早く英人は足を振り上げる。
股間を蹴り上げるような形で振り上げられたつま先は、そのままゾンビの腹へと突き刺さった。
瞬間、臓腑どころか骨もはじけ飛んだかのような鈍く、そして凄まじい音がゾンビの体内から響く。
「―――!」
痙攣は一瞬。次の瞬間、ゾンビは大量の血液を口から吐き出し、そのまま前のめりに倒れこんだ。
足にゾンビの吐血を浴びながら英人はその体を避け、迫ってくるもう一体のゾンビの顔面に裏拳を叩き込む。
鼻骨の砕ける音共に、ゾンビは大きく仰け反った。
「ぴぎっ」
小さな悲鳴を残し仰向けに倒れるゾンビ。
ごしゃっ、と鈍い音を立てた後、そのまま沈黙するゾンビを一瞥し、英人はそのまま前へと進んでゆく。
倒れたゾンビの顔面は見事に英人の拳の形に陥没し、どう見たところで生きてはいないと見るものに感じさせた。
異常とさえ言える身体能力の上昇……英人もそろそろこの力に慣れ始めていた。
必要であるときに、必要な分だけ使うことが出来るためかなり便利だ。限界値を知る機会があれば、どの程度できるのかは確認しておきたいものだが、そんな機会はないだろう。
そして一晩経っても人間としての意識を保てている自分に対し、いい加減化け物となってしまう恐怖も薄れてきてしまっていた。
まあすでに肉体は人外の領域だが、意識のほうはもうずっとこのままなんじゃないかと思っている。
突然ノイズが聞こえ始めたときにはいよいよ駄目かもしれないとあきらめかけたものだが、結局それも一時の感情だった。
――だがそれも、今も背中で苦しんでいるたった一人となってしまった家族……妹の礼奈の存在が大きいのだと英人は感じていた。
「 …… ………」
浅い呼吸を繰り返しながら苦しんでいる礼奈。家を出てきたときにはまだしっかりと掴まれていた英人の背中からは、もう指が離れてしまっている。
ふとしたきっかけで振り落としてしまいそうなほどに、はかない彼女の体を改めて背負いなおしながら、英人は前を見据える。
決して、彼女は両親の元には行かせまいと。
礼奈は今年でまだ8つ。人生の酸いも甘いもまだ知らぬ年頃だ。
英人とてそんなものを感じた記憶はないものであるが、その片鱗を感じたことくらいはある。……その記憶の大半が湊に関わるものだと思い出して、少しだけ胸を痛めた。
だが、礼奈にはそんな甘酸っぱい思い出もないだろう。英人に比べれば社交性に富み、この年でもたくさんの友達がいる礼奈であるが、色恋にはまだまだ疎い。
そもそもそんなものをまじめに考える年でもないだろうが、それを知らずに逝くのは許されないだろう。礼奈自身ではなく……その命を守れなかった者たちが。
「…………」
父も母も。かけがえのない小さな命を守るために、全力で命を賭した。
だがその命も、今は風前の灯となり消えようとしている。
何もわからぬ英人では、どうしたらよいのかわからない。得た手がかりとて、何の取っ掛かりになるかさえわからない。
だが、それでも進まなければならない。礼奈の命を絶えさせるわけにはいかないのだ。
「―――」
そう。例え。
―ボアァァァァァァァ!!!―
眼前に何が立ちふさがろうとも。
「………」
霧の向こうで巨大な影が蠢いた。
咆哮と共に体が震え、向こう側で何かが構えたような音がする。
英人はそれがなんなのか確認する前に、そばにあった電柱を手で握る。
「――グッ!!」
そして奥歯をかみ締め、両足を踏ん張り、電柱に指をめり込ませる。
ごしゃりと指のめり込んだ電柱を根元からへし折った英人は。
「っだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
―ガアァァァァァァァ!!!―
一気に突進を仕掛けてきた巨人の脳天に電柱を叩き付けてやった。
電柱に備わった電線は勢いよく引きちぎれ、そばのコンクリート塀や木々、そして巨人の甲殻に触れ、鋭い稲光を発し高熱と共にスパークする。
―!?!?!?!?―
脳天に電柱の一撃を喰らった巨人はそのまま前のめりに地面に叩きつけられる。
だがその一撃で電柱は半ばからへし折れ、巨人の背中側の道を塞いでしまう。
「………チッ」
英人は聳え立つ電柱の姿とスパークを続ける電線とを見て先に進むのを諦め、元の道を引き返そうとする。
―……ッアァァァァァァァ!!!―
それを阻止せんと、勢いよく立ち上がり咆哮を上げる巨人。
巨大な口を大きく開き、血走った一つ目をギョロつかせ、英人を睨みつけてそのままひき潰そうとする。
だが、それより早く英人は体を捻る。
「ッラァァァァァァァ!!!」
半ばからへし折れた電柱を、さながら槍のように巨人の口内へと叩きつける。
突進してきた巨人は大口を開けたまま正面から折れた電柱を飲み込み。
―ッバァ!!??―
そのまま電柱で頭を貫かれ、小さな脳髄をその辺りに撒き散らす。
突進してきた瞬間、電柱を通して巨人の全体重を受け止めた英人の足がコンクリートの中へとめり込む。
