中間市 -21:31-
「―――」
そして、信じられない光景を目にする。
英人が今朝出てきたはずの玄関には……ドアが存在していなかった。
より正確には、蝶番が吹き飛び家の中へとドアが吹き飛んでいた。無残に粉砕されたドアは、どれだけの力を込めてなにがぶつかってきたのか……容易に想像が付いた。
なぜなら、ドアのあった敷居の辺りに、頭のつぶれたゾンビの死体が転がっていたのだ。これを丸太代わりにでもして、中に強引に突入したのだろう。
「………なんだ、よ、これは………!!」
英人の瞳に力が戻る。
がたがたと揺れていた英人の人間性を、再び奮い立たせたのは堪え様のない怒りであった。
頭が灼熱し、中で反響していた全ての声を封殺する。
視界が怒りで赤く染まり、拳は皮が裂けるほどにギュッと握り締められた。
「なんで……いや、だれが……! 人の家に……人の家族に……!!」
家族が北小に現れなかった理由はこれだったのだ。
ゾンビたちか、あるいは別の何かが、英人の家に押し入ったのだ。
英人は胸に宿った怒りを握り締め、己の家の中に大股で入る。
押し入り強盗かあるいは化け物の集団か……いずれにせよ、一人か一匹でも残っていたのであれば素手でばらばらに引き裂いてやろうと考えた。
今の自分なら、その程度は容易い。比喩でも気分の問題ではなく、実行が可能だと言う確信が今の英人にはあった。
「………」
確認がてら、試しに適当な壁に手を付き、そのまま拳を握ってみる。
クッキーが砕けるようなささやかな音と共に、壁材が英人の手の中に握りこまれた。
コンクリートに及ばずとも、建設に使われている壁材だ。人間の指の力だけで抉れるほど軟い素材でもあるまい。
「……へ、へへっ」
英人は不気味に微笑みながら、握りこんだ壁材を適当な場所に放り、リビングへと向かう。
「誰でもいい……残ってていいぜ……。その時は、ぐちゃぐちゃにしてやるからよ……!」
怒り狂った英人の思考は、もはや正常なものとは言い難い。
だが、それでも辛うじて正気ではあった。人という理性の淵に指だけかけて、何とかぶら下がっている状態ではあった。
まだ、目の前の惨状に怒りを上げることができる。そのことを、英人は心の奥底でかすかに安堵していた。
(まだ、大丈夫……まだ、生きていける……)
呪文のように心の中で唱える英人。少なくとも、家族がどうなっているか……それを確かめるまでは、化け物に堕ちるわけにはいかない。
怒りと決意を固めながら、英人は無造作にリビングに繋がっている扉を開けた。
ガチャリとドアノブを回し押し開けた瞬間、鼻をつくのはむせ返るような血臭。
「―――っ」
もはや嗅ぎ慣れてしまったそれに顔をしかめながら、英人は一歩リビングの中に足を踏み入れる。
霧に遮られ月光さえ届かない室内は暗闇に支配されていた。
……だが、慣れてきた目はぼんやりとではあるがリビングの輪郭を捉え、漂う血臭が目の前の惨状を明確に伝えてくれる。
無数に倒れ伏すのは人間の死体。夥しい量の血液を流し、多くの人間が事切れているのがわかった。
さらに一歩踏み出せば、力を失った死体を足の裏で捉えることができる。どうやら足の踏み場もないようだ。
「………?」
ここで英人は疑念を抱き、屈みこんで今しがた踏みつけた死体をゆっくりと調べてみる。
腕、足、胴体に特に損傷なし。顔にも目立った外傷が無く、首筋に指を這わせたときに死因が判明した。
目の前の死体は、どうも喉元を鋭利な刃で斬り付けられたために絶命したらしい。傷口はとても綺麗に作られていた。
「………」
さらに英人は近場の死体に手をやって引き起こす。
今度はわざわざ検分するまでも無かった。胸倉を掴んで引っ張った途端、首がごろりと背中側に転がり落ちたのだ。
だいぶ深く斬られていたのだろう、薄皮一枚で繋がっていた死体の首は、そのままちぎれて床に落ちた。
恐るべき手腕であるが、問題は一体誰がこれをやらかしたかと言うことだ。
これだけの数の死体だ……恐らく、突入してきたのはゾンビと見て相違ないはず。
そのゾンビがここで死んでいることに疑問は無い。ここにくる途中で、化け物に襲われているゾンビを見たこともある。
推測ではあるが、ゾンビ同士は同属として認識するが、それ以外とは無縁……と言うより食物連鎖における、捕食被食関係にあるのではないだろうか。
