想いの丈
とても好きだった人。
いつまでも共にいたいと思った人。
そして遠くに行ってしまった人。
彼が再び現れた時――貴方ならどうしますか?
夕暮れの道。
降り積もる銀杏の葉。
私を呼ぶ貴方の声。
「香那?」
再度呼ばれたその声に、私はゆっくりと振り向く。
振り向いた事が――私の過ちだったのだろうか。
「――彩…斗」
とても綺麗に微笑むその顔を私が忘れるはずがなかった。
茶色い髪も、真っすぐな眼差しも、柔和な雰囲気もあの頃のまま。
少しだけ大人びた顔は離れていた時間を嫌と言うほど実感させられる。
「ただいま」
そう言った貴方はまるでほんの数日離れていただけのようなそんな感じがして――涙が流れた。
「なんで泣くんだよ。香那?」
泣いた私にちょっと困った顔をして、貴方は私を抱きしめる。
抱きしめられた腕は温かく、何年も離れていた事が嘘のように、居心地がいい。
「帰って来ていっちゃん始めに会いに来るっていったろ?」
耳元で聞こえた声に心臓が跳ねあがる。
別れる時にした約束を、貴方が覚えていたなんて――。
記憶は蘇る。
真っ暗な公園。
鳴き止まない蝉の声。
虫の群がる街灯は時折バチバチと音を発する。
そんな中で――私に告げられた言葉。
『明日――海外に発つんだ』
そう一言貴方は呟いた。
蝉の声が――五月蝿いと思った。
貴方は何か言っていたけど…私の耳に届く事はなくて、頭の中では始めの言葉がいつまでも繰り返されては消えていく。
予期していない――事ではなかった。
貴方は出会った当初から外に行くことを望んでいたから。
――でも。
私は貴方がわからなかった。
プロポーズしたその口で、別れを切り出す貴方の事が…――。
「別れよう」
自分でも声が固かった事には気付いていた。
必死だったの。
泣き崩れることがないように。
「…香那!?」
慌てた貴方の顔がせめてもの救いだった。
私を嫌った訳ではないのだと知れたから――。
「期間もわからない、帰ってくる保証もない。私は……待てる自信なんかないよ」
「香那。俺は必ず帰ってくる」
「信じられないもの」
二の句が言えなくなった貴方はそれでも私の目を見つめていた。
「なら…別れても…いい――。でも別れたとしても…俺は1番始めに香那に会いに行く」
「…そんなの――望んでない」
「俺が――会いたいんだ」
切なそうなその顔に胸が痛む。
本当は嬉しかったよ。
会いたいと言ってくれて――。
でもね、信じられないの。
貴方は知っているはずだから。
元彼と遠距離恋愛をした私が――こっぴどく振られたことを……。
離れたことで気持ちが変わってしまうことを、私が何よりも恐れていた事を……。
「――…勝手にして」
そう捨て置いて私は逃げたのに…。
「――…会いたかった」
耳元で呟く貴方の声に、胸が苦しいぐらいに締め付けられる。
待ち望んだ声。
けれど――もう聞きたくないと切望した声。
「――香那……愛してる」
身体が――震えたのがわかった。
身体が強張る。
指に光るリングに――彼は気付いているだろう。
「――離して…」
声が震える。
居心地のいいこの場所。
けれど私がいてはいけない場所――。
「――結婚…するの…」
彼の身体がビクリと震えたことに気付いた。
そんなに近くに――まだ……彼がいる。
「明後日が――式なの」
彼の腕から抜けることは容易だった。
必死になって留めようとしている彼に対する想いよりは――。
身体を離すことは――夫となる彼の為じゃない。
彼への気持ちはある。
けれど私は彩斗へ抱くほどの気持ちを彼には持てない。
この行動は私自身の揺らぎを留める為だ。
彩斗に揺れる自分を止める為。
「彩斗も知っているでしょう?隆喜」
彼の目が見開かれるのがわかった。
それは彼の双子の弟の名前だったから。
私も彼とだけは付き合えないと思った。
――身代わりにしてしまう――そう思ったから。
けれどそれを改めたのは隆喜だ。
自分を見てほしいと言った。
双子の片割れとしてではなく、一人の男として――と。
声も、性格も、触れ方も彼が彼だと教えてくれる。
「…タカ…――?
「そう。彩斗――いえ、義兄さん」
私は今、笑えているだろうか。
貴方を兄と呼ぶことになるなんて、あの頃の私は思ってすらいなかったよ。
貴方の家族は私の事を知っている。
貴方と別れた事も全て――。
「おかえりなさい。義兄さん――」
私は忘れると決めたの。
貴方と恋人だったことなんて。
私はやっぱり貴方を待つなんて出来なかったから。
きっとそれが想いの丈――。