中間市:中間高校通学路 -7:30-
「それじゃあ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。夏期講習で、湊ちゃんと一緒だからって気を抜かないのよ?」
「わかってるって……」
「いってらっしゃーい!」
「車に気を付けるんだぞー」
「はいはい! じゃあ、いってきます!」
朝食を終え学生服に身を包んだ英人は、クーラーの効いた室内で伸び伸びとしている家族を恨めしげに睨みつつも、太陽の照りつける外へ出て、学校へと向かう。
今年で英人は高校三年生……いわゆる受験生という身分だ。
そのため、去年までは身を入れていなかった勉強というものに打ち込まねばならないようになってしまっている。
おかげで、夏休みだというのに夏期講習という名目で学校まで赴かねばならない。不真面目学生であれば、そのままどこかに逃げるのもありだろうが、あいにく英人にはそれができないでいた。
「いい大学入ったって、いい会社に入れるわけじゃないし……。なんで、この一年だけ勉強に身を入れなきゃならないんだよぉ……」
英人はぼやく。己の不運を嘆くように。
そんな、全国の学生なら誰しも一度は抱くであろう思いを口にしていると、背後から二人、人影が近づいてくる。
「――英人君! おはよう!」
「おっす、はっちゃん! 今日も元気ー?」
「おはよう、湊……それから、はっちゃん呼びやめろよ、武蔵。お前にそう呼ばれても嬉しくない」
英人が振り返ると、そこに立っていたのは彼の幼馴染である春風湊と旗本武蔵の姿があった。
湊は英人の顔を見て、満足そうに頷く。
「うん、今日も英人君を捕獲しました! これで、おばさまにもちゃんと報告できるね!」
「真面目に学校行くからやめてくれって、湊……。もうこりました。二度とサボりはしません、って……」
英人が夏期講習をさぼれないのは、湊が逐一英人の母へと報告するためだ。
湊と英人の両親は、どちらも中間市の出で、幼馴染なのだとか。そのため両家は大変仲が良く、英人と湊も生まれてこの方からの付き合いだ。
おかげで気心も知れてはいるが、同時に迂闊なこともできないような関係になってしまった。湊は英人よりも、英人の母との方が仲が良いのだ。
二人の様子をはたで見ていた武司は、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて英人の頬を突こうとする。
「おやおや~? はっちゃん、相変わらず奥様に手綱握られてますのね~? これは卒業と同時に、俺もおじさんとか呼ばれるようになっちゃうのかな~?」
「黙れタケゾウ。誰が奥様だコノヤロウ」
「あだだだだだ!?」
英人は伸びてきた武蔵の指を握りしめ、そのまま関節の方向とは逆に曲げてやる。
武蔵は英人のいとこにあたる。英人の父と武蔵の母が兄妹で、外に出ていた武蔵の母が、武蔵の出産を機に中間市に戻ってきたのだという。
おかげで英人と武蔵の付き合いも長く、お互いの名に引っ掛けて「はっちゃん」「タケゾウ」などと呼び合う程度には腐れ縁だ。
「痛いってはっちゃん! なんでそんなにご機嫌斜め!? あれか、反抗期か! 遅咲きの反抗期なのね!?」
「反抗するほど、お前に育てられた覚えはないっちゅうの」
「ほーら、二人とも! じゃれあってると、夏期講習に遅れちゃうよ!」
ボケる武蔵を英人が叩き、そんな二人を湊が手を引っ張って連れ歩く。
小さな頃から、ずっと繰り返された光景を前に、湊が楽しそうに笑った。
「ほんっと、二人とも変わらないよねー。幼稚園の頃から、いつもそうなんだから!」
「いやですわ奥様ったら! こう見えて、武蔵さんってばメル友がいる程度には社交的ですのよ? こんな遅咲き反抗期と一緒にしてほしくないですわーん!」
「うるさいってーの! 誰が遅咲き反抗期だよ! というかメル友って微妙に古くないかそれ?」
「古くないっつーの! バリバリまだ現役の言葉だよ! 誰が爺臭い人間だコラァ!」
「誰もそこまで言ってないよ、武蔵君……」
「もう諦めろよ、名前に関しては……。カッコイイじゃんか、剣豪の名前だし」
「宮本何某サンの話はやめろぉ! おかげで昔、えらい目にあったじゃんか!」
「あれはひどかったよね……。うん、佐々木さんは元気かなぁ?」
「古傷を抉るんじゃない! 佐々木なんて女は知らないし、いなかった!」
「ああ、うん……そうだな、いなかったよな……」
「ごめんね、武蔵君……」
些細なことで武蔵はヒートアップしてゆき、それを宥めるように英人と湊は声をかける。
熱い夏の日差しを受けながら、三人はまっすぐに学校へと向かってゆく。
他愛のない話題。いつも通りにはしゃぎ、じゃれ合い、笑いあう。
変わらない日常。それを感じてか、ふと湊が呟いた。
「……そう言えば、私たちも今年で卒業なんだよね」
