中間市 -7:23-
「………」
診察室にあるカルテや書類は、医学用語が書かれていてよくわからない。ただ、軽く除き見てみることには、やはりここ数日の間に入院した子供が何人かいるようだった。真新しいカルテが散乱しており、入院中だとかメモ書きがその上からペタペタと張られている。
「………」
そのうちの何人が、今手にかけたのだろうかとぼんやり考えながら、英人は診察室の奥にある、入院用の病室を覗き込む。
するとそのさらに奥に、ひっそりと隠されるかのように据えられた小さな扉を発見した。
近づいて見てみると、小さな鍵が取り付けられていた。鍵穴がこちらにあることを考えると、恐らくここが蟹岡医師の私室……つまり二階へ続く階段のある扉の可能性が高い。
英人は無造作にドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていないのか、あっさりと扉は開く。
そのまま奥を覗き込んでみると、明かりの落ちた廊下と、奥に据えられた小さなキッチン。そして、その手前に置かれた階段が目に入る。一般家屋を改装しただけあって、キッチンなどはごく普通の家庭にあるそれと同じだった。
荒らされた形跡の少ないそこを横目に見ながら、英人は二階へと上ってゆく。
特に忍ぶ気もないので足音を立てながらさっさと上ってゆくが、上から感じるノイズは動く気配を見せない。
さすがにこれだけ足音を立てて気が付いていないと言うのは無理のある話だろう。隠れられている確信があるか、あるいはこちらと遭遇しても問題ないという自信があるか、と言ったところか。
「………」
どちらにせよ、動かぬノイズの持ち主の余裕が窺え、そのことが英人の癪に障る。
ノイズを発する以上、向こうは人間ではないだろう。まだ人間であるらしい背中の礼奈からはノイズを微塵も感じない。
そして化け物にもかかわらず、人を襲うでもなく部屋の中でじっとしているなど……まるで人間のようではないか。
もうすでに人であることを半分程度諦めてしまった自身とは間逆の行動を取るノイズの持ち主が、どうにも英人の癪に触って仕方が無い。
二階へと上がりきり、英人はまっすぐにノイズの発生源へを目指す。
さほど広くは無い二階にあるいくつかのドア、そのうちで一番奥に存在するドアへと歩み寄る。十中八九、蟹岡医師の私室だろう。そんな場所を陣取っているとなると……。
英人はノックをせずに、強引に扉を蹴破る。
鍵が破砕し、蝶番が一部吹っ飛び、辛うじてドアが壁にぶら下がっているような衝撃を聞き、ようやく部屋の中のノイズが驚いたように動き始めた。
―ギキィ!?―
「ん……!?」
椅子に座るような格好で振り返ったノイズの正体を目の当たりにして、英人は驚いたように目を丸くした。
胴体はまだ人の形を保っているが、どうしようもなく伸びきり、赤黒い筋肉繊維を露出した手足。
人であったころの顔面は天を仰ぎ見ほうけたような口からよだれがたれる一方で、後頭部に生えたのこぎりのような鋭い牙。
やってきた英人を見て、素早く天井へと飛び上がりそのまま張り付いたその男は……どうも触手子供の近縁種のように見えた。
―シ、シャァァァァ!!―
威嚇する触手の化け物の人間であったころの顔つきは、壮年の男性のように見える。身にまとっているボロ布が白衣の切れ端のように見えるところを考えると、恐らく蟹岡医師本人ではないだろうか。
「子供じゃなくてもああなんのか……」
英人はこちらに向かって吼える蟹岡医師を睨みつけながら忌々しげに呟く。
人であることに関してはもう諦めているが、あんな風に人の形を保てなくなるのはできれば勘弁願いたいものだ。
と言っても、自分でそれが制御できれば世話は無いが。そうなる前に、頭を自分で砕くなりなんなりして意識を手放す必要があるだろう。
徒然に余計なことを考える英人の目の前に、鋭い鉤爪を備えた触手が襲い掛かる。
―シィィィ!!―
「チッ」
英人は舌打ち一つと共に一歩下がり蟹岡医師の一撃をかわす。
英人に向かって爪を向けた蟹岡医師であったが、英人が一歩下がり部屋を出るとそのまま天井に張り付き、英人に向かって威嚇を繰り返すようになる。
―シィ……シャァァァァ!!―
「……?」
張り付いた天井からは降りてこようとせず、こちらを襲うのではなくただ威嚇を繰り返す蟹岡医師。
