トラックにひかれたら
男は、駅を出るとスマートフォンを取り出した。推している地下アイドルが、今夜の配信時間を告知している。九時から。時計を見ると、急げば十分に間に合いそうだった。
ついでに今月のライブ予定を確認する。行きたい公演が二つある。両方行けば給料日まで少々苦しくなるが、まあ、なんとかなるだろう。男にとって金のかかる趣味は、それくらいだった。
家に帰れば、無料で読めるネット小説を読む。剣と魔法、異世界、転生、勇者、魔王。似たような話をもう何百本読んだかわからない。それでも寝る前になると新着を探してしまう。
仕事には、そういう楽しみはなかった。長く勤めているわりには役職もなく、あとから入ってきた若い社員に何人も追い越された。昔はそれなりに悔しかった気もするが、最近では腹も立たない。今夜の配信に間に合えば、それでよかった。
男は大通りを外れ、いつもの近道へ入った。
そのとき、一匹の猫が道路へ飛び出した。
白黒ハチワレの、ひどく痩せた猫だった。
反対側から大型トラックが近づいてきた。ヘッドライトが猫を正面から照らした。
逃げればいいものを、猫は動かなかった。強い光に驚いたのか、道路の真ん中で身を低くしたまま固まっている。大きく見開いた目だけが、ヘッドライトを反射して光っていた。
クラクションが鳴った。
それでも猫は動かない。
男は考えなかった。
走った。
猫を抱き上げた瞬間、クラクションがもう一度鳴った。白いライトが視界いっぱいに広がり、次いでものすごい衝撃が来た。空が回った。
それきりになった。
*
気がつくと、白いものが頭上を流れていた。
天井だった。
蛍光灯が一つずつ通り過ぎ、ガラガラと車輪の音がする。ストレッチャーに乗せられているらしい。
助かった。
一瞬そう思ったが、その考えはすぐに消えた。身体中が痛かった。胸も腹も足も、どこが痛いのかわからないほど痛い。
「血圧、下がってます」
誰かが言った。
「呼吸浅くなってます」
別の声がした。
猫はどうなったのだろう。
男が最初に考えたのは、それだった。助かっていればいい。それなら道路へ飛び出した甲斐もあった。
自分は死ぬのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。自分がいなくなったあとを想像してみる。会社の机は片づけられ、携帯電話の契約もそのうち誰かが処理するだろう。ライブ会場では、いつもの場所に一人分の隙間ができる。
それだけだ。
ずいぶん軽い人生だな、と男は思った。
そのとき、妙なことに気づいた。
トラック。死亡。
これは、あれではないか。
ネット小説で何度も読んだ。トラックにはねられて死に、次に目を覚ますと異世界にいる。神様が現れて、手違いでした、などと言う。お詫びに特別な能力を差し上げましょう。そんな話だ。
男は笑いたくなった。身体は笑ってくれなかった。
代わりに、痛みが消え始めた。胸の痛みが遠のき、足の感覚もなくなっていく。手がどこにあるのかもわからなくなった。
ああ。
何も感じなくなってきた。
男はぼんやりと思った。
これで本当に異世界だったら、たいしたものだ。
別に勇者にならなくてもいい。魔王を倒さなくてもいい。金持ちでなくてもかまわない。今度はもう少しましに生きられればいい。できれば、帰る家に誰かがいるような人生がいい。
願わくば。
来世は幸せになりたい。
ガラガラという車輪の音が消えた。
*
何もなかった。
男はしばらく待った。次に何かが起きると思っていた。知らない天井が見えるとか、草原に寝ているとか、女神が目の前に立っているとか。
しかし、何も起きない。
暗い。暗いというより、光のないところに自分だけがいる。
身体の感覚は完全になくなっていた。それなのに、自分がいることだけはわかる。考えることもできる。
男は少し安心した。
たぶん、転生前の待機場所なのだ。そういう話も読んだことがある。
そこで試しに念じた。
ステータス。
何も出なかった。
ステータス・オープン。
やはり何も出ない。
メニュー。
変化なし。
男は困った。
神様、と呼びかけてみた。
返事はなかった。
女神様。
返事はない。
誰でもいいんですが。
何もなかった。
妙だな、と男は思った。転生者が多くて順番待ちなのだろうか。世界中では大勢が毎日死んでいる。案内役にも都合というものがあるのかもしれない。
そう考えて、また待った。
どれくらい待ったのかはわからない。
やがて、遠くに青いものがあることに気づいた。
小さな光だった。男が意識を向けている間にも、どんどん小さくなっていく。
青。白。丸い。
男はしばらくそれを眺めた。
そして気づいた。
地球だ。
地球だった。
なぜ地球があんなところにある。
地球が遠ざかっているのか。それとも自分が遠ざかっているのか。速度は感じない。風もない。身体そのものがないのだから、加速しているのか止まっているのかもわからない。
ただ地球だけが、急速に遠くなっていく。
男は学校で習ったことを思い出した。地球は止まっていない。回りながら太陽の周りを進んでいる。太陽だって宇宙の一点に固定されているわけではない。
では、自分はどうなったのか。
正確な理屈などわかるはずもなかった。
ただ一つ、起きていることだけはわかった。
死んだ瞬間、自分は地球と一緒に動くことをやめたらしい。
身体と結びついていた何かが切れた。
地球だけが、そのまま行ってしまった。
自分は飛ばされたのではない。
置き去りにされたのだ。
地球はさらに小さくなった。
男は追いかけようとした。
どうやって。
足はない。腕もない。力を入れる場所すらない。
行くな。
そう思った。
地球は行った。
やがて青い点さえ見えなくなった。
*
時間がたった。
たぶん、たったのだろう。
どれほどなのかはわからない。腹は減らない。眠くもならない。朝も夜もない。時間を測る身体そのものがなかった。
男は宇宙を見ていた。
