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トラックにひかれたら

作者: 只野屍
掲載日:2026/09/16

 男は、駅を出るとスマートフォンを取り出した。推している地下アイドルが、今夜の配信時間を告知している。九時から。時計を見ると、急げば十分に間に合いそうだった。


 ついでに今月のライブ予定を確認する。行きたい公演が二つある。両方行けば給料日まで少々苦しくなるが、まあ、なんとかなるだろう。男にとって金のかかる趣味は、それくらいだった。


 家に帰れば、無料で読めるネット小説を読む。剣と魔法、異世界、転生、勇者、魔王。似たような話をもう何百本読んだかわからない。それでも寝る前になると新着を探してしまう。


 仕事には、そういう楽しみはなかった。長く勤めているわりには役職もなく、あとから入ってきた若い社員に何人も追い越された。昔はそれなりに悔しかった気もするが、最近では腹も立たない。今夜の配信に間に合えば、それでよかった。


 男は大通りを外れ、いつもの近道へ入った。


 そのとき、一匹の猫が道路へ飛び出した。


 白黒ハチワレの、ひどく痩せた猫だった。


 反対側から大型トラックが近づいてきた。ヘッドライトが猫を正面から照らした。


 逃げればいいものを、猫は動かなかった。強い光に驚いたのか、道路の真ん中で身を低くしたまま固まっている。大きく見開いた目だけが、ヘッドライトを反射して光っていた。


 クラクションが鳴った。


 それでも猫は動かない。


 男は考えなかった。


 走った。


 猫を抱き上げた瞬間、クラクションがもう一度鳴った。白いライトが視界いっぱいに広がり、次いでものすごい衝撃が来た。空が回った。


 それきりになった。


          *


 気がつくと、白いものが頭上を流れていた。


 天井だった。


 蛍光灯が一つずつ通り過ぎ、ガラガラと車輪の音がする。ストレッチャーに乗せられているらしい。


 助かった。


 一瞬そう思ったが、その考えはすぐに消えた。身体中が痛かった。胸も腹も足も、どこが痛いのかわからないほど痛い。


「血圧、下がってます」


 誰かが言った。


「呼吸浅くなってます」


 別の声がした。


 猫はどうなったのだろう。


 男が最初に考えたのは、それだった。助かっていればいい。それなら道路へ飛び出した甲斐もあった。


 自分は死ぬのだろうか。


 そんな考えが浮かんだ。自分がいなくなったあとを想像してみる。会社の机は片づけられ、携帯電話の契約もそのうち誰かが処理するだろう。ライブ会場では、いつもの場所に一人分の隙間ができる。


 それだけだ。


 ずいぶん軽い人生だな、と男は思った。


 そのとき、妙なことに気づいた。


 トラック。死亡。


 これは、あれではないか。


 ネット小説で何度も読んだ。トラックにはねられて死に、次に目を覚ますと異世界にいる。神様が現れて、手違いでした、などと言う。お詫びに特別な能力を差し上げましょう。そんな話だ。


 男は笑いたくなった。身体は笑ってくれなかった。


 代わりに、痛みが消え始めた。胸の痛みが遠のき、足の感覚もなくなっていく。手がどこにあるのかもわからなくなった。


 ああ。


 何も感じなくなってきた。


 男はぼんやりと思った。


 これで本当に異世界だったら、たいしたものだ。


 別に勇者にならなくてもいい。魔王を倒さなくてもいい。金持ちでなくてもかまわない。今度はもう少しましに生きられればいい。できれば、帰る家に誰かがいるような人生がいい。


