冷戦
まだ春の涼しさが残るある日の放課後。僕は係の仕事で去年僕達が授業で作り、美術室の前に飾ってあった美術の作品の取り外しの作業をしていた。まだ5月の6時だというのにあたりはもう暗く、美術室横にある大きなガラス窓から見える遥か彼方にある大学の明かりがよく見えるほどだ。
「ふぅ、終わった」
僕は右手のジャージの袖で額の汗を拭い、一息ついた。顎までおろしたマスクに汗が染み込んでいて首のあたりが少し冷たい。天候のみ明治時代にタイムスリップしたようだった。
僕以外の生徒はほとんど帰宅しており、美術室前の廊下は昼とは比べ物にならないほど静寂に包まれていた。外が暗いせいで相対的にずっと奥にある音楽室の看板がよく見える。
僕は作業のために乗っていた椅子から降り上靴を履いていると、静かにゴロゴロと僕のすぐ近くにあった美術室の扉が開いた。
「遥終わった?」
中からは一人のジャージを着ているメガネをかけた僕より少し背の小さい女子生徒が出てきた。しかし、いつもの彼女とは違ってマスクはつけていなかったため彼女の笑顔がよく見えた。そして彼女の少し低い可愛らしい声。僕の心臓は荒々しく波打っていた。
「うん、今丁度終わったところ」
僕は笑顔で返す意味も込めてそう返した。
「こっちも終わったところ。」
「じゃぁ僕達も帰る?」
「そうしよ」
再び美術室に戻る瞬間、彼女のミディアムヘアの艶が天井の光を反射して僕の目を刺した。僕は光る妖精を追うように彼女の後ろを歩んだ。
「鍵は?まだ先生に渡してないよね?」
持ち帰るものを整理している途中、僕は一瞬彼女の言葉の意味がわからなかった。もちろんさっき彼女が出てきたばかりなので戻しているわけもなかった。
「まだだけど」
「じゃーさ…」
彼女はそう言うと、少し頬を赤らめて僕から一瞬目を逸らした。そして、そのまま彼女はこういった。
「一緒にいかない?」
頬が真っ赤になってななめ下を見ているこのときの彼女はとんでもなく可愛かった。僕の心臓の鼓動は最高潮に達し、酸素の供給が追いつかず苦しいほどだった。思わず口元を抑えそうになったが流石にカッコ悪すぎるので抑えた。と言いつつも僕も少し頬が熱くなるのを感じた。
「うん、もちろん。一緒に行こう、」
いつまでも、どこまでも。僕は言葉の続きを言おうとしたが、謎の力が引き止めた。
僕の返事に彼女は目だけで僕を見る。彼女の真っ直ぐな視線が僕を貫く。僕はさっきよりも頬が熱くなっているのがはっきりとわかった。
今しかない。唐突に電流が脳内を駆け巡った。
「ねぇ有里、職員室行く前に一個やりたいことがあるんだけどいい?」
本能から、脳の核となる部分からの言葉だった。おそらく、この時点で僕の脳は正常に機能していないだろう。本能という与党が脳内という国会で独裁を行っている。もはやそれを止めることはできない。
「ん、何?」
彼女が少し怒ったようなじれったいような感じで少し頬を膨らました顔でこちらを見た。
僕はつばを飲み一度深呼吸をして彼女に向き直った。そして、僕は跪いて下から彼女の顔を見た。そして少し汗の滲んでいる右手を彼女に向かって差し出した。まるでプロポーズで指輪を渡すように。
「改めて、僕と付き合ってくだい」
僕は生まれて初めてこれほどまでの勇気を振り絞った。僕がやりたかったこと、それは、この言葉とともに告白をすることだった。小説や映画でよく見るシチュエーション。そして、それをやるときは今だと、今やらなければもうないともできないと直感した。
一方、彼女は両手で口元を抑え、涙袋が今にも破裂してもおかしくないくらい膨れ上がっていて今にも泣き出しそうだった。