「っづぅ……!!」
へし折れそうな足と腰を堪える英人。衝撃は一瞬。後に残るのは、電柱にかかる巨人の全体重だけだった。
「…………」
英人は電柱から手を離す。
化け物の体はそのまま地面に沈みこみ、今度こそ動かなくなった。
聳え立つ山のような巨体。そしてその向こう側で飛び散る火花。
英人はコンクリートから足を引き抜き、今度こそ使用不可能となった道を後にする。
……先ほどの騒ぎで、周辺に存在していたノイズがこちらを感知したようだ。一気に集まってくるのを、英人は脳髄で感じていた。
「……来やがるか、化け物ども」
英人は忌々しげに呟きながら、退路を探す。
携帯電話を取り出す間も惜しい。包囲網は一気に狭まってきている。
……今来た道からはそれなりの数のゾンビが迫ってきているようだ。ノイズがかなり固まっている。対し、前方からはさほどノイズを感じない。回り込んでくるような動きをしているノイズが多く感じる。
となれば……。
「……チッ!」
英人は今しがた通れぬと判断した道を乗り越えるべく、巨人の死体に足をかける。
スパークする火花に触れなければ良いだけだが、ぶら下がった電線が良い感じに道を塞いでしまっている。
道が通れない。のであれば、塀の上はどうか。
「っとぉ!」
英人は巨人の死体を駆け上がり、そのまますぐそばの塀に乗り移る。
背負った礼奈の体が少し揺れ、落ちやしないかと冷や冷やしたが、すぐに体制を整え道を探す。
巨人の死体の向こう側は活きのいい電線のおかげで火花の海となっている。塀の上なら辛うじて火花が届いていなさそうではあるが……。
―キィィィィ!!―
「チッ!」
上空から強襲を仕掛けてきた怪鳥にカウンターアッパーを打ち込みながら英人は塀の上を駆け、向こう側に渡ろうとする。
考えている間にも向こうが仕掛けてくるのであれば、動かざるをえない。
火花に、電流に触れさえしなければ感電しない。感電しなければ背中の礼奈にもダメージはいかない――。
「……ッ!?」
そう考えていたが、いささか甘かったようだ。火花に近づいた途端、空中に霧を伝わって不意に肌を焼かれてしまった。
威力自体はたいしたことがないが、霧を渡ってくるのが厄介だ。いつ飛んでくるのかがまったく読めない。
「霧に電流が流れるとかどういうことだよ、クソッ……!」
忌々しげに呟きながら、英人は一気に塀の上を駆け抜ける。
とにかく電流の傍から離れなければ。まごついていればいるだけ、感電する可能性は高くなる。
……だが、先の巨人の迎撃に電柱を使ったのはまずかった。へし折った電柱から先の数本分の電線が、先の攻防で引っ張られて地面のほうへと垂れ下がってしまっているのだ。
「づぅっ! っつぁ……!」
走るたびに英人の体に電流が襲い掛かり、その体を焼く。
文字通り体に電流が走る感覚を味わいながら、英人は必死に塀の上を走った。
「く……! オォォォォ!!」
迫りくるノイズから逃げようと、吼える英人。
不安定な塀の上を走り、危機から脱しようと必死にあがく。
背負った礼奈からは苦悶の悲鳴すら上がってこない。電流が襲っているのは英人の体だけなのだろうか。いや、そうであることを祈る。
すでに礼奈は十分な責め苦を受けたはずだ。
襲いくる化け物の群れに、自分を守るために死んでいった両親。
そして、今彼女の体を襲う謎の奇病。化け物に成り果てるかも知れないという恐怖と、彼女は戦っているはずだ。夢現であったとしても、その中で彼女は生きようとしているはずなのだ。
「オオオォォォォォォ!!」
英人は、ひたすらに走った。
ただがむしゃらに。迫る害意から、目の前の脅威から逃れるように。
――いつしか体に電流を感じなくなり、ノイズからも距離が離れてゆく。
巨人の死体か電流か。いずれにせよ、ノイズたちが英人の追撃を諦めたようだ
「ハッ……ハッ……ハッ……!!」
短く息を吐きながら、英人はちらりと塀の下を見下ろす。
電柱が破損している区域は通り抜けたようだ。もう、下りても大丈夫そうだ。
英人は礼奈の体を支えながら、塀の上から飛び降りる。
なるたけ礼奈の体に衝撃を与えないよう、膝を折り曲げ片手を突き、着地の衝撃を可能な限り和らげる。
……そのとき、自分の腕が黒いゴム状に変化していることに気が付いた。
「………」
そのまま手を挙げ、頬に触れてみる。
グニリと、人の肌にしては硬い感触が手に触れた。
だが、それもしばらく経つと元のような肌の感触へと変化する。手を見てみれば、いつもの通りの肌色がそこにあった。
先の電流を受けて、完全に感電しなかったのは妙な肌のおかげか。
「……ハァ」
英人は重苦しいため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
ともあれ距離が稼げた。方向的には総合病院にだいぶ近くなったはずだ。
そのまままっすぐ進んで、誰かいないかどうかを確認しなければ……。




