中間市:北部・先崎家前 -8:24-
お天道様がさんさんと照りつけはじめる中、中間市北部に住む一人の老人、先崎トヨは手桶一杯の水と柄杓を手に、家の表へと歩き出た。
「……今日も、あっついねぇ」
そうして照りつける太陽によって妬け始めている真っ黒なコンクリートの道路に向かって、柄杓で掬った水をさぁとかけ始める。
コンクリートの一部が濡れ、より黒くなる。トヨはそのまま、右に左に柄杓の水をさぁとかけてゆく。
日本に伝わる伝統納涼法、打ち水。昨今、文明の利器の発達によりほとんど見られなくなった、日本が古来より伝える暑い夏を乗り切る知恵の一つだ。
道路に水を撒くことにより舞い上がる埃を抑え、さらに水を撒くことによって発生する気化熱により道路から熱を奪って涼を得るという、科学的に証明されている納涼法だ。古くは江戸時代より、涼を得るための方法として使用されていたとされている。
現代においてもヒートアイランド現象などに苦しむ都市群が、大々的に涼を得るための方法として時折、都市単位で打ち水作業を行うこともあるが、一般家庭における打ち水作業はほとんど途絶えて久しいと言える。やる家庭があるのだとしたら、トヨのような古く生きている人間がいる家庭くらいだろうか。
実際、打ち水で得られる涼よりも、扇風機やエアコンなどが生み出す涼の方が圧倒的に快適なのは、こうして打ち水を行っているトヨとしても認めるところだ。たとえ科学的に正しかろうと、実際に体感できる涼は文明の利器に軍配が上がる。これは、覆しようのない事実だ。
「………」
だがしかし、トヨはこうして毎日自宅前に水を撒く。手桶一杯の水がなくなるまで、柄杓でさぁと水を撒く。
それは何故か?と人に問われれば、トヨはこう答える。こうしなければ夏が来ない、と。
異なことを、と人は言うだろう。夏はなにをせずとも来るものだと。
だが、トヨにとってはこれこそが夏を迎える儀式なのだ。こうしなければ、夏は来ない。トヨにとっては、そういうものなのだ。
……打ち水には、涼を得る以外にも意味がある。自宅の玄関口に撒く場合は、来客を気持ちよく迎えるため……裏を返せば、客を招く意味がある。
こうしてトヨが夏に水を撒くのは、もう家を訪ねなくなった者たちがいつ来てもいいように、招き入れるためなのだ。夏が来るたび、トヨは来客に備えて水を撒くのだ。
こうして水を撒いていれば、きっとまた人が……息子夫婦が訪ねてくれる。小さなあの子を連れて、訪ねてくれる――。
トヨは無言で水を撒く。心の最奥に込めた願いを叶えるために、毎日毎日水を撒く。
とうの昔にやってこなくなった息子夫婦と……愛しい孫を迎えるために、トヨは柄杓で掬えぬ程度になった手桶の水を、さぁと玄関前に一気に撒いた。
「―――さぁてと」
トヨは満足げに一つ頷く。
これで準備は万端。いつでも人が来てもよいようになった。
手桶の中に柄杓を差し込み、トヨはゆっくり家の中へと戻ろうとする。
と、その時。トヨは感じた寒気にブルリと身を震わせた。
「……お、おぉん?」
寒い。トヨは、そう感じた。
夏の太陽は、辺りを眩しく照りつける。水を撒いたはずの道路も、さっそくからからに乾いてしまいそうなほどに。
だが、トヨの体は寒気を感じているのだ。肌を焼く太陽の熱を感じているが、それでもなお。
「………?」
トヨは手桶を持ったまま体を抱きしめ、不審そうに辺りを見回した。
いったい何故だ。この夏場に、冷気を感じるような要因があるのだろうか? トヨの家にもエアコンくらいは据え付けられているが、だからと言って家の外まで冷気を出すほどに大出力を誇っているわけはない。
なら、周りの家だろうか? 開け放した窓や扉から、エアコンの冷気が漏れ出しているのだろうか? だからと言って、トヨが寒気を感じるほどにエアコンを動かしている家など、あるはずがない。
そうして、周りを見回していたトヨは、信じられないものを見た。
「……えぇ?」
……霧だ。冬場に吐くような白い霧が、いつの間にかトヨの足元を覆っていたのだ。
道路を這うようにして伸びてきた霧は、あっという間にトヨの足元を通り過ぎ、辺りの道路一体全てを包み込む。
――いや、それでは収まらず、白い霧はゆらりと立ち上り、辺り一帯を飲み込んでゆく。
……一体どうしたことだろうか。
トヨは慌てて辺りを見回す。
だがしかし白い霧は全てを覆い隠してしまうかのように周囲に広がり、トヨの視界を完全に曇らせてしまった。
「え、えぇ……?」
困惑するトヨ。
いくらなんでもおかしすぎるだろう。まだ夏も盛りだというのに、この大量の霧は。
もちろん、夏に霧が発生しないというわけではない。条件さえ整えば、夏にも霧は発生しうる。
だが、それにしたところで唐突過ぎる。トヨの住むこの辺りには川など無いし、外気温が水滴を生み出すほど下がったわけでもあるまい。
「………」
トヨは思わず、手にした手桶を見つめる。
……まさか、先ほど自分が行った打ち水が引き金でこうなったのだろうか?
