夜に咲く花
月をテーマに書きました。
月明かりだけが光源だった病室内に、太陽の光が満ちていく。
龍守瑞希の白い肌は、太陽の光に晒されてより一層白く浮かび上がった。
太陽灯――光源医療に用いられる水銀灯――は、瑞希にとっての太陽だった。生まれてから一度も日の光を眼にしたことがない瑞希にとっては、擬似であろうと人工であろうと太陽に変わりはない。
やがて患部の痛みが引き太陽灯を消した瑞希は、再び闇が支配した病室で、月明かりが差し込む窓から月を見た。
病的なまでの美しさ。
月には魔が宿る。魅せられたかのように月を眺め続ける瑞希の姿は、一見すれば魔が宿ったかのように美しく見えることだろう。もっとも、病を魔とするならば瑞希の身体には既に魔が――それも尋常ではなく巨大な魔が――宿っていることになるのだが。
“Moon-viewing-sickness”
そう診断されたのは、生後しばらく経ってからだったと瑞希は聞いた。
初めは瑞希の両親も疑問に思うことはなく、よく寝る子だと暢気に構えていた。が、さすがにこれは寝すぎでは? と思った母親が病院へ連れて行き、その原因は月見病だと告げられた。
月見病――月の出る夜にしか起きられない病――その発症者は三億に一人と言われている。比肩しうる病など存在しない発症確率は、そのまま治療の困難さへと直結していた。
時折襲い来る激痛。不定期に目覚める精神。歩くこともままならないほどに衰弱した肉体。
絶望するには十分すぎる要素だが、生まれた時からこの状態である瑞希にとっては些細なことだった。
瑞希の一日は月見から始まる。
眼が覚めるとまず月を見ておはよう、次に花を見ておはよう。それが瑞希の日課だった。
病室にある物といえば瑞希の横たわるベッド、映ることがないテレビ、読み終えて無造作
に床へと積み置かれた本。そして花だった。
今度はどんな名前の花かな?
見慣れた花々の中に混じった、強い香りを放つ見慣れぬ白い花。鉢につけられたネームプレートを確認しようと右手を伸ばし、見やすい様に回転させ、ベッドの上から覗き込む。垂れてきた長い黒髪を左手で押さえながら、瑞希は白い花の名前を心の中で反芻した。
”月下美人”……いい名前ね。
病室内に所狭しと置かれた花々は、どれもこれもが夜に咲く花だった。カラスウリに月見草、エンジェルストランペットにドラゴンフルーツ。
瑞希にとっては、家族も同然の花たち。
十六を迎えたその日、瑞希は結婚した。名前も顔も、性格も知らない男と。
パパとママは私に少しでも幸せになってもらいたいから、なんて言ってたけど、ただ単に
厄介払いがしたかっただけだろうし、夫となった男も財産が目的でしょうね。
瑞希がそう思うのも無理はなかった。夫と呼ぶべき男は、一度として起きている瑞希に会いにきたことがないのだから。
瑞希は夫という存在を意識したことは一度もなかったが、時折男が送ってくる花にだけは感謝した。
花の香りを楽しみながら月を眺めていた瑞希は、曇り行く夜空に自分の行く末を見た。
このまま年老いて病室で死ぬのかな。
瑞希は急に寒々しく感じ始め、まだ十月に入って間もないというのに、雪でも降るかのように震えだした。
月見病は低体温症を引き起こす。詳しい原因は未だ不明だが、太陽光を浴びることのない肉体は熱を逃がしやがては死に至った。
それを防ぐのが人口太陽こと太陽灯だった。震える手で太陽灯のスイッチを入れ、寒さと共に激痛が走る部位へと照射する。
太陽灯の暖かな光に包まれて、次第に瑞希の身体には熱が戻っていき、それと共に激痛は消え失せた。
太陽灯を消灯した瑞希は、再び夜空を眺めた。
窓を流れる一粒の水滴。夜空は雨雲によって覆い隠され、月はその姿を見せることはなかった。
せっかく上弦の月だったのになぁ。
心の中で呟くと、瑞希は訪れた眠気を抗うことなく受け入れた。
ある日の夜、瑞希は担当医から終りの始まりを告げられた。
危険な状態です。徐々にですが平均体温が下降を辿っており、その他の病が併発する可能性が高いでしょう。年を越すのは、難しいかもしれません。覚悟だけはしておいてください。