そこには星があった。
そして、しばらくすると、星とは違うものがあることに気づいた。
薄い影だった。
人に見えた。
男がいる。少し離れたところには女。老人らしい姿もある。小さな子供のような影もあった。
男は驚いた。
自分だけではなかったのだ。
おい。
そう呼びかけた。
反応はなかった。
もう一度呼んだ。
聞こえるか。
何も返ってこない。
近づこうとしたが、動けなかった。向こうも動かない。
そこで男は別のものに気づいた。
人間ではない。
四本足の影。犬だろうか。その向こうには豚らしいものがいる。鳥。魚。魚までいる。
さらによく見れば、小さな影が無数にあった。
虫だった。
何の虫かまではわからない。あまりにも数が多い。人間など、むしろ少数に見えた。
男は周囲を見渡した。
奇妙なことに、それらは無秩序に散らばっているのではなかった。
連なっていた。
人間も、獣も、魚も、虫も。半透明の影が無数に重なり、宇宙の中に長い帯を作っている。
帯は男のいる場所を通り、その先へ続いていた。反対側にも続いている。
こちらの先に地球がある。
男はそう思った。
地球そのものはもう見えない。だが、地球が通っていった道は見える。
死者が残っている。
男が死んだあとも地球は進み続けた。その上で、生き物も死に続けた。そしてそのたびに、男と同じように何かが取り残されていったのだろう。
気づいたときには、男と地球との間にも長い帯ができていた。誰が自分の次に死んだのかなどわからない。何分たったのかさえわからないのだから当然だった。
反対側には、自分より先に死んだものたちがいるのだろう。
男は帯を眺めた。
それは真っ直ぐではなかった。ゆるやかに曲がり、別の筋と絡み合い、遥か遠くまで続いている。
巨大な螺旋。
その形に、男は見覚えがあった。
DNA。
生命の設計図。
男は、その偶然を悪趣味だと思った。
*
猫。
突然、思い出した。
あの猫はどうなった。
死んでいれば、このどこかにいるはずだった。
だが、男は病院へ運ばれるまで生きていた。もし猫が事故現場ですぐに死んだのなら、男とはまったく別の場所に取り残されている。
どれだけ離れているのかもわからない。
探しに行くこともできない。
男は初めて、猫がここにいないことを願った。
助かっていてくれ。
そう思った。
その願いが届く相手もいなかった。
男は近くにいる人間の影を見た。
何人いるのかわからない。もっと遠くにもいる。その向こうにもいる。
これほどたくさんいるのに、誰とも話せない。
こちらの声が届かないのと同じように、向こうの声も届かないのだろう。ひょっとすると、目の前の誰かも必死に自分を呼んでいるのかもしれない。
それを確かめる方法すらなかった。
男は妙なものだと思った。
一人ではない。
なのに完全に孤独だった。
天国はなかった。
転生もなかった。
神様も女神も現れなかった。
地獄の釜も、鬼もいなかった。
ただ宇宙があった。
そして、意識だけが残った。
男はストレッチャーの上で考えたことを思い出した。
来世は幸せになりたい。
なんということを願っていたのだろう。
来世どころではない。
次が始まらない。
今が終わっていないのだ。
死ねばすべて終わる。
死ねば苦しみから解放される。
いつからそう思っていたのだろう。
天国を信じる者もいる。生まれ変わりを信じる者もいる。何も残らないと思う者もいる。
だが、どれも死によって何かが終わるという点では同じだった。
男は宇宙を見た。
星にも寿命があるのだろう。いつか燃料を使い果たし、形を変え、消えていく。銀河だって永遠ではない。宇宙そのものも、いつまでも今の姿ではないのかもしれない。
そこで男は、ふと考えた。
では、自分はどうなのだろう。
この意識には、終わりがあるのか。
身体はもうない。老化するものがない。心臓もない。脳もない。壊れて止まるものがない。
一年後。
百年後。
一万年後。
一億年後。
そのときにも、自分はここにいるのだろうか。
星が消えても。
銀河が形を変えても。
そして、さらにその先。
宇宙そのものが――
男は、そこで考えるのをやめた。
それだけは考えてはいけない。
そう思った。
終わりはある。
きっとある。
なくては困る。
そうでなければ――
また考えそうになった。
男は必死にやめた。
何も考えないことにした。
星も見ない。死者の螺旋も見ない。過去も未来も考えない。猫のことも、会社のことも、推していたアイドルのことも考えない。
ただ、何も考えない。
最初のうちは難しかった。
考えないようにしよう、と考えてしまう。そのことに気づいて、また考えるのをやめようとする。
どれほど繰り返したのかはわからない。
やがて思考の間隔が長くなった。
猫のことを思い出さなくなった。会社のことも浮かばなくなった。推していたアイドルの顔も薄れていった。
地球のことさえ、考えなくなった。
何も考えない。
男はそれだけを続けた。
そしていつしか、本当に何も考えなくなりかけた。
そのときだった。
目の前に光が現れた。
男は久しぶりに意識を向けた。
光の中に、一人の女が立っていた。
長い髪。白い衣。整いすぎているほど美しい顔。その背後には柔らかな光の輪が浮かんでいた。
男は、その姿を知っていた。
何百回も読んだ。
何百回も想像した。
女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「遅れてごめんなさい」
男は呆然とした。
「手続きに少し時間がかかってしまいました。あなたはこれから、異世界に転生されます」
男は歓喜した。
やはり、あったのだ。
来世が。
救いが。
女神が手を差し伸べた。
「さあ、行きましょう」
男はその手を取った。
剣と魔法の世界が待っている。
今度こそ幸せになれる。
男は考え続けた。
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