中間市 -16:14-
巨大になりすぎた少女の体は、持ち上げるのでさえもはや苦痛と呼んで差し支えない重労働であったが、何とか地上へとその身を躍らせる。
轟音を立て、辺りの建物をなぎ倒しながら青空の下へとその身を晒す適合者の少女。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
本来であれば、もっと優雅に、そして喜びを持って外に出る予定であったが、そんなことを言っている場合ではない。
適合者の少女は重たい体を引きずりながら、何とか地下に通じる穴から逃げ出そうとする。
このまま素早く移動することを想定していないため、ずるずると全身を引きずるように移動することしか出来ないが、それでも一歩でも多く、一秒でも早く、一メートルでも遠くに移動しようとする。
まだエレベーターは完全に昇りきっていないが、そのまま放っておけば英人もまた地上に上がってくるはずだ。そうなっては、移動力に欠ける自分では即座に追いつかれてしまう。
そうなる前に、少しでも遠くに逃げなければ。
「もう少し……もう少しのはずだからぁ……!!」
そう、もう少しのはずだ。
もう少しで、この街は完全に消滅するはずだ。
その瞬間に、賭けるしかない。
今の英人に、こちらの攻撃は一切通用しない。
触手の一撃を瞬時に吸収し、己の糧に変えられる上、無機物すら取り込む今の彼に対して攻撃できる方法は、今の少女には存在しない。
ならば、とりうる手段はただ一つ。
―オオオォォォォォォォォォォ!!!!!!!―
「ヒッ!?」
背後で、サイレンのような獣の咆哮が上がる。
少女は慌てて背後に視線を向ける。
「っ…………!!??」
そして、絶句する羽目となった。
入り口の淵にいつの間にか立ち、こちらを見据えているのは人ではなかった。
それは、黒い獣。
全身が巨大に膨れ上がった英人の体はもはや人ではなく、一匹の獣と化していたのだ。
―オオオォォォォォォォォォォ…………!!!―
喉の置くから咆哮を搾り出す彼の見た目をなんと称すればよいのか少女には検討もつかない。
先ほどの二倍にも三倍にも膨れ上がった全身を覆うのは、黒い体毛だろうか? 風に吹かれて揺れて流れるさまを見ると毛のようにも見えるが、黒い湯気か何かだと言われてもそうだと信じられそうだ。
鼻面が伸び、ぎっしりと牙が生えたその顔面は、狼、だろうか。だが、地上に存在するどんな獣にも類推できないような、邪悪な形相をしている。
刃のような瞳に色はなく、白く濁った眼球を晒している。果たして正常にものが見えているのかどうかすら判断がつかない。
膨れ上がった四肢は、先ほど英人が生み出していたものとは比較にもならないほどに凶悪になっている。
少女は、顔から色を失う。先ほどまでに得たエネルギーを全て、全身の強化に回したのだろうか。
この調子で体躯が膨れ上がると言うのであれば、こちらの体などあっという間に飲み込まれてしまうだろう。
「く、う……!?」
遠くに逃げようと必死に体を動かしつつ、少女は背後に向かってその辺りに生えていた電柱や、地べたに転がっていた車を触手で掴み、黒い獣に向かって投げつける。
かなりの速度でもって飛翔するそれらは、その辺りの家屋程度であれば一撃で破壊できるだけの力が込められているはずだった。
―………―
だが、迫りくるそれらを前にしても、黒い獣は微動だにしない。
それどころか、その体で飛来したそれらを受け止めて見せたのだ。
……僅かに、黒い獣の体に沈み込んだ電柱や車たちは、次の瞬間には黒色に染まり、そして瞬きの間にその体の中へと取り込まれていった。
「なにあれ……!? なんなの、あれ……!?」
自分など足元にも及ばない吸収能力。
自らの体すら飲み込んでしまう存在から必死に逃げる適合者の少女。
彼女の瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
ここまで来て。あらゆるものを犠牲にして。
たった一度だけを凌ぐために積み上げてきたものが、たった一人のために無駄になってしまう。
ただ、生き延びたいだけなのに。ただ、死にたくないだけなのに。
理不尽に晒されてきた自分が、一体何をしたと言うのか。
胸のうちで、必死に叫ぶ少女の声は、決して黒い獣には届かない。
―………ッ!!―
