中間市:中間高校・3-B教室 -12:16-
武蔵は、化け物が去った後をしばし呆然と見つめていたが、すぐに気を取り直して英人のそばにかがみこんだ。
「英人……! 大丈夫か? 化け物が、いなくなったぞ!!」
「う、ぐ……! そ、そうなのか……!?」
「ああ、そうだ! もう、大丈夫だぞ!!」
痛みにうめき声を上げる英人にしっかり声を上げながら、武蔵はすばやく上着を脱ぐ。
学校指定のYシャツを脱ぎ、さらに下に着ていたTシャツも脱ぐ。
そしてTシャツを力任せに引き裂いて、英人の腕に刻まれた化け物の噛み跡をふさぐように、きつめにTシャツを巻きつけた。
「しっかりしろよ……! ちょっと痛いぞ!」
「づ……!」
「英人君、しっかりして!」
湊は涙を流しながらポケットからハンカチを取り出し、英人の汗と顔に付いた血を拭いてゆく。
「英人君、ごめんね……ごめんね……! 私のせいで……!」
そして、必死に謝罪を繰り返す湊。己の軽率な行為が招いた惨状を前に、ひたすら頭を垂れ続けた。
英人は痛みに呻きながらも、湊に何とか声をかけた。
「大丈夫、だ……。湊、が、無事なら……!」
「英人君……!」
強がっているようにしか見えない英人の姿に、湊の涙は止め処なくあふれ続ける。
彼の手を握りしめ、すっかり冷え切った彼の体を温めようとした。
そんな彼らに、黒沢がゆっくりと近づいていった。
「……おい、英人……お前……」
血まみれの英人と、その腕に刻まれた噛み傷を見て、黒沢はごくりとつばを飲み込んだ。
「……噛まれた、のか……」
「……あ、あ……見ての、通りだ……」
英人は息も絶え絶えといった様子で黒沢に答え、それから彼を見上げる。
黒沢の顔はかすかに青くなっており、なんと声をかけるべきか迷っているように見えた。
「……おい、英人……体は、平気か?」
「……頭が痛い……気持ち、悪いし、最悪の、気分だ……」
血を流しすぎたせいか、くらくらする頭を抑えながら、英人は何とか立ち上がろうとする。
「おい、英人! 無理すんなって!」
「いや、いい……」
あわてて武蔵が押さえつけようとするが、英人はそれを押しやって立ち上がり、黒沢と正対する。
「……黒、沢」
「……おう」
英人は黒沢の名を呼び、それからなにを言うべきか、考える。
突如現れた化け物。腕に刻まれた噛み傷。そして――。
(……えりなの、最期の言葉)
電話の向こうから聞こえてきた、クラスメイトの最期の言葉。
それを思い出せば、今黒沢が何を考えているのかは察しが付く。
「……俺、は――」
黒沢の疑問の答えになるかはわからないが、それでも彼に向かって言葉を紡ごうと口を開く英人。
「……!? おい、委員長!?」
だが、英人の口から言葉が続くことはなかった。
黒沢がその名を呼んだ次の瞬間。
「ごっ―――!?」
後頭部を襲う重い衝撃と、何か細い木の棒がへし折れるような音が聞こえ……それっきり、英人の意識はぶつりと途絶える。
「―――!?」
突然の出来事に、湊は口を覆って悲鳴を飲み込む。
「な……!?」
武蔵は口を開け、目の前の光景に唖然となる。
「―――」
ゆっくりと、スローモーションのように倒れこむ英人。
倒れたときの衝撃で、彼の胸ポケットから携帯電話が飛び出し、液晶画面が表向きになる。
そして、彼の背後では手にしたモップを振り下ろした委員長が荒々しく息を吐いていた。
「はっ……! はっ……!」
「お……おいおい、委員長。いきなりなにしてんだよ……」
思わぬ人物の、思わぬ行動に戸惑う黒沢。
誰かが、反射的に英人を襲う可能性は黒沢も考えていた。
えりなの最期の言葉から、人間がゾンビになる最も高い可能性は化け物に噛まれることだろう。下にいたゾンビたちと、空を飛ぶ先の化け物たちが同じ種族……というか種類の化け物かどうかはわからないが、関連を疑うべきではあるだろう。
そして、英人は先ほど化け物に腕を食い千切られんばかりに噛み付かれていた。この状況で、彼の感染を疑わないほうがどうかしているだろう。
教室内で感染者が現れ、それが暴走してしまえば余計な被害者が増える可能性がある。そうなる前に、感染の疑いがある者を攻撃するのはあるいは英断と言われるべきかも知れないが……。
「後ろからいきなり殴るこたぁねぇだろ……。まだ英人のやつ、人間だったじゃねぇか……」
さすがに黒沢も、背後から不意打ちするのは気が引ける。しかも、英人はまだはっきりと自我を持っていた。少なくとも、彼に疑いを持っていた黒沢に対して何らかの言葉を返そうとしていた。殴り倒される直前まで……彼はまだ、人間だったのだ。
だが、非難するような黒沢の言葉に委員長は息を整えながら答えた。
「はー……はー……。――僕は、危険を排除しただけだ……責められる謂れは、ない」
いつものように眼鏡を押し上げながら、委員長は静かに答えた。
……最も、揺れる眼差しを見る限り冷静とは言い難いようだったが。
「君も聞いたろう、えりなの最期の言葉……。彼女は、噛まれたといった……。なら、一番感染の可能性が高いのは、化け物に噛まれることだ。だから、僕は……」
「だからって……だからって、いきなりこれはないだろうがッ!!」
言い訳じみた弁明を始める委員長の言葉をぶった切り、武蔵が大音声で叫んだ。
