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五分で読める AI短編小説集

最後の約束

作者: アイキカイ
掲載日:2026/02/24

 彼女と会うのは、いつも夕方だった。

 川沿いの遊歩道。

 ベンチがひとつだけある場所。

 初めて話したのも、ここだ。

 あの日、僕は仕事に失敗して、どうしようもなく落ち込んでいた。

 ベンチに座って、川を見ていた。

「そこ、いいですか」

 声がした。

 顔を上げると、彼女が立っていた。

 白いワンピース。

 夕焼けの光を透かして、少し淡く見えた。

「あ、どうぞ」

 僕は端に寄る。

 彼女は座る。

 しばらく沈黙。

 川の音だけが流れる。

 やがて彼女が言った。

「ここ、落ち着きますよね」

 僕は頷いた。

「はい」

「私も、嫌なことがあると来るんです」

 その言葉で、僕は少し救われた気がした。

 それから、時々会うようになった。

 約束したわけじゃない。

 でも行けば、彼女がいる。

 彼女も言った。

「来ると、あなたがいますね」

 笑って。

 僕たちは、名前も聞かないまま話した。

 仕事の愚痴。

 子どもの頃の話。

 好きな食べ物。

 苦手な季節。

 不思議だった。

 現実の誰よりも、彼女には本音を言えた。

 理由は分からない。

 ただ、安心できた。

 ある日、僕は聞いた。

「どうして名前、聞かないんですか」

 彼女は少し考えて言った。

「ここで会うあなたは、ここだけのあなたでいいから」

 僕は笑った。

「変なの」

「現実の名前を知ると、現実が混ざるでしょう」

 彼女は川を見たまま言う。

「ここは現実から少し離れた場所だから」

 僕はその意味を深く考えなかった。

 ただ、その距離が心地よかった。

 季節が変わった。

 秋。

 風が冷たい。

 彼女は言った。

「私、もうすぐ来られなくなるかもしれません」

 胸が少しだけ沈む。

「引っ越し?」

 彼女は首を振る。

「ちょっと違います」

 それ以上は言わなかった。

 僕も聞かなかった。

 聞けば、この場所が現実になる気がしたから。

 数日後。

 彼女は言った。

「最後に、お願いがあります」

「何?」

「もし私が来なくなっても」

 彼女は僕を見る。

「あなたは来てください」

 僕は笑う。

「一人で?」

「はい」

「なんで」

 彼女は少しだけ困った顔をした。

「あなたがここにいることが」

 言葉を探す。

「大事だから」

 僕は冗談めかして言った。

「幽霊みたいに?」

 彼女は少し笑った。

「そうかもしれません」

 そして立ち上がる。

「じゃあ」

 僕も立つ。

「また明日」

 彼女は首を横に振る。

「……さようなら」

 その言い方が、少し変だった。

 でも僕は深く考えなかった。

「うん」

 彼女は歩き出す。

 夕焼けの中へ。

 その背中が、やけに淡く見えた。

 それが最後だった。

 次の日、彼女はいなかった。

 その次の日も。

 その次も。

 僕は約束を思い出す。

 来てください。

 僕はベンチに座る。

 一人で。

 川を見る。

 風が吹く。

 彼女はいない。

 でも僕は来る。

 毎日じゃない。

 でも時々。

 季節が巡る。

 冬。

 春。

 夏。

 僕はここに来る。

 彼女はいない。

 でも僕は話す。

「今日さ、仕事でさ」

 誰もいないベンチに。

 それでも、不思議と落ち着く。

 彼女がいた頃と同じように。

 ある夕方。

 僕はふと思い立った。

 彼女のことを、何も知らない。

 名前も。

 仕事も。

 住んでいた場所も。

 現実に存在していた証拠が、何もない。

 僕は周囲を見回す。

 川。

 ベンチ。

 遊歩道。

 すべて同じ。

 でも彼女の痕跡はない。

 そのとき、初めて思う。

 彼女は本当にいたのか。

 僕は記憶を辿る。

 会話。

 声。

 笑顔。

 すべて鮮明だ。

 だが証拠はない。

 僕は少し怖くなる。

 僕は一人で話していただけじゃないか。

 孤独に耐えるために、誰かを作ったんじゃないか。

 そのとき。

 背後から声がした。

「ここ、いいですか」

 心臓が止まりそうになる。

 振り返る。

 知らない女性が立っていた。

 黒いコート。

 疲れた顔。

「あ、どうぞ」

 僕は端に寄る。

 彼女は座る。

 沈黙。

 やがて彼女が言う。

「ここ、落ち着きますね」

 僕は息を飲む。

 同じ言葉。

 同じ調子。

 女性は続ける。

「嫌なことがあると来るんです」

 僕はゆっくり聞く。

「……初めてですか」

 女性は首を振る。

「いえ」

 川を見たまま言う。

「前にも来たことがあります」

 胸が強く打つ。

「そのとき」

 女性は少し考える。

「ここに、男の人がいたんです」

 世界が静止する。

「落ち込んでいて」

 僕は動けない。

「でも優しくて」

 声が出ない。

「時々会うようになって」

 女性は微笑む。

「救われました」

 僕は理解する。

 女性は言う。

「でも私」

 少し目を伏せる。

「もう長くないって分かっていて」

 息が止まる。

「最後にお願いしたんです」

 夕焼けが差す。

「私が来なくなっても、ここに来てほしいって」

 僕は震える。

 女性は僕を見る。

「その人、来てくれてるかな」

 僕は答えられない。

 女性は少し寂しそうに笑う。

「来てくれてたらいいな」

 僕はやっと声を出す。

「……来てます」

 女性が瞬く。

「え?」

「ずっと来てます」

 涙が出る。

「あなたが来なくなってからも」

 女性の目が揺れる。

「ここに座って」

「話して」

 声が震える。

「待ってました」

 女性の唇が震える。

「……あなた」

 僕は頷く。

 女性の頬に涙が流れる。

「よかった」

 夕焼けの中で、

僕たちは初めて現実で向かい合う。

 名前も知らずに始まった関係は、

存在を確かめるための約束だった。

 彼女はずっと思っていた。

 あの時間は、自分が作った幻想かもしれないと。

 僕もずっと思っていた。

 彼女はもう存在しないのかもしれないと。

 でも違った。

 僕たちは互いに、

 相手がいた証拠だった。

 川が流れる。

 風が吹く。

 ベンチは同じ場所にある。

 彼女は言う。

「ありがとう」

 僕は言う。

「こちらこそ」

 夕焼けの中で、ようやく約束が終わった。

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