適合者の少女が投げつけた物質を取り込み、黒い獣の体はまた一段と大きく膨れ上がる。
ボン!と大きな音を立てて全身を張り詰めた黒い獣は空を見上げて咆哮を上げる。
―ウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!―
大気が震え、辺りにあった建物も車も電柱も、まとめて吹き飛ばされてゆく。
強靭な圧力を伴った咆哮は適合者の少女にも届き、その体を震わせる。
「っつぁ!?」
ビリビリと全身を震わされ、彼女は動きを止めてしまう。
その瞬間を、待っていたと言わんばかりに。
―ウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!―
黒い獣が咆哮と共に跳ぶ。
地を砕き、空を裂き。
憎き怨敵の元に、飛翔する。
「いや!! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
少女は背後から迫る黒い気配に向かって、がむしゃらに触手を振るう。
唸りを上げて振り回される触手の防壁は、生半なことでは打ち破れない暴威となってあらゆる物の前に立ちはだかる。
……だが、それも黒い獣の前ではちり紙同然であった。
振るわれる全ての触手はあっさりと引き千切られ、食い荒らされ、黒い獣は一気に適合者の少女へと迫る。
―オオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!―
「ひぎ!? ひぃぃぃぃぃぃ!!??」
腕を振るうたび、適合者の少女の体が抉られる。
ぞぶり、ぞぶりと音を立てて、適合者の少女の体が小さくなってゆく。
体に感じる激痛よりも、自らが消滅しかねない恐怖。
黒い獣が自身の上に覆いかぶさり、さらに体を抉ってゆく。
喰われる。犯される。少女の脳裏に、原初の恐怖が蘇る。
「いや、いやぁぁ、いやぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
泣き叫び、少女は肥大化したバケモノの体の中に己の体を逃げ込ませた。
それを見たのか、黒い獣は更なる咆哮を揚げる。
―オオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!―
そして全てを抉り、喰らうと言わんばかりに己の全身から無数の腕を生やし、もはや巨大な肉塊と化した適合者の少女に向かって襲い掛かる。
ぞぶり、ぞくりと適合者の少女の体はみるみる削れ、小さくなってゆく。
適合者の少女の体が小さくなるたびに、黒い獣の体は少しずつ膨れ上がり、巨大になってゆく。
そして、己の体が適合者の少女の肉体を遥かに上回った瞬間。
―ウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!―
黒い獣は、巨大な顎と化し、適合者の少女を一息に喰らう。
もはや口だけとなった黒い獣は、何度も、何度も何度も適合者の少女の体を生きたまま噛み砕く。
ぐちゃり、ぐちゃりと音を立ててつぶれながらも、その度に再生する適合者の少女。
悲鳴も上げぬ彼女をさらに追い立てるように、黒い獣はガチリと一際大きな音を立ててその体を噛み砕き―――。
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その時、中間市と呼ばれた都市が存在していた座標にて確認された爆発は、人工衛星軌道上からも確認できるほどに鮮明で、巨大で、凶悪であった。
七つの核融合炉。その全てをオーバーロードさせての自爆。それが生み出した熱波や放射能は、何とか辛うじて隔離防壁が拡散を防ぐことに成功した。
だが、それによって生まれた光は、その周辺に住んでいたすべての人間の知るところとなり、一時期俄かに騒がれることとなる。
それによって、何が生まれたのかを知ることはなく。
それによって、これから何が起こるのかを想像することもなく。
その時の人々は、ただ俄かに騒いだ。
その光の正体を。その光の原因を。
その光が……その先に何をもたらすのかを考えることもなく。
ただ、ただ……俄かに、騒いでいた。
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