「ちょっとやってみたくて。だって有里が言ってくれたのってトーク上じゃん?だからやってみた。…ちょっとキモいかな?」
恐る恐る聞いてみた。これで蛙化なんて起こしたらこの世の終わりだ。しかし、そんな心配を振り払うように、左手は口元に添えたまま、彼女は僕の右手に手をおいた。
「はい、喜んで」
彼女の優しい声。右手に走る柔らかく、少し湿った温かい手の感触。僕の心は今まで以上に開放されたような感じがした。あぁ、この時間が一生続かないだろうか。終わらないでほしい。この幸せな時間。
そして彼女もまた目が真っ赤になり今にも泣きそうな目でこちらを見ていた。
「ありがとう、僕の茶番に付き合ってくれて」
「うんん、俺もやってみたかったから」
彼女が首を振った瞬間、彼女の目から何か光るものが飛んでいくのが見えた…気がした。そして彼女は僕に満面の笑みを見せた。それに答えるように僕も下手なぎこちない、それでも一番の笑顔を彼女に見せた。
「じゃぁ行こうか。次は止めないよ」
「はは、そんなのわかってるよ」
「流石にね」
さっきとは違う無邪気に笑う彼女と、同じく笑う僕。歩き出した僕らを、美術室の窓から差し込む月の光が照らした。しかし、何故か僕はその月が何重にも見えた。それでも、言葉にした。
「月が綺麗だね」
彼女がこの言葉を知っているかどうかなんて知らない。でも、歴史が好きな僕にとってこの言葉を言わなければ気がすまなかった。こんな小説のような夢のような、そんな糖分過多で倒れてしまいそうなほど甘い時間。これが現実ならば…
「あ…」
次の瞬間、僕は美術室に落ちてあったマーカーペンを踏んでしまい足をすべらせた。そして僕の体は前に倒れ、重力に引っ張られ頭から落ちていく……
「いた」
一瞬、体が宙に浮いた。浮いた気がした。呟いた声が僕に朝を知らせる。そして、僕はつけていたアイマスクを取った。しかし、そこには何もなかった。毎日感じるこの虚無感。まさにぽっかり心に穴が空いたような。目は覚めているのに頭が朝が来たのを認めない。仰向けになったまま、僕は夢の中の”彼女”のことで頭がいっぱいになっていた。そして、その”彼女”が僕を就寝用マットに縛り付ける。
しばらくして、ようやく僕の脳が朝が来たということを認めたので僕は重い体と頭を起き上がらせ学校へ行くための身支度を始めた。カーテンの向こうの網戸から梅雨の湿ったアスファルトの新鮮な匂いが漂ってくる。
あぁ、今日も一日が始まる。
雲に覆われた街。5月中旬とは思えないくらいの寒さが長袖のジャージを貫通して僕の体を冷やす。中途半端な田舎の寒さに耐えつつ、僕は田んぼと田んぼの境界のアスファルトの道路に自転車を走らせて学校へと向かった。
特に何も考えずにあたりを見回す。田んぼ、田んぼ、田んぼ、家、田んぼ、工場、田んぼ。なにもない。僕以外誰もいない。考えることもなくただただ自転車を走らせる。
学校につき、自転車を駐輪場に止めていると、僕の正面の向こう側にいる僕と同じように自転車を降りて駐輪場に自分の自転車を止めようとしている一人の女子生徒に目が止まった。
学校指定の青いジャージの上下を着ている彼女は、平均的な中3女子よりも十センチほど背が高く、髪は少し天然パーマのあるミディアムヘア。群青色のマスクと金属フレームの丸メガネをかけていて顔の半分ほどを埋め尽くしている。顔などほんの一部しか見えていない。街なかで同じような格好をした人がいて視界に入ったとしても、僕は認知すらしないだろう。しかし、彼女はそうとはいかなかった。