英人のそばに駆け寄り、その体を抱き上げながら、武蔵は大粒の涙を流しながら委員長を睨み付ける。
「英人がなにしたってんだよ! 英人がお前を襲ったのかよ!? 英人が誰かを殺したのかよ!? 英人が化け物になっちまったってのかよ!?」
「先に言ったとおりだ。噛まれたら、感染する……これは、先のえりなの言葉から―――」
「まだわかんないだろ!? 本当に噛まれただけで感染するかどうかなんて、わからないじゃないか!! 何か条件があったかもしれないだろうが!!」
「だからといって、その何かのために僕らを全滅させるつもりか! そんなの、僕はごめんだぞ!!」
「なにがごめんだよ……! 身勝手だろうがこんなの!!」
武蔵が叫んだ瞬間、英人の携帯電話が鳴り始める。
その場にいた全員がはっとなり、ディスプレイに表示された名前を見る。
表示された名前は“礼奈”。クラスの全員が知っている……英人の、妹の名前だ。
全員が黙りこくり、携帯電話を見つめる。
しばらく鳴り続けた携帯電話は沈黙し、そして留守番電話サービスにつながったことを示した。おそらく、礼奈が何らかのメッセージを吹き込んでいるところだろう。
ディスプレイの表示を見つめながら、武蔵がポツリとつぶやいた。
「……英人には、妹がいる。親父さんだって、おふくろさんだっている……」
「そんなの、僕にだって―――!!」
「だけど、もう英人は会えなくなったかもしれないんだぞ! 生きてる俺たちと違って、英人は! もう、親父さんにもおふくろさんにも……礼奈にも会えないかもしれないんだぞ!!」
武蔵は赫怒に燃える眼差しで、委員長をにらみつける。
「俺たちだけ生き残って、その後英人の家族になんていうんだ!? 自分たちが殺されるかもしれないから、お前がその手で始末したって言えるのか!? 親父さんの、おふくろさんの、礼奈の目を見てお前が言うのか!!??」
「そ……それ、は……!」
「自分で、ごまかしもなく、一切合財すべてをはっきりというってんなら俺も責めない! だが、そうでないってんなら、俺はお前を許さない!! お前はお前のためだけに、英人を殺したんだぞ……!」
「この、人殺しがぁぁぁぁぁぁ!!!!」
武蔵の、絶叫が、教室の中を木霊する。
誰もが言葉を失った。誰も、武蔵の言葉に反論できなかった。
言い訳のしようもない……。確かに、委員長は、英人を殺そうとしたのだ。
武蔵の言葉に、自分が殺されたかのように委員長は顔面蒼白となり、小さく全身を痙攣させる。
武蔵の言葉を聞いて、いまだ目を覚まさない英人の姿を見下ろし、湊は静かに嗚咽をこぼす。
しばし、教室内に沈鬱な空気が舞い降りる。
動くことさえはばかられる中、一番早くその空気からの脱却を図ったのは委員長と武蔵の間に挟まれていた、黒沢であった。
「……あ、あー……武蔵よ。お前の言いたいことはわかる、うん」
自分の元々の目的を思い出しつつ、何とか場の空気をほぐすようにわざと軽い声を出しながら、委員長を示してみせる。
「確かに後ろからってのは卑怯だった。やるならせめて、一声かけて、前からやるべきだな。それなら、公平だ。英人が避けたり、反撃したりするかもしれないが、それなら委員長と英人の立場は公平だ。そうだろ?」
「………っ!」
武蔵は黒沢をギロリと睨み付けるが、数瞬置いてうなだれる様にして彼の言葉に同意した。
「……そう、だな。それなら、英人だって……」
「そうだろう、そうだろう。けど、委員長だって必死だ。誰だって死にたくない。お前だって、秋山や他の連中を守りたかったんだ……そうだろ?」
「……あ、ああ」
調停者かなにかのように振舞う黒沢の姿に戸惑いながらも、委員長はしきりに眼鏡を押し上げながら頷いた。
「……それ以上の意図はなかった。僕だって、できることなら英人君を襲いたくはなかった……だがっ!」
「そうそう! 委員長だって、必死だったんだ! そいつは認めてやろうぜ、武蔵……英人だって、湊やお前は襲いたくねぇさ。な?」
言い訳を続けようとする委員長を遮り、黒沢は武蔵にそう語りかける。
武蔵は委員長を睨み付けながらも、黒沢の言葉に頷いてみせる。
「……ああ、そうだ。俺だって、同じ状況になったら……」
「だろう? そうだろう、そうだろう? お前たち仲いいもんな……。友達は襲いたくねぇし、襲われたくもねぇ。たとえ同じ人間にだってな」
わざとらしいくらい悲しげな様子で首を振りながら、黒沢は英人の首筋に軽く手を触れる。
「………」
そして英人の心臓がかすかに脈打っていることを確認すると、小さく頷いて見せた。
「……そして、運のいいことに英人は生きてるな。少なくとも、心臓は動いてるわけだ」
「っ! 英人は……まだ!!」
武蔵は顔を上げ、信じられないというように声を上げる。
しかし、自分でも英人の首筋に触れ、まだ心臓が脈打っていることを確認し安堵の息をつく。
「英人……! 湊ちゃん! 英人、まだ……!」
「ほ、ほんとうに……? うそじゃ、ないの……?」
英人がまだ生きていると聞き、しゃくり上げながら湊が問いかける。
武蔵はそんな湊に、笑顔で頷いて見せた。
「ああ、生きてる……! 英人、まだ生きてるよ!」
「……よかった……英人君……!」
湊は顔を覆って、また泣き崩れる。
武蔵も、先ほどまでの赫怒がどこかへ消え去ってしまったかのように満面の笑みで喜んでいた。




