中間市 -20:41-
「な、なにかね……!?」
英人は振り向かないまま、春日に声をかけた。
怯えていた春日であったが、何とか英人の声を聞き返事を返した。
英人は黒い女を見据えたまま、春日へと告げる。
「連中の気を一瞬逸らします。そうしたら、反対側の扉から抜けましょう」
「なっ!? 君がか!?」
「ええ、そうです」
「だめだ、危険だ! この数が相手だぞ! 下手な動きを見せれば、そのまま一気に群がられて、おしまいだ!!」
春日はゆかりの母親をかばいながら、英人に叫び返す。
実際、彼の言うことは正しいだろう。今は黒い女は動きを見せていないが、こちらの動きに反応して一気に襲い掛かってくることはありえる。
ゾンビだけならまだしも、天井に張り付いている触手の化け物までいる。英人など、文字通り縦横無尽に蹂躙されて、挽肉か血溜りに変わり果てて終わりだろう。
「まだ諦めてはだめだ! 希望はある! な、何とか三人とも生き残る方法を考えて……!」
春日は懸命に声をあげ、英人を思い留まらせようとする。
目の前の状況に対し、あまりにも中身のない言葉だ。虚勢を張っているのが透けて見え、空虚でさえある。
……だが、その言葉は温かい。どうしようもなく。
「……大丈夫ですよ、先生」
英人はまっすぐに黒い女を睨みながらも、笑みを浮かべる。
彼は知らない。英人が……すでに化け物の存在へと片足以上踏み込んでしまっていることを。
彼は知らない。英人は……初めからここには死にに来たのだということを。
「俺、結構やれるんですよ? さっきだってそうだ。ゾンビも化け物も、瞬殺だったじゃないですか」
家族に会えれば、後はどうでも良かった。今の体では死ににくいだろうが、さすがに心臓を壊すか、脳みそをぶちまければ死ねるだろう。
だが、家族に会う前に、他の人間を助けるのも悪くない。
知らないとはいえ、人として接してもらえたのだ。英人には、それだけで十分だった。
「だが、英人君……!」
「待ってて、ずっとおとなしいわけじゃないでしょう……。三つ数えます。そしたら、走ってください」
誰かと言葉を交わすことが、こんなに心地いいものだとは思わなかった。
それがたとえ末期寸前のものだったとしても、だ。
春日の、自分を案じてくれるその言葉が胸に染み渡る。
「英人君、待ってくれ!」
「ひとぉーつ……」
春日の言葉を無視して、英人はカウントを始める。
……目の前の黒い女は、英人たちの会話を前にしても動こうとしない。
だが、それは機会を図っているというより始めから英人たちの話に興味がないといった様子だった。
「ヴぁ……ヴヴ、ア……」
黒い女の標的は、初めから英人一人……であれば、春日たちがここを抜けるのは容易いだろう。
「ふたぁーつ……」
「……くそっ!」
カウントをやめない英人を前に、春日も腹をくくる。
状況はどうあれ、彼の好意を……覚悟を、無駄にしてはならない。
故に、集中する。ゾンビの姿が見え隠れする、もう一つの扉の方を。
「―――」
刹那、その場に空白が生まれる。
英人は。春日は。一瞬、時が止まったような錯覚を覚える。
黒い女はかすかに目を見開き、口を開こうとする。
ゾンビたちは、体を揺らし、英人の方を睨みつける。
触手の化け物たちは、次の跳躍に備えて力を溜めた。
「―――みっつぅ!」
「―――っ!!」
英人はその場にいる化け物の気を引くように、大きく叫んだ。
その瞬間、春日はゆかりの母親の肩を抱いて、一気に駆け出す。
黒い女の口からサイレンのような咆哮がほとばしり、ゾンビたちと触手の化け物が英人へと襲いかかろうとする。
「死ねるかぁ!!」
だがその瞬間、英人は逆手に持った懐中電灯の明かりを黒い女の黄色い眼球にぶち当ててやる。
一瞬部屋の中が懐中電灯の明かりで白く輝き、その場にいる全てのものの目を焼いた。
「うっ……!!」
春日はその輝きに目をすぼめるが、足を止めることなく扉に向かう。
ゾンビたちは一瞬動きを止め、触手の化け物はその眩さにやられて天井から落ちたようだ。
「ヴ―――」
そして、黒い女は。
「アアアアァァァァァァアアァァアァァァアッァァァァ!!!???」
突如発狂したように叫び、長い爪を供えた両手で顔を覆い、さらには辺り構わず暴れ始めた。
「アアアアアァァァァァァアァッァァァ!!!!!」
耳を劈く悲鳴と共に振るわれた凶腕が、そばにいたゾンビたちの首を、腕を、胴体を斬り裂き、跳ね飛ばしてゆく。
まるで……今の自分の姿を誰にも見られたくないとでも叫んでいるかのような状態だ。
英人は懐中電灯の明かりを消し、黒い女の爪から逃れるようにしゃがんでその暴威をやり過ごす。
「っ……!」
「アアアアァァァァァアァッァァァ!!!!!」
明かりが消えても黒い女は悲鳴を上げ、辺りにいるゾンビを殲滅するかのように腕を振るう。
ゾンビたちはそんな黒い女を止めるためか、あるいは黒い女に操られてか、誘蛾灯に誘われる蛾のように黒い女に近づき――木の葉のように吹き散らされてゆく。
―ミルナ! ミルナァァァァァ!!!―
「……そりゃ、できない相談だな」
頭に叩き込まれたテレパシーにそう返し、英人は自身も扉のほうへと駆け出してゆく。
「敵の姿を見なきゃ、どうやって殺すんだ!!」