他の化け物と比べると、様子がおかしい。なんというか、目の前の化け物からはテリトリーを守ろうとする野生動物に近いものを感じる。
ようは不用意に近づきさえしなければ脅威にはならないと言うことだ。ならば放置するのがベターではあるのだが。
「………」
英人は視線を蟹岡医師から下ろす。そうして視界に入ってくる蟹岡医師の私室の中に、まだ起動しているデスクトップPCがあるのを発見する。
キーボードが血なのか体液なのかわからないもので濡れているのを見るに、どうも天井の蟹岡医師が今まさに使っていたようだ。つまり、その中に何らかの情報が残されている可能性があると言うことだ。
だが、PCのある部屋は天井の化け物が守っている。……ならば、やるべきことは一つ。
「………」
英人は無造作に蟹岡医師の私室に一歩踏み込む。
―シィヤァ!!―
天井の蟹岡医師は威嚇に効果がないと知り、両腕の触手を伸ばし、英人の首を掻き切ろうとする。
英人はそれを一歩横に動いて避け、空いている手で触手のうち一本を掴む。
―シッ!?―
「えぇりゃぁ!!」
英人は気合を入れながら触手を力尽くで引き、蟹岡医師を天井から引き剥がす。
―イギィィィ!?―
後ろ足の鉤爪が無理やりはがされる生々しい音と共に、蟹岡医師の体が床に叩きつけられる。
そのまま一歩踏み込んで頭を踏み潰してもいいが、それでPCによくわからない液体がかかるのも困る。
英人は触手を握ったまま、もう一度蟹岡医師の体を無理やり引っ張った。
「ッラァ!!」
―シァァァァァ!?―
甲高い悲鳴と共に引きずられる蟹岡医師。せめてもの抵抗とばかりにドア枠を掴み抵抗するが、枠ごと引きずられ、その体を無理やり外に放り出されてしまう。
―イグゥ!?―
「………」
無残に引きずり倒され、痛みにのたうつ蟹岡医師にゆっくりと近づき、英人は無防備なその背中を容赦なく踏みつける。
ずむっ、と言う重い音ともに蟹岡医師の体が逆方向に折れる。
―オギッ―
間抜けな悲鳴が聞こえたのは一度きり。数回痙攣した後、蟹岡医師の四肢は力なく廊下に倒れ、そのままピクリとも動かなくなる。
「………」
英人は蟹岡医師だったもののわき腹をつま先で数回蹴ってみる。
特に反応なし。一つ頷くと、英人はおもむろに蟹岡医師の遺体を階段下に向かって蹴り落とした。
階段までそれなりに距離があったため、幾度か壁にぶつかってしまったがそれでも勢いよく飛んでいった蟹岡医師の遺体は英人の視界から消えてくれた。
「よし」
英人は特に感慨も見せずにもう一つ頷くと、本題である蟹岡医師のPCへと近づいていった。
画面を覗き込んでみると、先ほどの蟹岡医師が何かを打ち込んでいたらしく、文字の羅列のようなものがテキスト文章として表示されていた。
何らかの法則に則っているように見えるため、恐らく蟹岡医師には意味が通じる文章なのだろうが、まだ人間の英人には目の前のテキストの記述が読めなかった。
眉をしかめながら英人はマウスを操作し、テキスト文章を閉じる。すると、その下にあったフォルダファイルの一覧が目に入った。
「ん? こいつは――」
英人は目を凝らしてフォルダの中を確認する。
更新日時順に並んでいるフォルダ内のファイルの上のほうは意味不明な文字の羅列でタイトルがつけられていたが、下のほうには簡潔に日付だけが付いたテキストファイルが並んでいる。
フォルダの名前もそのものずばり「日記」となっている。どうやら蟹岡医師はPCの中に自分の日記をつける人物だったようだ。
「日記! これなら……!」
現状、英人がもっとも欲していたものだ。カルテの類は医学用語などが読めなければ理解できないが、こういう個人の日記であれば英人でも普通に読める。核心に迫るものがあるかどうかは不明だが、無いよりはましだろう。今はどれだけ小さくとも、指針が欲しい。
英人は読めそうなもので最も新しい日記を開いてみる。日付が読めるもので、最も新しいものは……三日前となっていた。
「……三日前ってことは、二日前の時点で蟹岡先生は……」
あのゾンビ騒ぎが始まる前から、侵食が始まっていたと言うことだろうか。
英人は開いたテキスト文章に、ゆっくりと目を通してみる。
