中間市 -6:01-
「………んんっ………」
霧が深く、まだ夜の色が残る中間市。
あれから礼奈を自分の部屋のベッドに寝かせ、自身は床に体を横たえていた英人は目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。
時計を見れば、六時をちょうど一分過ぎたところであった。
英人はそのまま視線を巡らせ、礼奈の様子を窺う。
いまだ眠りの中にある礼奈の表情は、控えめに言っても優れているとは言い難かった。
「……ハァ……ハァ……」
かすかに荒い寝息を上げる礼奈の顔には大量の汗が浮かぶ。
だがその顔は病的なまでに青い。体に触れても熱を出している様子はなく、むしろ異様に低い体温に驚くことだろう。
「……礼奈……」
玉のような汗が浮かんだ彼女の額を軽く拭い、英人は小さくその名を呟く。
昨日。両親の埋葬を済ませ妹の待つ自室に戻った英人が見たのは、苦しそうにうめく礼奈の姿であった。
一介の学生でしかない英人には礼奈の病状がなんなのかわからず、ひとまず風邪薬を彼女に飲ませることしかできなかった。
初めは、家族に再び会うことができたおかげで緊張が解け、それで限界が来ただけかと思ったが、今この街には大量のゾンビと化け物が闊歩している。
当然そうなるに至った原因があるはずであり、英人はウィルスか何かだと思っているのだが、それが空気感染か何かで礼奈の体の中に入り、この異常を引き起こしている可能性があった。
……仮にゾンビや化け物のウィルスが原因であるならば、一般の病院に治療の手立てはないだろう。
そうした研究を行なっている場所に侵入できれば、あるいは治療薬が入手できる可能性はある。下手なB級映画ではあるまいに、こんな危険なウィルスに対し抗体や解毒剤の類が一切用意されていないとはさすがに考えられない。
問題は、そんな研究所まがいのものがこの町に存在しているなんて英人は聞いたことがないことである。人の出入りがあれば怪談か何かで噂されそうな気がするが、そうした噂を英人は聞いたことがないし、情報網が英人より広そうな礼奈も今は眠っている。無理に起こすのは気が引けるし、無理をさせるわけにもいかないだろう。
「………」
英人は礼奈を起こさないように静かに部屋を出て、下へと降りてゆく。
一階はまったく片付いていないが、その惨状を一切気にせず英人は返り血に塗れた冷蔵庫の扉を開ける。
……ゾンビたちは冷蔵庫には手を出していなかったようで、それなりに食べられそうなものは残っていた。
「………とりあえず目玉焼きにでもするか」
残っていた食材から朝食のメニューを適当に考え、英人は卵を手に取る。
キッチンも血で汚れていたが、布巾で拭えばIHヒーターは問題なく使用できた。文明の利器は偉大である。
「………」
ヒーターにかけたフライパンが暖まる間、英人はこれからのことを思案する。
両親のことは残念であったが、幸いにも礼奈の命は無事であった。今までの惨状を考えれば、これは行幸である。
それを踏まえ、これからどうすべきか……。
「………」
暖まったフライパンの上に卵を二つ落とし、焼けるのを待つ。
卵が焼けるまでの間に、トースターにパンをセット……使用と思ったが、中が血で濡れていて使えそうにない。まあ、パンはそのまま食べられるし、マーガリンでも塗ればよいと考え直して、英人は皿を取り出す。
そうして作業する間に軽く考えてみるが、うまく考えはまとまらない。
作業しながらの片手間のせいというのもあるが、なにをすればうまくいくかがまったくわからないのだ。
「………」
町を脱出すべきか。脱出するとしてどこを目指すべきか。
礼奈をつれて無事に脱出できるのか。化け物たちの間を抜けることが、今の自分に可能なのか。
脱出に足は必要だろう。それはどう確保すべきか? 中間市はローカル線も存在しない。あるのは公道だけだ。自転車では、礼奈をつれて逃げることはできないし、英人に車の運転はできない。
「………」
そうして悩んでいる間に、目玉焼きが完成する。焦げ付く前にフライパンをヒーターから取り上げ、ヒーターの電源を落とす。
取り出した皿の上に程よく焼けた目玉焼きを乗せ、さらに冷蔵庫の中からハムと魚肉ソーセージを取って乗せる。
そうして完成させた二人分の朝食をお盆に載せ、調味料や牛乳を持って英人は二階へと上がる。
「………」
では脱出ではなく、礼奈の治療を目指すのはどうか。
こんなことが起こった以上、その原因となる場所が中間市のどこかに存在するはずだ。
ゲームなどであれば地下がお約束になる。その場所をどうにか発見し、礼奈を治療できる治療薬を見つけられれば礼奈は助かるだろう。