僕の目線は自然と彼女に方へと向かう。なぜだろうか、彼女が僕にとって特別であるかのような、いや、僕にとって特別な彼女から僕は目が離せなかった。彼女が誰なのか、僕にとって彼女はどのように特別なのか、痛いほどに、苦しいほどに理解できた。
やり場のないこの感情。どこにぶつけたら良いのだろうか。宇宙をさまような僕には到底わかるはずもなかった。
「いて」
僕が彼女に気を取られていると、急に後ろから左足のふくらはぎを蹴られた。犯人は同じクラスのやつだ。そこで僕は初めて正気に戻った。が、蹴られた衝撃で僕は足からその場に崩れ落ちた。
「最悪だ」
「第二次世界大戦後、世界は社会主義のソ連、資本主義のアメリカという二つの超大国によって分割されるようになる。」
春が終結へと向かう今日このごろ、少し暑い教室にて社会担当の小柄な男性教師が黒板の前でよく響く声で授業をしている。
ところで、僕が常日頃に思うことなのだが、世界史というのは最も人間というものを表しているのではないだろうか。
自分の欲望のために他国を支配する。弱いものから強いものに食べられていく。どうにかして自分の思い通りに行く世界を作りたがる。平和だからこそ言える綺麗言にうんざりしていた僕は世界史が大好きだった。人間というのは、他の生物とは比べ物にならないほどの知能を持っている。それ故に自分の欲望の心が芽生えそれに忠実である。しかし、人は皆自分の欲はしまっておけと口酸っぱく言う。僕にはそれが全く理解できない。
確かに、これまで誰かの欲望によって多くの人が犠牲になった。まさにアドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンなどがいい例だろう。しかし、人の欲望は人類を発展させてきた。莫大な計算をやってほしいという欲望からコンピューターが生まれ、またもっと多くのことを記録したいという欲望から写真やレコードが生まれた。もしかしたらこの世界もまた、誰かの何かの欲望のため我々の欲望を抑え込むよう仕組まれているのかもしれない。これを俗に洗脳というのだろう。
しばし考えた後、答えの出ない議題について考えるのに飽きたので僕はまた授業に集中することにした。
「そして冷戦期の全盛期ではいつ米ソの核戦争が起こってもおかしくないという状況でした。両国とも戦争は避けたいものの、自分にとって邪魔な国を排除したいというジレンマがあり、まともに寝れたものではなかったそうです。」
ジレンマ。この言葉がやけに引っかかった。そして、僕はふとかつての記憶を思い出した。
「別れよう」
そう告げられたのは今から一年前のこと。この世の全ての物の中で一番に愛していた”彼女”ー佐川有里との思い出。話を切り出したのは僕だが別れるつもりなんて毛頭なかった。しかし、この言葉を覚悟していなかったといえば嘘となる。同級生にもう別れようかなって言っていたというのを聞いて、それが本当なのか確かめようとしたのだ。それが、彼女が別れを告げる機会を僕が設けたような形になった。
まだ彼女を溺愛していた僕にとって、雪の中で凍死するよりも苦しかった。本当は話したくなかった。逃げる手を捕まえてでも一緒にいたかった。それでも、彼女にとっての幸せを考えた時、僕は身を引くのが一番なのではないかと思った。超能力など持ち合わせてなんかいないから相手の気持ちなんかわかるはずない。真意は不確かなまま。しかし、勝手に自分は彼女にとって邪魔な存在であると結論付け、しばらく彼女との接触は極力抑えるようにした。しかし、この行為が愚かだということはよく理解していた。
彼女を見かけるたびに、鮮明に楽しかった彼女との記憶が蘇ってくる。
