中間市:北部・山道付近 -10:31-
霧の濃い中間市の道路を、一台の乗用車がひた走っている。
ヘッドライトはまばゆい光で霧を払わんと進路をひたむきに照らしている。
そんな乗用車の進路上に一人の男が現れる。
「 ―――」
口はだらしなく開かれ、涎を垂らし、何かを求めるように左右を見回す。
突然進路上に現れた通行人?を前に乗用車はスピードを緩め――。
ゴォアン!!
――ることなど一切なく、容赦なく通行人?の体を跳ね飛ばした。
跳ね飛ばされた通行人?は口から血を吐きながら宙を舞い、そのまま頭から地面に激突。
車にはねられたときに生まれた衝撃をもろに喰らった通行人?の頭部はスイカか何かのように瑞々しい音を立てながら粉々に砕け散ってしまった。
「――ねぇ!? 今、何か轢いたわよね?」
「ああ、轢いたな!」
そして、通行人を引いた乗用車の運転手……若い男は妻らしい女性に問われて力強く頷いた。
「人間に似た何かだったな! 人を襲う、化け物だ! 轢いたって構うもんか、どうせ人間じゃないんだ!」
「そ、そうよね……人間じゃ、ないものね……そうね……」
男の力強い言葉に、女性は何とか自分を納得させようと小さくぶつぶつつぶやく。
そんな女性を安心させるように、男はさらに声を高くして叫ぶ。
「町中が霧に沈んで、しかも辺りがゾンビだらけ! こんな状況で呑気に道路のど真ん中を歩いてる奴が、まともな人間なものかよ! 一匹化け物が減って、世界も少しだけ平和に近づいた! これ以上いいことがあるものかよ!」
「え、ええ、そうよね……そうよね……」
狂ったように叫ぶ男に、壊れたように頷く女。
……そんな二人を、後部座席から小さな……小学校一年生くらいの少年が見つめていた。
チャイルドシートに繋がれた少年は、高速ですっ飛ばす車の振動で体を揺らしながらも、文句ひとつ言わずに黙って両親の背中を見つめていた。
……いや、何も言えずにいた。両親の放つ、異様な気配に気圧されてしまい、少年は口をつぐむ以外の選択肢を持てずにいた。
最初は街中が霧に包まれた幻想的な光景を前に、少年は興奮したし、母は驚きとともに微笑んでいた。
そうして、日曜大工のために材料を買いに行っていた父を母と共に待っていた。
だが、家に帰ってきた父は血相を変えた様子で自分と母を車の中へと押し込んだ。
当然母は戸惑い抗議したが、父はそれを怒りのままに一蹴。
少年も反論の声を上げようとしたが、一喝で黙らされてしまった。
父の抱く強い感情を敏感に感じた少年は、それ以来ずっと黙り込んでしまった。
霧に包まれた街の情景は普段と違う幻想的なものだったが、両親はその向こうに普段とは違う何かを見つめているようだった。
「ああ……っ! あなた、あれ……!」
「わかってる! 今は街中、あんなのばっかりだ!」
「うそよね……こんな………。ああ、せっかくいい町に引っ越せたのに……!」
「まったくだ! こんなことになるんなら、無理にローンも組む必要はなかったのにな!」
少年がこの街に引っ越してきたのは、小学校に上がる前だった。
両親は元々この静かな中間市に引っ越しをすることを考えていたようで、少年が小学校に上がるのを待っていたらしい。
少年も初めこそ、幼稚園からの友達と離れるのを嫌がったものだが、今はもう新しい友達がいる。だから、寂しくはない。
「こうなっちまったら、しかたないさ! とっとと逃げよう! こんなところに、一秒だって長くいられるものか……!」
「そうね、そうね……しかたいないわよね……」
だが、どうも両親はここから出る話をしているように少年は感じていた。
この街に越してきて一年程度。まだ自我も幼い少年にとって、良心の言葉の為す意味は理解できなかったが、なんとなく嫌だなとは感じた。
せっかくできたお友達とまた別れるのは、嫌だな、と。
「………」
だが、反論の言葉を口にするのは憚られた。
下手をすれば、また父に叱られてしまうかもしれない。
少年は、そこで泣き喚けるほど気の強い性質ではなかった。
……喚いたところで何が変わるわけでもない。少年の態度は、ある意味正しいと言えた。
やがて車は、市の境目となる国道へと続く山道へと入り始めた。
やや勾配のきつめな坂道を登る車を見て、母は父に問いかける。
「あ、あなた……こっちは山道よ? 大丈夫?」