人を喰らう異形の化け物たちは、ゾンビを人間の一種と認識して襲っているかもしれないと言うことだ。ゾンビの中にはゾンビと化すウィルスが恐らく存在するだろうが、人でない化け物たちにはそんなものは関係の無い話だ。
絶対数も、ゾンビより化け物たちのほうが少ないはずだ。であれば、この食物連鎖の関係は成立しうるものだと思うのだが……。
しかし、ここで死んでいるゾンビ(仮)たちは、どうもみな首を斬られて絶命しているように見える。首以外に目立った外傷が無い以上、ここでくたばっているゾンビ(仮)共は、殺すために殺されたのだろう。
その死体が、一つか二つであればまだ理解の範疇だが、リビングに転がっているしたい全てがそうであるとなると、一体全体誰がやったのかと言う疑問が浮かぶ。
……まさか、通りすがりの辻斬りが助けてくれたわけではあるまいし。
英人は先ほどより慎重な足取りで、二階を目指す。一番の近道は、キッチン経由となる。
リビングからキッチンは、ダイニングを通じて直通となっている。その途中にも、ゾンビ(仮)共の死体が折り重なるようにして転がっている。
「………」
家一つに押し入るにしては多すぎる人数だ。ここを襲った輩は、よほどのアホか、それとも残忍な輩かのどっちだろう。
そのままダイニングとキッチンを抜け、英人はキッチンを出てすぐに位置する階段へと視線を向ける。
――そこで、槍のようなもので壁に貼り付けにされている父の死骸を見つけた。
「……父さん……」
わかっていた結末を前に、英人の顔は悲しみで歪む。
父の死骸は、四肢を動けないようにそれぞれ壁に貼り付けにされ、その上で首を切断し、額を貫通するようにさらに槍を使って壁に縫い止められていた。
「くそっ……!」
下手人の想像以上の残忍さを前に、英人はさらに怒りを燃やすが、そこで父の手に一本の包丁が握り締められていることに気が付いた。
「これ……」
ぎっちりと握り締められた包丁は血と脂で汚れ、刃はすっかり欠けてしまっていた。
「……まさか」
英人の脳裏に浮かぶ、一つの想像。
ここに至るまでに転がっていた無数の斬殺死体……それは、全て父の手によって生み出されたものだったのだろうか?
ゾンビの群れに突入され、逃げ場を失った父はやむなくキッチンに合った包丁で応戦。群がるゾンビをことごとく斬り捨てるが、ここまで追い詰められ――。
「………」
そこまで考えて、なにを馬鹿なと首を横に振る。父は元軍人でもなければ忍者の末裔でもない。ただの一介の営業マンだ。それが、これほど大量のゾンビを倒しきれるはずがない。
……だが、今の自分は化け物になりかけた人間未満。化け物に噛まれたおかげで、傷はすぐに治り、超常の怪力まで出せるようになっている。
なら、父がこの状況を前に覚醒し、八面六臂の活躍をしてもおかしくないかもしれない。彼と母の血を分けたのが……自分なのだから。
「……父さん」
英人は妄想ともいえないような愚考を胸に、愛おしさを込めて父の頬に触れようとする。
……ギシッ。
「………」
二階から、小さな物音が聞こえてきたのはその時だ。
かすかに誰かが身じろぎするような、そんな音だ。
英人は父に伸ばしていた手を引いて、二階を睨み付ける。
音がしたのは一回だけ。その後、何らかの反応が返ってくることはなかった。
ただの家鳴りかもしれない。……だが。
―………ヒ、ヒ、ヒヒ………―
英人の脳内に響く不愉快なノイズはそれを否定する。何かが間違いなく二階に居座っている。
「………」
英人は音を立てながら二階へと上がってゆく。
隠す必要も無い。奇襲もしたければ好きなだけすればいい。
自分と家族以外の誰かが、今この家で生きていることが、英人には許しがたいことであった。
二階へ上がり、ぐるりと辺りを見回す。二階にあるのは、両親の寝室、英人の寝室。
―ヒ、ヒヒ……コイ、コイ……―
そして、礼奈の寝室。
思春期に上がってから、一度も足を踏み入れたことの無い聖域のような場所から、不愉快なノイズが聞こえてきた。
「………」
英人はそのまま礼奈の部屋に向かう。
脳内のノイズが、興奮し始めるのがはっきりとわかった。
―ヒヒ、ヒヒ! コイ、コイコイコイコイ!!―
「………」
ねっとりとした脂のようなそのノイズに、英人は眉根を寄せる。
不愉快さも度が過ぎれば呆れが生まれるものらしい。
英人は無造作に足を挙げ、そのまま力強く目の前の扉を蹴り抜いた。




