鳥は飛び立った
その日、執務室でいつものように仕事をしていると、侍女の悲鳴が聞こえた。
カップを割ってしまったというような時の悲鳴とは違っていた。
執務室を大股で無意味に歩き、しばらくして部屋を出ようとしたら廊下にいた家令に止められた。
「リネットお嬢様が、ご自身で……その……御髪を、とても短く切られたと……。今はお部屋にお戻りください。詳細が分かり次第、お知らせに参ります」
常に冷静沈着な家令が、少しの動揺を見せていた。
とても短く髪を切ったというのは、家令が動揺するほどのものだったのか。
デスクに戻って書類に目を落としても、字面がひとつも頭に入ってこない。
書類を引き出しに戻して続きの小部屋に行き、コーヒーを淹れる支度をする。
貴族の嗜みである葉巻の匂いが苦手で、心を落ち着かせる時はこうして自らコーヒーを淹れるのが、唯一の趣味と言ってよかった。
行きつけのコーヒーハウスのブレンド豆を挽いて、ゆっくりと湯を注ぐ。
酸味の少ないコーヒーを飲み始めると、家令がやって来た。
「お嬢様は、髪をほとんど切り落としてしまいました。今は侍女が整えましたが、言葉を選ばずに申せば『無残』の一言に尽きます。奥様はお嬢様を見て座り込まれてしまい、お部屋で休んでいらっしゃいます。旦那様、お嬢様にお会いになりますか」
「……わざわざ部屋を訪れるものでもあるまい。朝食の席でよいだろう」
「かしこまりました」
ところが、その日のうちに廊下で娘と鉢合わせをしてしまった。
娘は驚いた顔をしたが、私のほうこそ心臓を槍で突かれたような思いがした。
「……愚かな……」
思わず零れた言葉は娘に向けたものではない。
私自身と、妻バーバラと、双方の家に向けられたものだった。
***
バーバラとは、親同士が決めた婚約者だった。
年の離れた兄が二人いるバーバラは、兄たちにも両親にも可愛がられて育ったと言っていたが、そのことから想像できるものをすべてそのまま持っている、そんな女性だった。
初対面で向かい合った時に綺麗な人だと思ったが、ふとした表情に険があるのを感じた。
それでも普通に婚約者として一年ほどを過ごした。
いろいろな場面での贈り物やカードも欠かしたことはなく、社交の場でもパートナーとして共に参加した。
互いの家を訪れ、家族のように過ごしてもいた。
だが、結婚まであとひと月を切った頃、バーバラの下の兄から『まさか君が、挙式を待たずに妹を妊娠させるとは。誠実そうな顔をしているのにな』と言われ、天と地がひっくり返るほど驚いた。
誓ってそのようなことはしていない、それはバーバラ本人が言っているのかと尋ねると、バーバラの次兄は言葉を失った。
すぐに二つの家は、嵐の海に漕ぎ出した小舟のように翻弄された。
バーバラは不貞を認めた。
婚約者同士の親睦のために双方の家で茶会と称した席を交代で設けていたが、彼女がアストリー家に訪れていた時に、昼餉のセッティングをしていた料理人ジョナスに一目惚れをしたらしい。バーバラからジョナスに声を掛けたという。
彼女は、そのことは私だけに打ち明け、家族には不貞の相手の名は言わなかった。
私に真相を話すことが誠実だとでもいうように、バーバラは重い荷物を私に背負わせた。
どこかの知らない男のほうがよかった。
そして、私のほうも幼少期に高熱を伴う病に罹ったために子種が無いかもしれないと初めて母から知らされ、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
私はそれをバーバラには伝えなかった。
この件については真相を話すことが誠実なのだろうが、私はその誠実さを捨てることにしたのだ。
醜聞で作られた器に醜聞を注いだような状況の中、どちらの家も自分たちの事情から、この婚約を継続させてバーバラと私を結婚させることに決めた。
双方の家は、醜聞の器に蓋をすることを選んだのだった。
バーバラの腹の子の父親は我がアストリー伯爵家の料理人で、アストリー伯爵家の嫡男である私には子種がない。
醜聞でグラグラ揺れる器から醜聞が零れないようにするには、結婚するしかなかった。
バーバラは、不貞で出来た腹の子を私の子として生むことができる。