「大丈夫だ! むしろ平野伝いの方がまずいだろ! ゾンビどもが、街から街に広がってたら逃げ場がない! けど、山さえ越えれば大丈夫だ!」
「そ、そうよね。そうよね……」
父の自信満々な言葉に、母は頷きながら同意する。
少年はそんな良心の背中を見つめながら、家から唯一持ってこられたヒーローのフィギュアを弄る。
「――なんだ!?」
……不意に、車が急停止したのはそれからしばらくしてからだった。
急ブレーキによって発生した高音が、少年の耳朶を激しく揺さぶる。
シートベルトをしていた母も、ブレーキの衝撃で前のめりになり父の方を睨みつけた。
「きゅ……急に何よ!?」
「なんだ、あれ!? 壁か!?」
「壁!? 一体……ちょっと!?」
父は叫びながら車を飛び出し、母もそれに続く。
少年は自分ではチャイルドシートのシートベルトを外せなかったため、大人しく外に出ていく両親を見送った。
「いつのまに、こんな……!」
少年の父は、眼前に立ちはだかる壁に手をつく。
ほとんど車の目と鼻の先にそびえたつのは、鋼鉄の板で出来た壁であった。
地面からせり出したらしいそれは見上げても天井が分からないほどに高くそびえ立ち、道をゆく者を遮っている。
しかも道路上だけではない。横を見ればずっと向こうまで壁が延々と続いているのが見えた……。
まさか、山道どころか、中間市すべてを覆っているのではないか? 不意に、そんなバカげた考えが少年の父の脳裏に浮かんだ。
「クッソ、一体どうなっているんだ……!?」
「あ、あなた……! どう、どうするの!?」
ここに来て緊張感が限界に達していた少年の母が、少年の父の胸ぐらをつかんだ。
「こんな、こんな山道のど真ん中に追い詰められて! 町中でさえ、ゾンビが溢れかえっていたのよ!? そのうち、こんな山道の入り口にも奴らが押し寄せて! もう、おしまいじゃない!!」
「お、落ち着け! ここに壁があるなら、Uターンして戻ればいいだろう!?」
「戻ってどうするのよ!? ゾンビと一緒にチークダンスでも踊るの!? 一人でやって、私を巻き込まないで!!」
少年の母はひとしきり叫ぶと少年の父の胸ぐらを乱暴に突き放し、そのまま背を向けて山道の脇へと降りてゆく。
「お、おい、待てよ! どこいくんだ!?」
「ほっといて! 私は逃げるの! このまま逃げて、絶対に逃げのびてやるのよぉ!!」
少年の母は叫んで足早に立ち去ろうとする。
少年の父はそんな彼女を放っておけず、慌てて追いかけようとする。
――その時だ。
「……? な、なんだ?」
翼が空を打つ大きな音が聞こえ始める。聞いたこともないほどに大きな音だ。
ばさ、ばさ、っというその音は少年の父の頭上を跳び越え……。
「……! おい、上だ!!」
「何よ、放っておいてって――!!」
少年の母の頭上に大きな影として現れる。
自らの頭上に影が差したことに、激高していた彼女は一瞬遅れて気が付いた。
「――え!?」
その一瞬が、まさに命取りだった。
己の頭上を仰ぎ見た瞬間、彼女の喉元に何かが喰らいついた。
「―――!!」
喉元まで出た叫びを飲み込んだ少年の父の目の前で、鮮血が噴き出す。
少年の母の喉を喰らった何かは、勢いよく天を仰ぎ見る。
その勢いでのどを骨ごと喰い破られた彼女の頭部はコトンと背中側に倒れ、そのまま体も地面に仰向けに傾き――。
「―――!!」
凄まじい勢いで、少年の母の遺体に何かが群がった。
人間程度の大きさのそいつらは、彼女の手足と言わず、胸に腹、そして内臓まで喰いつくさんという勢いで彼女の体を貪ってゆく。
「う……!? ごぇ……!」
あまりに唐突な出来事、衝撃的な映像、漂う血生臭に耐えかねて、少年の父が勢いよく腹の中のものを吐き出す。
「ぐぇ、げぇ……! が、は……!」
吐くだけ吐いた男は、口元を乱暴に拭いながら、車に向かって駆け出す。
「し、しぬ……! 俺まで、殺される!!」
妻を襲った輩が一体どんな連中かはわからないが、それでも理解できることはある。
ぼうっとマヌケに立っていれば、殺される。それだけは理解した。
男は急いで運転席側に回り込み、車を動かすべくドアに手をかけた。
だが、彼の動きは一瞬遅かった。
彼の手を、横合いから誰かが掴んだのだ。
「な!?」
さっきの連中の羽音は聞こえてこなかった。なら一体だれが!?