死刑宣告とも取れる医者の発言を、瑞希は微笑んで受け取った。
十二月初頭。霜が降り本格的に冬の到来を感じさせられる、そんな日の出来事だった。
担当医が去り、一人病室へと残された瑞希は、月明かりの差し込む窓へと視線を向けた。
月下美人を贈られたあの日と同じ、上弦の月が妖しく月光を放っている。
ここ一ヶ月、夫と呼ぶべき男から花は贈られてこなかった。
ハハッ……死んじゃう妻なんて、愛想尽かしちゃってもおかしくないよね。
自嘲的な笑みを浮かべた瑞希の頬には、一筋の涙が流れていた。
男を夫と思ったことなど一度もなかった。それでも――。
――それでも、うれしかった。贈ってくれて、うれしかった。
次はどんな名前の花かな、どんな香りがするのかな。それだけを楽しみに日々を生きてきた。でも、花はもう贈られてこない。
病室内の花々は本格的な冬を迎え、多くがその命を散らせていた。まるで老い先短い瑞希を体現するかのように。
死にたく、ない。死にたくないよう。
心の中で吐露した感情は、いつしかとめどない涙となり雨となってベッドのシーツを濡らした。
やがて泣き疲れた瑞希が眠りにつくころ、上弦の月はゆっくりと雲をまとい姿を消した。まるで子供が泣き止むのを見守っていたかのように。
年の瀬を目前に控えたある日。
世間一般ではクリスマスなどと騒ぎ立てているものの、瑞希にとっては普段と変わりの無い一日だった。
目覚めた瑞希は、いつものように月へとあいさつした。花々へのあいさつはない。あいさつするべき花など、すでに残っていないのだから。
あれ、新月か……私の命も、もう終りってことかな。
あいさつしてから瑞希は気づいた。月の姿がないことに。
月見病患者は、月のない夜は眠ったままだ。つまり、月のない夜に目覚めてしまうということは――。
男だけじゃなく、花にも月にも愛想尽かされちゃったか。
夜に咲く花も、夜に咲く月も、瑞希の前から姿を消した。ならば、次に消えるのは自分の番だろう。
ここ数日の瑞希の体調は、劣悪としか言い様がなかった。暖房をつけているのに震えは止まらず、太陽灯をつけているのに痛みは引くことがない。
瑞希は、終りがきたのだと思った。この痛みから、この寒気から解放される日が、遂にやってきたのだと。
太陽灯を消しベッドへ横になると、瑞希は空を眺めた。今宵は新月だ。月はない。
それでも、瑞希は空を眺めた。
その時、ふいに病室の扉が開いた。
当然瑞希は驚いた。こんな時間に来訪者が訪れたことなど一度もなく、ましてや自分に会いにくる者など限られていたので、初めて見る来訪者にはことさら驚いた。
病室の扉を開けたのは、トレンチコートに身を包んだ男だった。決して端整な顔つきではないものの、その眼に宿った光は優しく暖かい。右手に持つのは、黄緑の花。
もしかして、と瑞希が思う間もなく男は歩き出し謝罪を告げた。
月見病を根本的に治療するために世界中を駆け巡っていたこと。それゆえに一度も会いに行けなかったこと。いよいよ治療の目処が立ちそれまでの比ではなく忙しくなったこと。それが理由で花を贈れなかったこと。
君は小さかったから覚えてないかもしれないけど、君と僕は一度会っているんだ。当時の僕も難病を患っていてね、常に笑顔を忘れない君の姿に勇気づけられたものだよ。
男は黄緑の花を瑞希へと手渡し、はにかみながら言葉を続けた。
再会は、君の病を治す時だと決めていた。病を直して一緒に暮らそう。
瑞希は大粒の涙を浮かべながら、震える声で花の名前を聞いてみた。
夜香花、別名をナイトジャスミン。花言葉は愛の通夜。
それを聞いた瑞希は、病人の妻に対してその花はどうなの? と笑いながら訊ねた。
男は言う。
月見病に対する手向けの花だと。
空に咲く月はない。今宵は新月だ。
病室に咲く花はない。すべて枯れてしまった。
瑞希に咲く幸せはある。夜にしか咲かない月は、もう訪れない。
了
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