もっと彼女と一緒にいたい。愛を伝えたい。でも彼女にとって僕は邪魔だ。僕は今の彼女の幸せを妨害する存在でしかない。そうした思考の結果、僕の方から彼女を避けるようになった。この行動がむしろ彼女との関係を悪化させていたのかもしれない。作った笑顔を振りまく毎日。もう何が正しいなんてわからない。
やはり世界史というのは人間を完璧に表現している。まさに今の僕達のようだ。二つの感情が複雑に入り混じりジレンマを起こす。素直に認めればいいことを余計な不安を理由に拒否する。人とは愚かであり、ジレンマというものはその象徴なのだろう。
ふと考えるうちにまた朝と同じような感覚に見舞われた。
進展のない毎日。ただただ憂鬱な毎日。平気を取り繕い己を極限まで抑える毎日。届くわけがない彼女への思いを生み出しては捨てる毎日。空いた穴は永遠に埋まらないと思い続ける毎日。はっきり言って今の僕はだだっ広い大西洋の海中のど真ん中を脳みそを抜き取られた人のように浮かんでは沈んでいる、つまらない人間だ。こんなやつを好きになる人間など、この世のどこにもいない。”彼女”なんてもってのほかだ。今では僕を好きにさせてしまった”彼女”さえ恨んでしまうほど狂ってしまったようだ。
キンコンカンコン
はっ…
授業の終結を知らせるチャイムが僕を正気に戻した。彼女のことを考えすぎてしまってまともに授業を聞いていなかった。自分で調べたりしているところだから内容は理解しているものの、ノートを取らないと評価に書かわてくるためノートだけささっと雑な字で板書した。
「次の授業の準備しないと…」
立ち上がったあと椅子に残ったのは僕が筆箱につけている小さいペンギンのぬいぐるみだけだった。
家に帰り受験生だというのに特にやることもなくベッドに寝っ転がると、勝手に動いていた僕の指はいつの間にかスマホの写真フォルダのお気に入りファイルを開いていた。
あぁ、またか。意味のない行動をしているとわかっているのになぜか僕はかつてを求める。勝手に動く指はもはや止めることすらできない。気づけば僕はフォルダの中にある彼女との思い出の写真を眺めていた。
デートはおろか手すらまともに繋いだことがない。そんな彼女との唯一のツーショット。懐かしさとその時の幸福感が蘇り、瞬間的に僕の心は満たされた。しかし、すぐに虚しさと孤独の針が心に穴を開けた。愛は麻薬と同じというのはこういうことなんだろう。
何してんだろう。どうせ時間なんて戻るはずないのに。そんな非現実的なこと思ってるだけ無駄だ。あんなものは小説、特にSFでしか起こらない。でも、もしそんな世界なら、どれだけ幸せなんだろう。
あぁ僕は愚かだ。
はやく新しい彼氏作ってほしい。そういったことを思ってしまうほど僕は終わっている。
耐えきれなくなった僕はスマホを閉じ昼寝を始めた。実に快眠だった。
次の日、学校につくと喉を安物のナイフで刺されたような痛みが走った。
僕と彼女の共通の知り合いで、僕の事情をよく知っているクラスメイトの瀧田蘭恵が教室に入ってきた。
「おっす~。」
僕は朝から元気なクソガキに「うっす」と適当に挨拶を返した。
「てか聞いた?」
死んでるのか死んでいないのかの瀬戸際にいた僕に蘭恵が話を切り出した。まぁいつも通りの世間話だろ。そう思って聞こうとしていた。
「有里、新しい彼氏できたんだって」
蘭恵がその短い報告を告げた瞬間、僕はあまりの衝撃に蘭恵が発した言葉が最初日本語に思えなかった。
時間が少しずつ流れていくうちに、やっとその言葉を理解した。でも、本当は理解したくなかった。心の中の何かが今、跡形もなく崩壊した。
「あ、ほんと?おめでとう」
僕は慣れてしまった取り繕いの平然でそう返した。このときばかりはこんな自分を恨んだ。