数瞬想像したそのバカげた考えを、トヨは数秒後に否定する。
馬鹿な。いくらなんでもそんなことはあるまい。
打ち水を行うと外気温が下がるのは科学的に証明しえる事象であるが、だからと言って辺り一帯全てが霧に包まれる程強力なはずがない。
もしそれほどに打ち水が強力であれば地球温暖化問題など一瞬で解決し、世界中で打ち水が流行することだろう。一部地域を除き。
「……!」
トヨはまた身震いする。
こうして驚き、固まっている間にまた一段と体が冷えたような気がする。
あるいは、当たり前か。霧が発生するのであれば当然外気温は相応に下がっているはずだ。
ならば早々に家に引きこもるべきだろう。そうでなければ風邪をひいてしまう。
トヨは慌てて家の中に足を運ぼうとする。
「……… ―――」
「え?」
その時、自分を呼ばわるような声がした。
トヨは声がした方へと振り返る。
トヨが顔を向けたのは、息子夫婦が暮らしている方向だ。
……霧のせいで見通せないが、誰かがいるような気がする。ゆらりと、影が揺れたような気配がした。
「……てっちゃん?」
トヨは自分を呼んだのが息子である可能性を考えて呼びかけてみる。
自分の名を呼んだかどうかは、はっきりとはわからない。だが、聞こえてきた声は息子のものだったような気がする……。
今度は、別の音がした。
ずり……と何かを引きずるような音だ。
さほど音は重くない。足、だろうか。
トヨには、足を引きずったような音に聞こえた。
「………」
辺りを静寂が包み、トヨの耳にはずり……という何かを引きずるような音しか聞こえなくなる。
体に感じる寒気と合わせ、トヨは心臓が縮こまるような思いでその音の正体がやってくるのを待った。
「………」
果たして、霧の向こうから現れたのは。
「……てっちゃん!」
誰あろう、トヨの息子である哲郎であった。
記憶の中にある、彼と比べればだいぶ老けたように見える。四、五十代だろうか。
だが、当然だろう。哲郎が最後にトヨを訪ねたのはもう十年は前の話だ。
ある夏の日を境に、哲郎はトヨを訪ねなくなった。
同じ市内で暮らすとはいえ、向こうも忙しいのだろうとトヨは哲郎を訪ねることはしなかったが……。
「てっちゃん! ああ、よく来てくれたねぇ……!」
トヨは自分の息子が現れたことに対する安堵と、音の正体が判明したことに対する安心感から頬を緩め、やや駆け足で哲郎の元へと駆け寄ってくる。
そうして彼の傍まで駆け寄り、その手を取ると、積もり積もった積年の思いが口をついて溢れだす。
「どうしたんだい、電話の一つも寄越さずに……! あたしゃ、ずっとてっちゃんたちが来るのを待ってたんだよ!」
嫁さんである秋絵は、娘である凛音は元気か。今までやってこなかったのはどうしてか。今暮らしは大丈夫なのか。そろそろ子どもは受験じゃないのか。
次々にトヨの頭の中に言葉がよぎるがうまく口に出せず、もごもごと唇を動かすことしかできないでいると。
「…… オ フ ク ロ ―――」
「? てっちゃん?」
哲郎の口から言葉が零れる。
トヨがとうの昔に追い越された背丈を見上げると、哲郎と目が合った。
「…… ―――」
「……?」
定まらぬ焦点。揺れる眼差し。
呆けたように開かれた口からは一筋のよだれが零れ、流れるがままになっている。
トヨがどうしたのかと尋ねようとした時、哲郎はその両肩をガッシと掴んだ。
「…… オ フ ク ロ ―――」
「てっちゃん? どうしたのさ、てっちゃん……?」
壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す哲郎。
ここに至ってようやくトヨは、息子の尋常ならざる様子に気が付き声をかける。
だが哲郎はトヨの声に耳を貸すことなく。
「…… ア ー ―――」
「え、てっちゃん? なにをするの、やめ―――!!」
その、枯れ木のように細った首筋にがぶりと食いついた。
前歯が喰い込み、犬歯が突き刺さり、しわがれた肌が破られる。
同時に鮮血が吹き出し、哲郎の口蓋を赤く染め、バタバタと道路の上に零れ落ちる。
老婆の悲鳴が辺りへと響き渡る。
だがそれは、ほぼ同時に鳴り響き始めたサイレンによって掻き消されてしまう。
息子に肩を喰い破られてしまったトヨが最後に見た光景は。
「ぁう……ぁ………!?」
霧の向こうから這い出してきた、無数の人々の姿。
その誰もが一様に……焦点の定まらぬ目でトヨを目指して歩いている光景であった。
さながら…………餌に群がる猛獣のように。
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