「なんだよ、藪から棒に?」
「あばばばば」
武蔵の耳を捩じり上げる英人は、不意に聞こえてきた湊の言葉に首を傾げる。
彼らも今年で高校三年生。世間的に言えば、社会人一歩手前。大人と子供の境界線を、ゆらゆら揺れる微妙な年頃と言えるだろう。
……そして、人がそれぞれの道を歩み始める分岐点となる年齢であるともいえる。
「二人は学校卒業した後、どうするんだっけ?」
「俺は……中間大学を受けるつもりだよ。特に目指したい道もないし」
そう言って、英人は肩をすくめる。
「なんていうか……イメージが湧かないんだよな。自分が、何をしたいのかって。進路指導の時に先生にも言ったんだけどさ……。そしたら、もっとよく考えてみろって言われた。絶対、自分にとっての進みたい道があるはずだからって」
その時の宣誓の表情を思い出したのか、英人は渋面を作った。
先生から賜った言葉に文句があるとでも、言いたげだ。
「……軽く言ってくれるけどさぁ。進みたい道ってなんなんだよ? 確かに、働かなきゃ飯は食えないけどさ……そういうのって、その時の流れとか、世間事情とか、そういうのもあるだろ? なりたい職業とか言っても、なれないことだってあるだろ?」
「いやぁ、先生が言いたいのはそういう難しい事じゃないと思うぞ?」
ぶすっとした渋面を崩さない英人の言葉に、武蔵は思わず顔を引きつらせる。
何もそんな深いことを考えると教師も言いたかったわけではないだろう。だというのにこの幼馴染はてんで的外れな方向に思考を向けて、文句を言っているように見える。
分かってないとでも言いたげな武蔵を見て、英人は渋面をよりしかめた。
「……なんだよ。じゃあ、タケゾウにはなんか目指す道でもあるのか?」
「俺? 俺は一応獣医を目指しますことよ?」
武蔵はそう言って、にやりと笑って見せる。
「そしてゆくゆくは中間市で開業し、毎日ワンニャンと戯れるドリーム溢れる日々を送るのだ……! 待っていろ、モフモフパラダイスー!!」
「そりゃ、夢の溢れることで。湊は?」
「私は、学校の先生かな」
湊の言葉に、英人は納得したように頷く。
「ああ、それは何かわかるな。湊、後輩の子とかに勉強教えてるんだろ?」
「あ、知ってるんだ英人君……。なんだか、恥ずかしいな」
湊はそう言って照れたように笑う。
そんな幼馴染の笑顔を前に、英人は快活に笑った。
「なんだよ、照れることはないだろ? おかげで成績が上がったって、嬉しそうに言ってたぞ? あの子」
「もう……あの子ったら……。それだけ喜んでくれてるなら、教えた側としては嬉しいけどね」
湊はそう言って笑いながら、前を向く。
目指す先にあるのは学校だが、彼女が見ているのはもっとずっと先の光景のようだ。
「……けど、やっぱり。私が先生になりたいのは、そういう子がいてくれるからかな? 私が教えたことに喜んでくれる子がいるんなら、私は頑張って教えてあげられるし、何よりみんな喜んでくれるわけだしね」
「ふぅん。立派だねぇ、湊先生は」
「もう、茶化さないの!
湊は英人の言葉に少しだけ怒りながらも、すぐに優しげな表情になって英人を見つめた。
「――道っていうのは、きっとすごく単純な話なんだよ。私なんか、皆に喜んでもらいたいってそれだけの話しなんだから。だから、英人君にもきっと見つかるよ。英人君が進みたいって思える、そんな道が」
「……そういうもんかな」
「そうだよ。だから、頑張ろう?」
「……ああ、うん。わかったよ」
満面の笑みを浮かべ、自分の手を取る幼馴染。
そのまっすぐな笑みをなんだか直視できずに、英人は頬を掻きながら視線をそらしてしまう。
握られた掌は、気が付くと夏の日差しに負けないほどの熱を持っているように感じ、頭に血が上るのが分かった――。
「だったらはっちゃん、湊ちゃんのために主夫を目指したら~? ほら、公務員って、お給料安定してますし?」
「まだいうか黙れコノヤロウ」
そして瞬時に冷える脳髄。耳朶に響いたからかいの声色に即時反応し、英人は鋭い拳骨で耳元の不埒ものを打ち据えようとする。
しかし武蔵は軽やかに英人の一撃を回避し、足取りも軽く道路を駆け抜けてゆく。
「ヌアハハハ! はっちゃんってばてれやさーん! みんな知ってることなんだから怒るなよぅ!!」
「そこを動くなタケゾウ……今四十連拳骨で沈めてやるよ……!」
「もー。二人とも、そんなにはしゃいでたら危ないよー?」
武蔵を追って全力で駆け出す英人。そんな英人に湊は注意するよう声をかけ、武蔵はその反応が嬉しくて大きな声で笑い声を上げる。
どこにでもある、普通の光景。
それを見下ろす太陽は、ゆらりと陽炎を纏いながら、天頂を目指してゆっくりと上がっているところであった。
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