「あれ、遥、有里のことすきじゃなかったっけ?」
今一番答えづらい、答えたくない質問が飛んできた。
「好きだったけど、あいつが誰かを好きになったんならそれは応援するよ」
頭が真っ白になりすぎて中身のない返事しか出てこなかった。
「ふーん。なるほ」
それ以降、何かを察したのか、蘭恵とのそれ以上の会話はなかった。
その日の学校からの帰り道、いつも通りただ一人ぼーっとしながら自転車を走らせていると、ふと彼女が見えた。
笑みこそ浮かべてはいないものの、彼女の目は実に生き生きとしていた。一瞬悔しさがにじみ出たものの、彼女の幸せを考えればと思い、悔しさを無理やり引っ込めた。もう悔いなんてないんだ…僕には…。
時間がゆっくり流れ始め、僕の目は彼女を無意識に追っていた。そこで、今日の蘭恵との会話を思い出した。
有里に新しい彼氏ができた。
昨日昼寝の前に願ったこと。自分が考えた自分も彼女も救われる唯一の方法。まさか、本当に現実になるとは全く思っていなかった。
急に目頭が熱くなり、頬になにか温かいものが頬をつたっていった。
「有里……」
勝手に口が動いた。勝手に言葉が出た。勝手に脳が彼女との記憶を思い出させた。
僕の頬をつたった何かが口の中に入った。
その味はしょっぱくも酸っぱくもなく、何故か二年前にもらった彼女からのバレンタインチョコの不器用な甘さに似ていた。
涙を拭いながら自転車を走らせ帰宅した。鍵を開ける玄関に靴は一つもなく、家には誰もいなかった。父は仕事に行き、母と妹は妹のピアノのレッスンに行っているのだろう。静まり返った玄関に僕は靴を脱ぎ通学カバンを放り投げ、部屋着に着替えたあと、僕は真っ先に二階の自室へと向かった。
考えなしに僕はゲーミングチェアに飛んでいくように座り、天井を仰いだ。天井にあるのは白いコンクリートの壁と電気のついていない円盤のライト。曇りだったこともあり部屋は薄暗かった。
もはや悲しみや悔しさすら感じない。むしろ、縛り付けていたものがなくなり、心はこれまでないくらい軽かった。あの時よりも開放された気がする。
これで楽になった。
もう彼女のことで悩まなくていい。彼女を愛しても何一つ意味がないがないことが証明された。なんと楽なんだろう。
僕の口角は自然と上がっていた。
もう終わったんだ。何もかも。希望も、生きる意味も、頑張る理由も。すべてから開放されたんだ。
もう僕がここにいる意味はない。
気づけば僕はペン立てに刺さっていた一本の、後ろの部分に筒状のウォータードームがついたボールペンを取り出し、家を駆け足で出た。ただただ無我夢中に家の中を駆け巡る。もう思考なんてとっくに止まっている。乱暴に玄関扉を開けて外へ出る。理性を失い、自分の本能に身を任せ、気づけば家の前にある人工河川の近くに立っていた。昨日の夜雨が降ったこともあり水位は上がっており、水は濁っていて濁流であった。
ガードレールで川には入れないようにしてあるが、何かを決心した僕はガードレールを飛び越え、コンクリート製の崖の縁にたった。
ここで初めて我に返った。我に返った僕はあたりを見回した。見渡す限り誰もいない。本当にただ一人、僕だけがぽつんと立っている。空を見上げても人工衛星や飛行機などもまったくない。塩の匂いがする浜風が無情に吹き付けてくる。ただそれだけ。
今この時間は僕のためだけにあるんだ。孤独な僕にはピッタリな。失いたくないものはすべて失った。もう終わりにしよう。僕は自室から持ってきたペンを強く、強く、強く握りしめた後、ペンを部屋着の襟の真ん中に差した。
「あったかい…」
