中間市 -17:24-
そう、安堵しかけた英人の耳に、重たい足音が響き渡った。
「っ!?」
振り返ると、店内にも広がっている霧が動いており、入り口辺りに黒い影が見える。
英人はあわてて倒れていない棚の影に隠れた。
重低音の足音は、黒い影がシロガネ屋店内あたりに入ってきたあたりで止まり、続いて重い呼吸音が聞こえてきた。
―グゴォォォォォォ……―
黒い影が、深呼吸でもしたのだろうか。入り口辺りの霧が一時的に晴れ、その奥に隠されていた黒い影の姿を露にした。
「………っ!?」
英人は上げかけた悲鳴を何とか飲み込み、掌で口を塞いだ。
陰りを帯び始めた陽光に照らされたその黒い影の正体は……巨大なゴリラのような生き物だったのだ。
全身が分厚そうな黒い甲殻に覆われており、頭部には巨大な眼球が一つ存在しているばかり。
その高さは、硬い甲殻でシロガネ屋の天井を削りかねないほどであり、体の大きさに至ってはトラック程度では話にならないほどだった。
膨れ上がった胴体には大きな亀裂が入っており、どうもそこが口になっているようだ。深呼吸するたびに亀裂が割れ、その中に霧が吸い込まれてゆく。
―ングググ……―
深呼吸を終えた化け物が、ゆっくりと移動を始める。
電柱の柱よりも遥かに太い両腕を使い、貧弱な下半身を引きずるように移動している。ゴリラ特有の移動方法である、ナックルウォークに近い。
そうして付近の戸棚を掴み上げ、無造作に腹の口へと棚ごと中の食料を押し込んだ。
「………」
英人はゆっくりとつばを飲み込む。
……あれだけ巨大な化け物が突っ込んできたのであれば、確かに生半なバリケード程度では侵入を防ぐことはできないだろう。
ゆっくりとおろされたはずの拳が、シロガネ屋の地面に軽くひびを入れてしまっている。一体どれだけの質量だというのか。
全体的な動作こそ緩慢ではあるが、だからこそ恐ろしい。一体どれだけのパワーがあの化け物の全身に込められているのか……。
「………クソ」
英人は苦々しげな表情でつばを飲み込む。化け物が、ゆっくりと入り口付近に腰を下ろしてしまったのだ。
化け物は茫洋とした眼差しで前方をぼんやりと見つめている。英人のいる位置からでは、ちょうど化け物の視界に入ってしまうし、どこから動いてもシロガネ屋を出る際には必ず化け物の視界に入ってしまいそうだ。
こうなってしまえば乾電池はあきらめるより他はないが、だとしてもあの化け物が居座っている位置はまずい。このままでは、シロガネ屋を出ることができない。
どう動くべきか。ひとまずは下がって化け物の動向を伺うべきか……。
そう考え、英人はゆっくりと後ろへと下がっていく。
棚の陰に隠れるように、慎重にすり足で足音を立てないように、ゆっくりと――。
……っこぉーん。
「っ!?」
不意に、英人の足元で音がする。
ぎょっとして見下ろすと、棚に乗っていたのであろうか小さな園芸用スコップが床の上を跳ねていた。
顔面蒼白となった英人はがむしゃらに地面へと体を投げ出した。
あんな化け物に突進されてきては一撃でひき肉にされてしまう。今できることはできる限り体を伏せ、幸運にも化け物が英人の体をひき潰さないことを祈るだけだった。
「っ――!!」
ギュッと目を瞑り、両手で頭をかばい、来るであろう衝撃に備える。
― ……―
「………………………………?」
……一分ほど経った。だが、化け物の足音どころか、あの巨体が身じろぎするような音すら聞こえてこない。
英人は床に体をつけたまま、恐る恐る化け物の方を窺った。
―…………―
化け物は相変わらず茫洋とした眼差しで宙を見つめている。
……こちらに気が付いている様子ではない。
「……聞こえて、ないのか?」
英人はポツリと呟く。
化け物の頭部には耳に相当しそうなパーツは存在しない。音が聞こえるかどうかははっきり言えば疑問である。
だが、だからといって音が聞こえないと判断するのは早計だろう。聞こえていて、あえて無視している可能性は否定できない。先ほど棚の中の食料を食べて満腹になっているのかもしれないし。
英人は今自分が伏せている床の上から小さなスコップを拾い上げる。
「………」
そしてなるべく化け物を刺激しないよう、しかしはっきりと化け物にも聞こえるよう、スコップの柄を床に思いっきり叩きつけた。
こぉーん!