「アアアアァァァァァァァァァァァ!!!!!」
そう悪態をつく英人を、黒い女が睨みつける。
黄色く濁った眼球は敵意のみならず、強い怒気を孕んでいた。
「英人君! 早く!!」
扉を開け、向こう側にいるゾンビたちが黒い女に近づいているのを確認した春日が扉を超えながら英人に叫ぶ。
英人は彼に続くように教室を駆け抜けようとし。
「アアアアアアアアァァァァァァァァァ!!!」
「チッ!!」
弾丸のような勢いで襲い掛かってきた黒い女をスコップで何とかいなす。
ミシリ、といやな音を立てながらスコップの柄が歪むが、辛うじて黒い女の一撃を捌き切った。
そのまま教室の後ろのロッカーを破壊する黒い女を尻目に、近づいてきたゾンビに一当てしながら英人は春日に向かって叫ぶ。
「先生、急いで! こいつらから離れないと、ゆかりちゃんも見つけられない!」
「わかってる! さあ、こっちだ!」
「う、うあぁ……!?」
春日はゆかりの母親の手を引き、一度三階へと向かう。
英人はそのまま二人の背中を追いかけ、階段を駆け上がる。
―ニガスナァァァァア!!!―
「 あ ー … … 」
「 に が さ 、 な ー い … … 」
黒い女のテレパシーを受け、ゾンビたちが声を上げ、腕を上げ、英人たちの後を追おうと階段を上り始める。
その動きは規則だったものではなかったが、数だけを頼みに英人たちを追うゾンビの波は逃げる英人たちを威圧して余りある光景だった。
「クソッ! やっぱり数が多すぎる……!」
階段の踊り場を駆け抜けながら振り返り、英人は悪態をつく。
武器を調達し、ゾンビたちと戦う覚悟を決めはしたが、だからといって二十を優に上回るようなゾンビどもと取っ組み合いをする気は、英人には初めから存在していない。
一瞬黒い女を怯ませ、その隙に距離を離し、どこか隠れられる場所で息を潜めてやり過ごす。英人が考えていたのは、そんなような流れだ。
……まあ、そんな幸運、よほどの偶然が重ならない限りはありえないだろうと理性は告げていたが。
この状況で最良だったのは、ともかく敵の包囲を崩すことだった。囲まれた状態で、なおかつ場所が二階。窓から外に逃亡することも叶わない。
悪い状況が積み重なってしまったときは、ともかく目の前の状況を少しずつでも片付けていかなければならないというのが、父の持論だった。
そうした最悪を一度に片付ける妙案を思いつく人間や、あるいは過ぎたる幸運で何とかしてしまう人種もいることにはいるが、そんなのは全人類でほんの一握りの存在か、あるいは空想上の住人だけだ。
我々のようなただの人間は、最悪を前にしたときは素直に諦め、片付けられる問題から手を付けてゆくしかないのだ……というのが父から聞いた話であった。
(実際そのとおりだけど……この状況を片付ける妙案も欲しいよ、父さん……!)
迫りくるゾンビから逃げながら英人は呟き、三階の廊下で待ってくれていた春日に追いつく。
「先生!」
「急ごう! 向こうから、下に回りこむんだ!!」
春日は英人に叫びながら、反対側にある階段を指差す。
「一階までいければ、マスターキーのある職員室に行ける! そして理科室に行くんだ!」
「理科室……」
春日の口にした案を復唱する英人。
小学校の理科室にもアルコールや肌の爛れそうな劇薬は存在する。あれだけの数のゾンビを追い払うか、あるいは撃破するにはスコップよりもそうした薬物に頼るほうがやり易いだろう。
「……そうですね。急ぎましょう」
「ゆかりちゃんのお母さんも、頑張ってください!」
「は、はい……!」
春日に手を引かれ、震えながらもしっかりと頷いた。
ゾンビに追われて入るが、それでも一人ではないというのが大きいのだろう。
三人はそのまま反対側の階段まで走りぬけ、一気に一階まで降りようとする。
『――おかぁーさぁーん! どぉこぉー!?』
「――ゆかりっ!?」
その時だ。どこからか、幼い少女の声が聞こえてきたのは。
ゆかりの母親がその声に真っ先に反応し、辺りを見回す。
「今の声が……ゆかりちゃん!?」
「……無事だったみたいですね」
英人はまた自分の頭の中を疑いかけたが、他の二人にも声が聞こえていたのに気が付きそっと胸を撫で下ろす。
そして声の聞こえてきた方角……今まさに駆け下りようとしていた一階のほうを見やる。
「声が聞こえてきたのは下っぽいですね」
「ああ、そうだな」
幸い、二階の廊下を使ってこちら側に回ってきている様子はない。律儀に英人たちの辿った道を通り、満員電車か何かのように廊下にぎっちり詰まりながらゾンビたちはこちらに迫ってきていた。
「 ヴ ァ ー … … 」
「 ま ー て ー … … 」
「……考えてる暇はなさそうです。このまま下に!」
「ああ! さあ、お母さん!」
「ゆかり! ゆかりぃ!!」
春日に促され、ゆかりの母親は一気に下へと駆け下りてゆく。
春日と英人はそれを追って、階段を下りてゆく。
「ゆかりちゃんが見つかったなら、これ以上無理する必要はないな……! すぐに学校を出てしまおう!」
「ええ、そうですね――」
嬉しそうにそう叫ぶ春日に頷きながら、しかし英人ははっきりと告げる。
「……だったら、俺はここに残ります」