今日何度流したかわからない涙がまた溢れて頬をつたった。味は、と考えたが僕にはもうすでに味覚は没収され、考えるのを諦めた。もうそれほどまでに僕は終わっているのだろう。
僕は大きく深呼吸をした。幸い嗅覚までは没収されておらず、川の水の匂いと道路の脇に咲いているコスモスの匂いが鼻の中を駆け巡った。今更だがこの五感を授けてくれた神に感謝したいと思った。まぁもう時期、跡形もなくなるけど。
ふと一つのジョークを思い出した。冷戦期、ソ連国内で多く生み出されたロシアンジョーク、いわゆるアネクドートというものだ。その中で特に僕が好きなやつ。
今アメリカは崖っぷちに立たされている。そしてわが祖国ソビエトは常にアメリカの一歩先を進んでいる。
今、僕は崖っぷちに立っている。
「有里」
僕は一言口に出して左足を足場のない空中へ踏み出した。
この冷戦において、ソ連だったのは僕だったようだ。
左足に体重を載せようとした瞬間、僕の体は重力に引っ張られて宙に浮いた。
落ちている間はときが非常にゆっくりと時間が進むように感じられた。さて、死ぬ前に走馬灯でも見るとするか。
木の匂いが漂う教室。電気は消してあって薄暗く、夏の始まりらしからぬ涼しさがあった。あたりは音もなく静まり返っており、誰一人といなかった。ただ二人を除いて。
彼女と付き合って一ヶ月がたった夏休み前のある日、僕の目の前には学校指定のハーフパンツに青いジャージを着て、次の授業である音楽の教科書と筆箱とタブレットを抱えて立っていた。
彼女の筆箱に僕が誕生日プレゼントとして送った小さい青色のペンギンのぬいぐるみがチャックの代わりにつけてあった。
「次の音楽の授業に使うやつ全部持った?」
「オッケーだよ」
「じゃ、行く?」
この何気ない会話。夏の涼しさが青春を感じさせる。彼女がいるだけで僕の心は満たされているようだった。そして僕は一生この人と過ごすんだろうなとも思った。一生このままでいい、このままで。
僕は幸せを噛み締めるような笑みを浮かべ教室後ろの扉へと歩みだした。
「ちょっと待って」
その瞬間、僕の左手のジャージの袖を彼女が強く掴んだ。僕は後ろに倒れそうになりながらもバランスを保ち、後ろを向いて彼女を見つめた。
「何?」
僕が不思議そうに問いかけると、彼女は少し恥ずかしそうに縮こまったあと、近くにあった棚に荷物をおいた。僕も彼女の行動につられるように同じようにした。
今のこの状況からして、別れでも告げられるのではないか。そういったことが一瞬頭をよぎった。しかし、その心配はなく、すぐに彼女が口を開いた。
「俺、最近ちょっと歴史勉強したんだ。」
「え?あの有里が?」
僕はからかうようにそういった。しかし、彼女の勉強したという言葉にも少し驚いてもいた。なぜなら、彼女は大がつくほどの勉強嫌いであったためだ。
「ねぇ俺を何だと思ってるんだよ」
笑いながらそう返す有里の言葉に思わず僕までもが笑ってしまった。
俺という一人称を使っているが一応有里は女だ。しかもかわいい。
「でさ、そのときに見た言葉がすごい好きになったんだ」
一息置いた後、彼女は一度大きく深呼吸をし、はっきりした声で僕の頭によく残るように言った。
「『天皇陛下、なぜ朕のために死ねとおっしゃってくれなかったのですか?』」
ありえないほどの情報量を処理しきれず頭がフリーズした。僕はまさかの言葉に唖然とした。まさか有里からこんな言葉が出るなんて…。僕は驚きを隠せなかった。