後はその施設を発見できるかどうかだが、普通の方法では見つからないだろう。ゲームであればありえない構造をした学校でパズルのような鍵を解いて地下に潜るわけだが、ゲームと違い現実に地下施設へのルートを示すようなものはない。
化け物が跋扈している今の中間市で、虱潰しは難しいだろう。礼奈を連れ歩きながらであれば、難易度はさらに上がる。彼女を背負いながら、巨人辺りと遭遇してしまうともう逃げられない。
「………礼奈」
結論が出せないまま、英人は部屋に戻る。
なるべく小さな声で彼女を呼んでみると、起きていたのか礼奈はゆっくりと目を開けて英人の方を見てくれた。
「……おにいちゃん?」
「朝飯作ったんだ。食べられそうか?」
「……食べる」
英人の問いかけに礼奈は小さくそう答えてくれる。
食欲はあるようだ。そのことに安堵し、英人は礼奈に近づいて彼女を抱き起こす。
そして彼女の膝の上に朝食を載せた皿を置いてやり、コップに牛乳を注ぐ。
「無理して食べなくていいからな?」
「……だいじょ、うぶ……」
礼奈は小さく微笑みながら、パンにマーガリンを塗ってゆっくりと咀嚼し始める。
もそもそと口を小さく開けながら食パンをかじる姿は可愛らしいものだが……やはり、普段と比べると食が細い感じがする。礼奈はよく食べるというわけではないが、それでもパンを一欠けら飲み込むのに苦労しているように感じる。
「………」
自身も食パンを頬張りながら、英人はゆっくり考える。
やはり礼奈の治療は急務になるだろうが、手がかりもなしにそんな研究施設を発見できるものではないだろう。せめて地下へ下りる道とかがわかりやすくどこかに存在していてくれればありがたいが……。
さらに言えば、今の礼奈にどれほどの時間が残されているのか、まったくわからないのも痛い。
「………」
昨日、己の手にかけたゆかりという名前の少女のことを思い出す。
彼女の体を確認した限り、彼女は噛まれていなかった。ならば空気感染か何かでウィルスに感染した可能性が高いが、それがいつなのかがまったくわからない。
自覚症状などがあればよかったのだが、英人が覚えている限り化け物と化す直前まで彼女はただの人間にしか見えなかった。感染してしまうとあっという間に化け物と化すのか、あるいは多少の猶予が許されるのか……。噛まれれば皆、ゾンビや化け物になる点は共通しているだけに、噛まれていないというのがネックだ。
「………ごちそうさま」
「……ん」
礼奈は小声で呟き、牛乳をゆっくりと飲み始める。皿の上にはまだ半分以上残されたパンと、ほとんど手のつけられていない目玉焼き等があった。やはり無理をしていたのだろうか。
「………」
英人も手早く目玉焼きやパンを頬張り、牛乳で一気に流し込む。
こうして食事をしているのも惜しくなってきた。一刻も早く、礼奈の症状をどうにかしなければ。
「……んぐっ。よし、礼奈。ちょっと準備してくる」
「じゅんび……?」
「ああ。外に出て、お前をお医者に見てもらおうと思うんだ」
「おいしゃに……?」
「ああ」
礼奈の目を見て、英人ははっきりと告げる。
「……多分、礼奈も何かの病気にかかってる」
「………! わたし、も……?」
「ああ。もちろん、お兄ちゃんもだ」
英人はそういって、怪鳥に噛まれた傷跡を見せる。
英人の腕に刻まれた大きな傷跡を見て、礼奈は目を見開く。
「おにい、ちゃん……それ……!」
「……ああ。俺もこんなだけど……でも、まだ大丈夫。こうして、礼奈と話せてるだろ?」
「……うん」
礼奈を安心させるように、傷のある手でその頭をゆっくりと撫でる。
「噛まれて結構経つけど、まだ俺は人間なんだ。だから安心してくれ、礼奈。お前は絶対大丈夫。どうにかなる前に、お医者を見つけて助けてもらおうな?」
「……うん、わかった」
自身の体に起きた変化に不安が募っていただろう礼奈は、兄の現状を知って少しだけ安堵したようだ。
小さく微笑むと、そのままうとうとと目蓋を下ろし始めた。
「あ……う……」
「……無理するなって、言ったろ? 少し休んでろ。俺は外に出る準備してくるからな」
「……うん……」
静かに礼奈の体を寝かせ、その目蓋を下ろす英人。
兄にされるがままに礼奈は瞳を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
英人は礼奈が再び眠り始めたのを確認し、ゆっくりと立ち上がった。
「………礼奈、大丈夫だからな」
英人は礼奈に、そして自分に言い聞かせるようにそう呟き、外に出るための準備を行なうために下へと向かう。
とにかく今あるものをかき集め、外に出るとしよう。
やるべきことは、とにかく礼奈の体をどうにかすること。その為には、医者でも誰でもいいから生きている人間と接触しなければならないだろう。
その為に、できる準備を整えなければ。