 願わくば。


 来世は幸せになりたい。


 ガラガラという車輪の音が消えた。


          *


 何もなかった。


 男はしばらく待った。次に何かが起きると思っていた。知らない天井が見えるとか、草原に寝ているとか、女神が目の前に立っているとか。


 しかし、何も起きない。


 暗い。暗いというより、光のないところに自分だけがいる。


 身体の感覚は完全になくなっていた。それなのに、自分がいることだけはわかる。考えることもできる。


 男は少し安心した。


 たぶん、転生前の待機場所なのだ。そういう話も読んだことがある。


 そこで試しに念じた。


 ステータス。


 何も出なかった。


 ステータス・オープン。


 やはり何も出ない。


 メニュー。


 変化なし。


 男は困った。


 神様、と呼びかけてみた。


 返事はなかった。


 女神様。


 返事はない。


 誰でもいいんですが。


 何もなかった。


 妙だな、と男は思った。転生者が多くて順番待ちなのだろうか。世界中では大勢が毎日死んでいる。案内役にも都合というものがあるのかもしれない。


 そう考えて、また待った。


 どれくらい待ったのかはわからない。


 やがて、遠くに青いものがあることに気づいた。


 小さな光だった。男が意識を向けている間にも、どんどん小さくなっていく。


 青。白。丸い。


 男はしばらくそれを眺めた。


 そして気づいた。


 地球だ。


 地球だった。


 なぜ地球があんなところにある。


 地球が遠ざかっているのか。それとも自分が遠ざかっているのか。速度は感じない。風もない。身体そのものがないのだから、加速しているのか止まっているのかもわからない。


 ただ地球だけが、急速に遠くなっていく。


 男は学校で習ったことを思い出した。地球は止まっていない。回りながら太陽の周りを進んでいる。太陽だって宇宙の一点に固定されているわけではない。


 では、自分はどうなったのか。


 正確な理屈などわかるはずもなかった。


 ただ一つ、起きていることだけはわかった。


 死んだ瞬間、自分は地球と一緒に動くことをやめたらしい。


 身体と結びついていた何かが切れた。


 地球だけが、そのまま行ってしまった。


 自分は飛ばされたのではない。


 置き去りにされたのだ。


 地球はさらに小さくなった。


 男は追いかけようとした。


 どうやって。


 足はない。腕もない。力を入れる場所すらない。


 行くな。


 そう思った。


 地球は行った。


 やがて青い点さえ見えなくなった。


          *


 時間がたった。


 たぶん、たったのだろう。


 どれほどなのかはわからない。腹は減らない。眠くもならない。朝も夜もない。時間を測る身体そのものがなかった。


 男は宇宙を見ていた。


 そこには星があった。


 そして、しばらくすると、星とは違うものがあることに気づいた。


 薄い影だった。


 人に見えた。


 男がいる。少し離れたところには女。老人らしい姿もある。小さな子供のような影もあった。


 男は驚いた。


 自分だけではなかったのだ。


 おい。


 そう呼びかけた。


 反応はなかった。


 もう一度呼んだ。


 聞こえるか。


 何も返ってこない。


 近づこうとしたが、動けなかった。向こうも動かない。


 そこで男は別のものに気づいた。


 人間ではない。


 四本足の影。犬だろうか。その向こうには豚らしいものがいる。鳥。魚。魚までいる。


 さらによく見れば、小さな影が無数にあった。


 虫だった。


 何の虫かまではわからない。あまりにも数が多い。人間など、むしろ少数に見えた。


 男は周囲を見渡した。


 奇妙なことに、それらは無秩序に散らばっているのではなかった。


 連なっていた。


 人間も、獣も、魚も、虫も。半透明の影が無数に重なり、宇宙の中に長い帯を作っている。


 帯は男のいる場所を通り、その先へ続いていた。反対側にも続いている。


 こちらの先に地球がある。


 男はそう思った。


 地球そのものはもう見えない。だが、地球が通っていった道は見える。


 死者が残っている。


 男が死んだあとも地球は進み続けた。その上で、生き物も死に続けた。そしてそのたびに、男と同じように何かが取り残されていったのだろう。


 気づいたときには、男と地球との間にも長い帯ができていた。誰が自分の次に死んだのかなどわからない。何分たったのかさえわからないのだから当然だった。


 反対側には、自分より先に死んだものたちがいるのだろう。


 男は帯を眺めた。


