最後の約束
彼女と会うのは、いつも夕方だった。
川沿いの遊歩道。
ベンチがひとつだけある場所。
初めて話したのも、ここだ。
あの日、僕は仕事に失敗して、どうしようもなく落ち込んでいた。
ベンチに座って、川を見ていた。
「そこ、いいですか」
声がした。
顔を上げると、彼女が立っていた。
白いワンピース。
夕焼けの光を透かして、少し淡く見えた。
「あ、どうぞ」
僕は端に寄る。
彼女は座る。
しばらく沈黙。
川の音だけが流れる。
やがて彼女が言った。
「ここ、落ち着きますよね」
僕は頷いた。
「はい」
「私も、嫌なことがあると来るんです」
その言葉で、僕は少し救われた気がした。
それから、時々会うようになった。
約束したわけじゃない。
でも行けば、彼女がいる。
彼女も言った。
「来ると、あなたがいますね」
笑って。
僕たちは、名前も聞かないまま話した。
仕事の愚痴。
子どもの頃の話。
好きな食べ物。
苦手な季節。
不思議だった。
現実の誰よりも、彼女には本音を言えた。
理由は分からない。
ただ、安心できた。
ある日、僕は聞いた。
「どうして名前、聞かないんですか」
彼女は少し考えて言った。
「ここで会うあなたは、ここだけのあなたでいいから」
僕は笑った。
「変なの」
「現実の名前を知ると、現実が混ざるでしょう」
彼女は川を見たまま言う。
「ここは現実から少し離れた場所だから」
僕はその意味を深く考えなかった。
ただ、その距離が心地よかった。
季節が変わった。
秋。
風が冷たい。
彼女は言った。
「私、もうすぐ来られなくなるかもしれません」
胸が少しだけ沈む。
「引っ越し?」
彼女は首を振る。
「ちょっと違います」
それ以上は言わなかった。
僕も聞かなかった。
聞けば、この場所が現実になる気がしたから。
数日後。
彼女は言った。
「最後に、お願いがあります」
「何?」
「もし私が来なくなっても」
彼女は僕を見る。
「あなたは来てください」
僕は笑う。
「一人で?」
「はい」
「なんで」
彼女は少しだけ困った顔をした。
「あなたがここにいることが」
言葉を探す。
「大事だから」
僕は冗談めかして言った。
「幽霊みたいに?」
彼女は少し笑った。
「そうかもしれません」
そして立ち上がる。
「じゃあ」
僕も立つ。
「また明日」
彼女は首を横に振る。
「……さようなら」
その言い方が、少し変だった。
でも僕は深く考えなかった。
「うん」
彼女は歩き出す。
夕焼けの中へ。
その背中が、やけに淡く見えた。
それが最後だった。
次の日、彼女はいなかった。
その次の日も。
その次も。
僕は約束を思い出す。
来てください。
僕はベンチに座る。
一人で。
川を見る。
風が吹く。
彼女はいない。
でも僕は来る。
毎日じゃない。
でも時々。
季節が巡る。
冬。
春。
夏。
僕はここに来る。
彼女はいない。
でも僕は話す。
「今日さ、仕事でさ」
誰もいないベンチに。
それでも、不思議と落ち着く。
彼女がいた頃と同じように。
ある夕方。
僕はふと思い立った。
彼女のことを、何も知らない。
名前も。
仕事も。
住んでいた場所も。
現実に存在していた証拠が、何もない。
僕は周囲を見回す。
川。
ベンチ。
遊歩道。
すべて同じ。
でも彼女の痕跡はない。
そのとき、初めて思う。
彼女は本当にいたのか。
僕は記憶を辿る。
会話。
声。
笑顔。
すべて鮮明だ。
だが証拠はない。
僕は少し怖くなる。
僕は一人で話していただけじゃないか。
孤独に耐えるために、誰かを作ったんじゃないか。
そのとき。
背後から声がした。
「ここ、いいですか」
心臓が止まりそうになる。
振り返る。
知らない女性が立っていた。
黒いコート。
疲れた顔。
「あ、どうぞ」
僕は端に寄る。
彼女は座る。
沈黙。
やがて彼女が言う。
「ここ、落ち着きますね」
僕は息を飲む。
同じ言葉。
同じ調子。
女性は続ける。
「嫌なことがあると来るんです」
僕はゆっくり聞く。
「……初めてですか」
女性は首を振る。
「いえ」
川を見たまま言う。
「前にも来たことがあります」
胸が強く打つ。
「そのとき」
女性は少し考える。
「ここに、男の人がいたんです」
世界が静止する。
「落ち込んでいて」
僕は動けない。
「でも優しくて」
声が出ない。
「時々会うようになって」
女性は微笑む。
「救われました」
僕は理解する。
女性は言う。
「でも私」
少し目を伏せる。
「もう長くないって分かっていて」
息が止まる。
「最後にお願いしたんです」
夕焼けが差す。
「私が来なくなっても、ここに来てほしいって」
僕は震える。
女性は僕を見る。
「その人、来てくれてるかな」
僕は答えられない。
女性は少し寂しそうに笑う。
「来てくれてたらいいな」
僕はやっと声を出す。
「……来てます」
女性が瞬く。
「え?」
「ずっと来てます」
涙が出る。
「あなたが来なくなってからも」
女性の目が揺れる。
「ここに座って」
「話して」
声が震える。
「待ってました」
女性の唇が震える。
「……あなた」
僕は頷く。
女性の頬に涙が流れる。
「よかった」
夕焼けの中で、
僕たちは初めて現実で向かい合う。
名前も知らずに始まった関係は、
存在を確かめるための約束だった。
彼女はずっと思っていた。
あの時間は、自分が作った幻想かもしれないと。
僕もずっと思っていた。
彼女はもう存在しないのかもしれないと。
でも違った。
僕たちは互いに、
相手がいた証拠だった。
川が流れる。
風が吹く。
ベンチは同じ場所にある。
彼女は言う。
「ありがとう」
僕は言う。
「こちらこそ」
夕焼けの中で、ようやく約束が終わった。