先ほどよりもはっきりと、大きな音がシロガネ屋の中に響き渡る。
英人は化け物を見つめたまま、身構える。動きがあればすぐに動けるように、体に力を入れる。
―…………―
だが、化け物は身じろぎ一つしない。依然として、中空を見つめたままピクリとも動こうとしない。
どうも、音が聞こえていないということで間違いはなさそうだ。
あるいは極端に聞こえにくいか。距離が離れているせいで、音がはっきりと聞き取れていない可能性はある。
だが、どちらにせよ英人としては多少動きやすくなった。あまり無理をしなければ、移動自体は自由に行なえそうだ。
「……よし」
英人は小さくうなずき、化け物の視界から隠れるように立ち上がり、そのまま大きく迂回するべく移動を始めた。
音が聞こえないのであれば、移動の際の制限も少ない。もちろん、あまり目立つような動きは厳禁であろうが、少なくとも足音を立てるくらいは許容範囲のはずだ。
英人は棚の陰に隠れながら、化け物の背後を取るように動く。
耳が聞こえないというのであれば、おそらく目が良いのだろう。頭の大きさとほぼ同等のサイズの瞳がどれほどの視野を持つかはわからないが、後頭部側を見られるほどの視認性があるわけもないだろう。
裏周りから気が付かれないようにシロガネ屋を抜ける方法があれば、何とか化け物から逃げ切ることはできるだろう。ぎりぎりまで接近できるのであれば、乾電池も回収できるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、化け物の背中が見える位置まで移動できた英人の耳に、また別の音が聞こえ始める。
「―――ぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁ……!!??―――」
「っ! これは……」
素早く棚の影に隠れ、英人は化け物の背中側からシロガネ屋の外を見る。
聞こえてきたのは悲鳴。おそらく若い男性。化け物か、あるいはゾンビか。どちらかに見つかり、必死に逃げているのだろうか。
響き渡る悲鳴を聞いても、化け物は動こうとしない。そして悲鳴が聞こえてきたおかげで英人も動けなくなった。
生きている人間の悲鳴が聞こえるということは、当然その人間を襲っている脅威がいるはずだ。
ゾンビが一人二人程度であれば何とかなる装備は手に入れられたが、その数が十や二十に増えるとなると容易なことではない。ただの一般高校生である英人に、そんな数の暴徒をいなすだけの技術はない。
「………」
英人は近づく悲鳴を前に、棚の影でじっと息を潜める。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
「 う あ ぁ ぁ ぁ ぁ … … 」
「 あ あ ー … … 」
悲鳴を上げながら一人の男がばたばたとシロガネ屋の中に飛び込み、さらにそれを追ってゾンビたちが数にして十前後、シロガネ屋の中へと侵入する。
英人はゾンビの数を見て舌打ちする。あれだけの数を、化け物に注意しながら突破するのは難しい。
―ボッゴォ!!―
そう思っていた英人の耳に、とんでもない轟音が聞こえてくる。
それは、化け物のほうから聞こえてきた。英人のいる位置では化け物の背中しか見えないが……。
「なんっ……!?」
だが、それでも驚愕せざるを得なかった。
何しろ、今まで動かなかった化け物の体が一回りか二周りほど肥大化したのだ。
―ボアァァァァァァァ!!!―
そして化け物が上げた咆哮を聞き、英人は先ほどの轟音が、化け物が息を吸い込んだ音なのだと気が付いた。
咆哮をあげると同時に、化け物は両腕を床に叩き付け、目の前を横断しようとする生存者とゾンビの一団へと飛び掛った。
「ひぃぃぃぃ!!??」
生存者は間一髪、体を前へと投げ出し化け物の突進をかわす。
だが、それを追っていたゾンビの一団は化け物の突進をかわすことなく生存者へと飛び掛ろうとし。
「 あ ー 、 あ ? 」
次の瞬間、紅い血煙へと変わり果ててしまった。
そして瞬き一つの間に化け物はシロガネ屋の壁へと衝突し、そこにあった棚を粉微塵に打ち砕いてしまった。
「…………」
それを見て絶句する英人。先ほどまでの緩慢な動作からは想像し得ないほどの速度だ。瞬間的な加速だけを言うのであれば、車など比較にならない。
恐らく肥大化した全身の筋肉……特に両腕の筋肉が発達している故のスピードなのだろう。そうして視界内に入った獲物に高速で飛び掛り、腹の口を大きく開いて鯨か何かのように前方の獲物を貪り食うのがあの化け物の捕食方法ということか。
―オゴアァァァァァァ!!!―
化け物は咆哮を上げ、ぶつかった壁と棚を腹の口で引き毟り、壁材を咀嚼しながら生存者のほうへと振り返った。
「ひっ!? ひやぁぁぁぁぁ!!」
化け物のスピードと破壊力を見て腰を抜かした生存者は何とか立ち上がろうとするも、足腰に力が入らず何とか棚にすがるのが精一杯で。
―ボアァァァァァァァ!!!―
「あああぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
砲弾と化した化け物の大きな口の中に、一瞬ですっぽり納まってしまった。
そのまま生存者ごと棚を口の中に勢いで押し込みながら、化け物はまた別の壁にぶつかって止まる。
「………っ!」
英人は轟音が響き渡るのと同時に、一気に駆け出した。
動くなら今だ。化け物は生存者を目指して一気に突っ込み距離が開いた。化け物の突進の有効半径がどれほどのものかはわからないが、距離を離せば見てから回避もできるかもしれない。
「 あ ー ? 」
「どけぇ!」
入り口に向かって掛けてくる英人に向かって、生き残ったゾンビたちが何人か振り返る。
英人は手にしたスコップでゾンビの体を薙ぎ払いながらレジカウンターの横を通ろうとし。
「―――っ!」
視界に入った乾電池を見て、足を止める。
化け物は幸い、反対側の壁にぶつかって止まっている。必要な乾電池は今もっている懐中電灯一本に付き二本。目の前には、単一乾電池の山。
持って行かない道理はなかった。
反射的に単一乾電池を引っつかみ、何本かまとめて方に引っ掛けていたザックの中に放り込む。
「よし……!」
英人は満面の笑みを浮かべ、ザックを背負い直し、シロガネ屋を後にしようとする。
―ボッゴォ!!―
「っ!」
だが、聞こえてきた轟音に思わず振り返る。
壁に激突し止っていた化け物はいつの間にか英人をしっかりと見据え、大きく息を吸い込んでいた。
「しま―――!?」
―ボアァァァァァァァ!!!―
咆哮と同時に叩き付けられる化け物の両腕。
化け物が飛び出すのと、エントランスが再び大きく破壊されるのはほぼ同時であった。