 それは真っ直ぐではなかった。ゆるやかに曲がり、別の筋と絡み合い、遥か遠くまで続いている。


 巨大な螺旋。


 その形に、男は見覚えがあった。


 DNA。


 生命の設計図。


 男は、その偶然を悪趣味だと思った。


          *


 猫。


 突然、思い出した。


 あの猫はどうなった。


 死んでいれば、このどこかにいるはずだった。


 だが、男は病院へ運ばれるまで生きていた。もし猫が事故現場ですぐに死んだのなら、男とはまったく別の場所に取り残されている。


 どれだけ離れているのかもわからない。


 探しに行くこともできない。


 男は初めて、猫がここにいないことを願った。


 助かっていてくれ。


 そう思った。


 その願いが届く相手もいなかった。


 男は近くにいる人間の影を見た。


 何人いるのかわからない。もっと遠くにもいる。その向こうにもいる。


 これほどたくさんいるのに、誰とも話せない。


 こちらの声が届かないのと同じように、向こうの声も届かないのだろう。ひょっとすると、目の前の誰かも必死に自分を呼んでいるのかもしれない。


 それを確かめる方法すらなかった。


 男は妙なものだと思った。


 一人ではない。


 なのに完全に孤独だった。


 天国はなかった。


 転生もなかった。


 神様も女神も現れなかった。


 地獄の釜も、鬼もいなかった。


 ただ宇宙があった。


 そして、意識だけが残った。


 男はストレッチャーの上で考えたことを思い出した。


 来世は幸せになりたい。


 なんということを願っていたのだろう。


 来世どころではない。


 次が始まらない。


 今が終わっていないのだ。


 死ねばすべて終わる。


 死ねば苦しみから解放される。


 いつからそう思っていたのだろう。


 天国を信じる者もいる。生まれ変わりを信じる者もいる。何も残らないと思う者もいる。


 だが、どれも死によって何かが終わるという点では同じだった。


 男は宇宙を見た。


 星にも寿命があるのだろう。いつか燃料を使い果たし、形を変え、消えていく。銀河だって永遠ではない。宇宙そのものも、いつまでも今の姿ではないのかもしれない。


 そこで男は、ふと考えた。


 では、自分はどうなのだろう。


 この意識には、終わりがあるのか。


 身体はもうない。老化するものがない。心臓もない。脳もない。壊れて止まるものがない。


 一年後。


 百年後。


 一万年後。


 一億年後。


 そのときにも、自分はここにいるのだろうか。


 星が消えても。


 銀河が形を変えても。


 そして、さらにその先。


 宇宙そのものが――


 男は、そこで考えるのをやめた。


 それだけは考えてはいけない。


 そう思った。


 終わりはある。


 きっとある。


 なくては困る。


 そうでなければ――


 また考えそうになった。


 男は必死にやめた。


 何も考えないことにした。


 星も見ない。死者の螺旋も見ない。過去も未来も考えない。猫のことも、会社のことも、推していたアイドルのことも考えない。


 ただ、何も考えない。


 最初のうちは難しかった。


 考えないようにしよう、と考えてしまう。そのことに気づいて、また考えるのをやめようとする。


 どれほど繰り返したのかはわからない。


 やがて思考の間隔が長くなった。


 猫のことを思い出さなくなった。会社のことも浮かばなくなった。推していたアイドルの顔も薄れていった。


 地球のことさえ、考えなくなった。


 何も考えない。


 男はそれだけを続けた。


 そしていつしか、本当に何も考えなくなりかけた。


 そのときだった。


 目の前に光が現れた。


 男は久しぶりに意識を向けた。


 光の中に、一人の女が立っていた。


 長い髪。白い衣。整いすぎているほど美しい顔。その背後には柔らかな光の輪が浮かんでいた。


 男は、その姿を知っていた。


 何百回も読んだ。


 何百回も想像した。


 女は申し訳なさそうに微笑んだ。


「遅れてごめんなさい」


 男は呆然とした。


「手続きに少し時間がかかってしまいました。あなたはこれから、異世界に転生されます」


 男は歓喜した。


 やはり、あったのだ。


 来世が。


 救いが。


 女神が手を差し伸べた。


「さあ、行きましょう」


 男はその手を取った。


 剣と魔法の世界が待っている。


 今度こそ幸せになれる。


 男は考え続けた。

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