この言葉は第二次世界大戦終結直後の玉音放送にて当時の天皇である昭和天皇が国民へ日本の敗北を伝えた時、ある一人の日本国民が残した言葉だ。日本は大戦中、国のため、天皇のために死ぬことは最も美しい死に方とされ、その結果戦争末期には神風特別攻撃隊という事実上の自殺が推奨され、そのおかしさに誰も気づかなかった。それほどまでに国民は行き過ぎた忠君愛国洗脳を受けていた。そして、この言葉はそれを象徴するようなものだと僕は思っていた。そんな言葉に僕は少々の嫌悪感を覚えた。
「玉音放送のやつだよね?」
僕がそう尋ねると「うん」と彼女は力強く頷いた。
彼女が頷いたあと、少々の間沈黙が流れた。まずいぞ、と思った僕はなにか出す言葉を焦って探していると、彼女がその沈黙を打ち破った。
「ねぇ遥?もし俺が遥に、俺のために死んでって言ったら死んでくれる?」
彼女の口からとんでもない言葉が飛んできた。
ただの一人の女子の発言なのに、その他とは段違いの迫力とそれとはまた別の謎の力があった。僕は息を呑んだ。
この会話が始まってからというもの、僕は何度彼女に対して驚いただろうか。驚きすぎて少しずつ頭が痛くなってきた。
どうしよう、どうしよう…。返す刀がなく僕は困っていた…と思った頃には僕は彼女に向かって跪き、頭を垂れていた。自分でもわからなかったが僕の本能的なところから彼女に服従した。そう思うしかなかった。そして気づけば僕の口はひとりでに動き始めた。
「もちろんです、閣下」
このとき、僕は未来永劫彼女のそばにいて護衛したいと強く強く決心した。
「あなたのためなら凍える海の中でも飛び込んで参ります。そして、あなたを一生お守りします。」
僕の走馬灯はそこで終わった。
結局、あの約束は果たせなかった。今から戻ろうとしてももう遅い。
最後に、彼女の手柔らかい手を握って笑いたかったな。
後悔が込み上げてくる。でも、これでいいんだ。こんなやつにハッピーエンドなんかお似合いじゃない。
死ぬ前に、一つだけ願いを唱えた。
彼女が笑って余生を過ごせますように。
目が覚めたときには僕の頭上には川があった。いや、川のすぐ上空に僕があった。
ドボン!
次の瞬間、僕の体は大きな音と水しぶきをあげ、深い濁流の川と衝突した。頭から川と衝突したためか頭に強い衝撃を感じた。鼻に水が入り激痛が走る。痛いと感じつつも至って僕は平然としていた。もうじき感じなくなることだろう痛みさえ、今の僕にとっては娯楽と化している。
僕は川の流れに身を任せ、ただただ死を待つだけであった。どこまで行くのだろうか、どこで息が切れるのだろうか、そんなことを考えながら僕は息を止め水中で心臓が錆びて動かなくなるのを待った。
十分くらい経っただろうか。少しずつ苦しくなる息を感じながら、死を今か今かと待っていた。そしてある時、プツンと何かが切れたように意識がなくなった。目に水が入らないようにわざと閉じていた目を開けようとしても開かない。ようやくか、と思った。力を入れようとしても全く入らない。そもそも入れられない。どんどん体温が下がっていくのがわかる。僕の命と体が完全に分離する。
あぁ、やっと終わる。
意識を失う瞬間、あの大穴が埋まるほどの快感を覚えた。そして、下澤遥は崩壊し佐川有里との冷戦は終結したのであった。
六月八日、真珠湾にて貿易船に乗っていたアメリカ人乗組員の一人によって一つの日本人中学生の遺体が発見された。誰かによる暴行の様子もなく非常に生前の面影をそのまま残したような遺体であった。故人の所有物は服の襟に刺さっていた一本のペンだけで、警察はこの事件を自殺と見なした。そのためこの青年の死は大々的に報道されることもなく、彼の葬式は関係者によってひっそりと行われた。
心地よく永遠の眠りについた彼の棺には生前彼が好きであったと言われているコスモスの花と、一つの小さな青色のペンギンのぬいぐるみが添えられていた。