“ここ数日、風邪のような症状の子供が病院に運ばれるようになってきた。夏風邪には気を付けるように親御さんには指摘したものの、風邪と言うにはいささか症状がおかしい。
まず、体温が異様に低い。風邪であるなら免疫機能により体温が上がるはずなのだが……ひどい子供で体温が30℃前後の子もいた。夏場にこれほど体温が下がってしまうというのは通常では考えられない。夏場であるためストーブを炊くことも考えたが、あいにく我が家に灯油の残りは無かった。近いうちに買いにいくことになるだろうか。”
やはり、礼奈のような症状に陥った子供がいたようだ。
“久しぶりに我が医院が満員御礼となったわけだが、喜べる事態ではない。親御さんが言うことには、総合病院でも似たような症例の子供を預かっており、これ以上受け入れることはできないと言われたと言うのだ。実際、問い合わせを行なってみると総合病院の小児科のベッドは満席状態であり、一向に回復の気配が見えないのだと言う。遠いところでは西部地区の子供までうちで預かっている。一体どういうことなのだろうか。”
「西部……? そんなところから来てるのがいたのか……」
英人の今いる蟹岡医院はどちらかと言えば北部よりの場所にある。当然、西部からここまでは相当の距離がある。
それを考慮しても蟹岡医院を頼ったということは……恐らく西部側にある小児科も同じような症状の子供でいっぱいになっているのだろう。
“子供たちも悪夢にうなされているのか夜泣きが酷い。お化けが迫ってくるとかはまだかわいいほうで、お注射はいやだとか体がばらばらにされちゃうと叫んだ子供もいる。あの子達も参っているのだろうが、私もそろそろ限界に近い。ここ数日、まともに睡眠が取れた気がしない。愚痴ってはいけないとわかっているが、それでも言わずにはおれないよ……。”
「注射? いやまあ、ここはどうでもいいか……」
子供の精神状態というのは大人とかなり異なっているとも聞く。たまに怖い絵を子供が描いたりするが、夢もそういうことがあるのだろう。
“抗生物質なども試してみたが、一切の回復が見込めない。取っ掛かりどころか兆しさえ見えない状態だ……。一体あの子達に何が起こっていると言うのか。医者としてそれなりのキャリアを積んできたつもりであったが、甚だ情けない話だ。”
「………」
これは嬉しくない情報だ。抗生物質といえばインフルエンザの特効薬と言うイメージが強いが、そうした薬剤による対症療法がまったく効かないらしい。
……最も、原因となるウィルスが一体なんなのかわからないのでは、対症療法も何もあったものではないかもしれないが。
“……私にも子供たちの病気が移ったのか、どうも肌寒くていけない。体温は平熱の少ししたと言ったところか……。医者の不養生という言葉はあるが、この場合どう対処したらよいものだろうか……。とりあえず、今日は早めに寝てしまおう。酒も飲んで、子供たちの夜泣きが聞こえないくらい深く眠ってしまおう……”
「………」
日記は、ここで終わっている。それ以降の日付は存在しない……と言うよりは読めなくなっている。恐らく、この日記を書き終わった時点で、蟹岡医師の人間としての意識は消滅前だったのだろう。
英人は無言でPCをシャットダウンし、腕を組んで考える。
「………」
今の日記から、礼奈の症状は既存の薬剤を使用してどうにかできるものではないことはわかった。
そして、総合病院がすでにパンクしかかっていたと言うこともわかった。西部側から子供がやってきたということは、この症例が最も早く発現した可能性が高いのは西部側。
……つまり、西部に礼奈の症状が発生した原因、さらには全ての元凶が潜んでいる可能性があると言うことだ。
「………よし」
英人は小さく頷き、背中の礼奈を起こさないように体を支えなおしながら、蟹岡医院を後にすることにする。
目指すは西部。途中、総合病院の様子を探りつつ、西部に向かい、何か異常なことが起こっていないかどうか確認する必要がある。
英人の推察自体がまったくの的外れである可能性は否定できないが……それでも得られた情報は少なくなかった。今はそれを元に、動くしかない。
英人は無言のまま蟹岡医師の私室を出て、西部を目指すべく動き始めた。
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