それを確認しようと振り返った男の顔面を、赤黒い六本指の手が力強く掴む。
「もがぁ!?」
がっちりと己の顔面をとらえる手の生々しい血の匂いによろめきながらも、男は拘束から抜け出そうとする。
だがそれは叶わない。男の出し得る力よりもはるかに強靭な膂力でもって顔面を抑え込んだそいつは、男の右手だけではなく左手も掴む。
顔面。右手。左手。三点を抑えられた男は、よろよろと後退し――。
「あが!? や、やめ……!!」
そいつは強靭な膂力でもって、男の両手を肩からもぎ取ってしまう。
「あ、がぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
不意に訪れた激痛に耐えかね叫ぶ男。
赤く眼光をぎらつかせたそいつは、男の顔面を支点にグイッと体を彼の頭上まで持ち上げ、その勢いのまま男の首をねじり取ってしまう。
肉の引きちぎれる嫌な音共に、男の首から噴水のように血が噴き出す。
そいつが地面に着地すると同時に、辺りからそいつそっくりの奴らがわさわさと現れ、男の体に群がり、その体を餌として貪り始めた。
――そして、一連の流れを見ていた少年は完全に動けないでいた。
「―――」
目の前で、両親が次々と惨殺されてしまい、現実に思考が追い付いてゆかない。
いったい何故? どうして? なにが? だれが?
そんな意味を為さない問いが頭を駆け巡り、逃げるという選択肢さえ少年の脳裏には浮かび上がらない。
……もっとも、少年が車の外に逃げられたとしてどれだけこの連中から逃げられるかは疑問であったが。
やがて、少年の脳裏に“次は自分だ”という言葉が浮かび、抑え込んでいた恐怖が涙と悲鳴となってあふれ出す。
「――ア、アアアァァァァァァァァァァァ!!!!」
外にいた連中は、少年の泣き声を聞いて車の中にまだ誰かがいることに気が付き、一気に車へと殺到する。
「ア、アァ!? アァァァァァァ!!!」
迫る恐怖に、少年はより一層声を張り上げるが、そんなことで怯む連中ではない。
……だが、続いて響き渡った地響きを聞き、車に群がりかけていた連中は音の聞こえてきた方へと注視した。
「ア、アア……?」
再び、地響き。
外の連中は、霧の向こうに何を見たのか、慌てたように車から飛び退り、どこかへと消えて行ってしまう。
助かった。少年はそう感じ、涙を流しながらも強張っていた全身から力を抜きチャイルドシートに身を預ける。
……だが、再び響き渡った地響きに、少年が顔を向けてみると。
「―――!!」
車の窓から見えたのは、ビルの柱と見紛うほどに太い手足。
彼が車の窓から見上げられる限界などはるかに超える巨体を持った何かが、ゆっくりと車に近づいてきていたのだ。
先ほどの連中は、これを恐れて逃げ出したのだろうか? だとすると、こいつは味方なのだろうか?
少年は幼い頭でそう考えギュッと身を縮ませながらその巨大な何かが通り過ぎるのを待つ。
敵か味方かわからない。なら刺激しない方がいい。……幼い経験でもそれくらいのことは分かった。
だが、突如現れた巨大な何かは、そもそも少年の事に気がついてすらいなかった。
さらに言えば、車すら認識していないようだ。その巨大な手足を持ち上げ、なんということもないように少年がまだ中にいる車の上へと下す。
車が歪む音を聞き、少年はヒーローのフィギュアを握りしめて、一心に祈った。
――残念なことに、少年の手の中にいたヒーローは、彼の幼い命を守ってくれはしなかったが。
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