子種の無い私は、アストリー伯爵家を継続させられる子を得ることができる。
そうして生まれてきたのが、リネットだった。
***
『娘』という生き物をどう扱えばよいのか分からなかった。
自分の子ではないという前に、生き物として脆弱そうな姿にどこか懼れを感じていた。
バーバラはすべて乳母に任せきりで、リネットはほとんど乳母が育てたようなものだった。
一度、乳母からリネットを何気なく手渡されたことがあった。
父親なのだからそうすることが当たり前だとでもいうように、軽やかに何の思いもなく、リネットを渡された。
想像よりもずっとリネットは重たく、そして温かかった。
抱き慣れていない私にも、リネットは上手に抱かれた。
リネットの丸い瞳は、白い部分が少なく碧色の宝石のようだった。
小鳥のように首をかしげ、その丸い碧色の瞳がまっすぐに私を捉えた。
思わず目を見開くと、リネットが笑った。
この世の何よりも柔らかそうな頬が、部屋の灯りを受けて光って見えた。
「リネット」
初めてその名を呼んだ。
リネットはキャッキャと笑い声を上げる。
何も面白いことなどないだろうに。
笑うリネットにつられて、私もつい笑ったのだと思う。
だがその時、雷に打たれたように、自分と似ているところがひとつもないことに気づいた。
リネットの丸い小鳥のような瞳は美しい碧色だが、私は冬の空のような灰色だ。
奥目気味の私と違い、リネットの瞳は人間の目が球体だということがよく分かる形をしている。
似ていないのは当たり前だというのに、自分が男であることをリネットに否定されたような気がした。
あの日の自分を『愚かな……』と罵る言葉は自然とこぼれた。
愚かすぎる私たち大人が、ゆっくりとリネットを壊したのだった。
***
リネットが自分の子ではないと一門を束ねる侯爵に伝えてから、バーバラとの嘘で固められた婚姻関係を終いとすることにした。
バーバラの家と私の家の、あの日間違えた判断をリネットだけを被害者にして終わらせる。
どれだけ罪深いことをしてしまったのか……。
子供の頃のリネットに与えた鳥籠がリネットの部屋に残されていた。
小鳥のようなリネットが傷ついた小鳥を拾ったと耳にして、すぐに用意をした。
もっと幼い頃、リネットは庭に降り立つ鳥を、おぼつかない足取りで追いかけていた。
追いかけては転び、また立ち上がって空を仰ぐように鳥を見る。
私は抱き起こしてやることもせずに、ただ近くから見ているだけだった。
リネットこそが、私の庭に迷い込んだ小鳥のようだった。
リネットに『父親』に愛された記憶を持たせることができなかった。
どの時も私は臆病で卑怯で、リネットの丸い澄んだ瞳から逃げ続けた。
***
リネットとバーバラを乗せた馬車が出立したと家令に告げられ、私は庭へ出た。
バーバラは馬車の中でどのような話をリネットにするのかと考えたが、私の知るバーバラならば、何も話さないように思えた。
二人を揃ってバーバラの生家に送り出したことがリネットにとっての最善だったのか、その時でも答えを見つけられずにいた。
すると、鳥のさえずりが聞こえた。
辺りを見回すと、低木の陰に小鳥が見えた。
ゆっくりと近寄っても、飛び立つ気配がない。
そろりと手を伸ばして柔らかく捕まえる。
鳥はチチチとさえずり、私の手の内側をつついていた。
リネットが置いていった空の鳥籠にその鳥を入れた。
すると、あまりにもしっくりきた。
執務室ではなく、自分の寝室に鳥籠を運ぶ。
その昔に買い求めたがついぞ開くことのなかった鳥の本は、書架から簡単に見つけ出すことができた。
窓際に置いた鳥籠の中、鳥が丸い目でこちらを見ている。
昨夜リネットが放った鳥なのか、私には何も知る術がない。
リネットの鳥がこの籠の中にいた頃、一度もこうして近くで見たことがなかったからだ。
だがその丸い目は、どこまでもリネットに似ていた。
赤子の頃に一度だけこの手に抱いた、私の娘に。
「……すまなかった、リネット……。どうか、どうか幸せに……」
見送りもしなかった馬車は頭の中でどんどん小さくなり、リネットは飛び立っていった。
鳥はただ、首をかしげて丸い目で、愚かな私を見ていた。
おわり




