梅雨のパニックと油の盾
季節は梅雨に入っていた。人間や動物にとっては「鬱陶しい雨」程度かもしれないが、機人にとって、それは「空から降る酸」にも等しい恐怖の液体だった。湿度は金属の敵であり、水滴は回路の破壊者だ。
教室は、いつもより重苦しい空気に包まれていた。いや、重苦しいのは空気ではなく、生徒たちの関節だ。
「……ギ、ギギ……あー、ダメだ。膝が……膝が死んだ……」
登校してくるなり、ギアが机に突っ伏した。彼のマットブラウンの装甲は、湿気のせいか心なしか色がくすんでいる。
「おはよう、ギア。ひどい音だね」
「よう、ロスカ……。お前、よく平気な顔してられんな。俺なんか、今朝起きたら左足のメインシリンダーが『カカカッ』って鳴いて動かねえんだよ。まるで呪いだ」
教室を見渡すと、他の生徒たちも似たようなものだった。腕を回すと「キュイッ」と変な音がしたり、首を動かすたびに顔をしかめたりしている。湿気で潤滑油の粘度が変わり、微細な錆が関節の隙間に発生し始めているのだ。あちこちで「ギギッ」「ガガッ」という、油切れの自転車のような大合唱が起きている。
そんな中、ロスカは自分の腕をさすった。 滑らかだ。 昨夜、スパナに言われて念入りに手入れをしたおかげで、彼のスチールグレーの体は、この湿気の中でも軽快だった。
(メンテナンスって、すごい……。周りがこんなに苦しんでるのに、僕だけちょっと体が軽い)
ロスカは優越感というよりは、『助かった』という安堵感を噛み締めた。
放課後。ロスカは傘を差して、校舎裏のねじ巻きクラブへと急いだ。鉄の扉を開けると、そこは除湿機がフル稼働しており、外のジメジメが嘘のような、カラッとした天国のような空間だった。
「お疲れ様です……うわっ!」
ロスカが入室しようと扉を開けた瞬間、作業台の上から「シャーッ!」という鋭い威嚇音が飛んできた。猫のブチョーだ。彼は除湿機の温風吹き出し口を陣取っていたが、ロスカが入ってきたことで湿った空気が流れ込み、不機嫌になったようだ。
「早く閉めろ!湿気が入るだろうが!」
スパナが奥から怒鳴った。手には大きなスプレー缶を持っている。
「ブチョーは低気圧と湿気が大嫌いなんだ。せっかく除湿機で毛並みを整えてやってるのに、お前が濡れた体で入ってきたから怒ってるのさ」
「す、すみません!」
ロスカは慌てて扉を閉めた。ブチョーは「フン」と鼻を鳴らすと、再び除湿機の前で液状化するように寝そべった。
「まったく……『生身の動物』である猫ですら、この季節は調子を崩す。だが、俺たち機人にとっては、不調どころの話じゃねえ。生死に関わる」
「生死、ですか?」
「そうだ。『錆』だ」
スパナは声を潜め、怪談でも話すように言った。
「いいかロスカ。錆は機人の癌だ。一度発生すれば、装甲の下で静かに広がり、ある日突然、歯車を固着させる。朝起きたら、指一本動かせない彫像になってるかもしれないんだぞ……」
「ひっ……!」
ロスカは青ざめた。朝のギアの姿が脳裏をよぎる。
「先輩、脅かすのはやめてください。ロスカ先輩のスチールグレーが恐怖で振動しています」
いつものように作業台の下からテツが現れた。彼は湿度計をロスカに見せつけた。
「この部屋は快適ですが、一歩外に出れば湿度は88%。水中を歩いているのと大差ありません。防錆処理をしていない機体の関節腐食率は、晴天時の12倍です。ロスカ先輩、あなたの今の装備では、下校中に膝関節がロックする確率が40%ありますね」
「40%!?家に帰れないじゃないか!」
「だから、今日はこれだ」
スパナがスプレー缶を投げ渡した。
「超撥水コーティング剤。今日は分解じゃない。お前のそのスチールグレーの表面を、水一滴通さない『盾』に変えるんだ」
そこからの作業は、精密な分解というよりは、ひたすらな肉体労働だった。まずは表面の汚れを完全に拭き取り、コーティング剤を塗り込み、乾いた布で磨き上げる。これを全身に行うのだ。
「もっとだ!光沢が出るまで磨け!水分子が『滑ってとまれねえ!』って悲鳴を上げるくらいツルツルにするんだ!」
スパナが檄を飛ばす。
「はいっ!」
ロスカは必死に腕を動かした。キュッ、キュッ、と小気味よい音が響く。隣ではテツが、自分のブラックマットの装甲に黙々と艶消し用の防水スプレーを吹き付けている。彼はこういう作業も手早い。
一方、ブチョーは快適な空間で、完全にリラックスしてあくびをしている。
「……猫って、濡れるのは嫌いだけど、自分じゃ何もしないんですね」
ロスカが汗を拭いながら言った。
「あいつらは毛皮が乾けば元通りだからな。だが俺たち金属の体を持つ者は違う。『甘え』は即『錆び』だ」
スパナが哲学のように言った。
「自分の身を自分で守る。それができない奴から錆びていくんだ」
一時間後。ロスカの全身は、生まれ変わったように輝いていた。スチールグレーの地味な色合いは変わらないが、表面に薄い光の膜をまとったような、濡れたような艶がある。
「よし。これなら酸性雨だろうが泥水だろうが怖くねえ。ロスカ、帰りにその効果を試してこい」
部室を出ると、雨はさらに激しくなっていた。ロスカは恐る恐る傘を開き、雨の中へと歩き出した。
横殴りの雨が、ロスカの肩や腕にかかる。以前なら「うわ、最悪だ」と肩をすくめていたところだ。水分が継ぎ目に入る感触に怯えていただろう。
だが、今は違う。雨粒がロスカの肩に当たった瞬間、コロコロと美しい球体になり、玉のように弾け飛んだ。水分が装甲に全くなじまない。まるで蓮の葉の上のように、水が滑り落ちていく。
「すごい……!全然濡れない!」
ロスカは感動した。濡れているのに、濡れていない。強力な油膜が、湿気という敵を完全にシャットアウトしている。関節の動きも重くならない。むしろ、湿気で潤滑油が馴染んでいるのか、いつもより滑らかなくらいだ。
校門に向かう途中、前方に一人のオネが歩いているのが見えた。ギアだ。彼は傘を差しているものの、水たまりを避けるために変な歩き方をしており、そのたびに「ギ……ゴ……」と悲しい音を立てていた。
「おーい、ギア!」
「おお……ロスカか……。お前、元気だな……俺はもうダメだ……帰ったらオイル風呂に入らねえと……」
ギアはボロボロだった。ロスカは苦笑しながら、彼を少し励ました。
ふと、校舎の昇降口に目をやると、そこにコハクが立っていた。彼女は白い傘を差し、雨のカーテンを見つめていた。そして、静かに歩き出した。
水たまりがあっても、彼女は避けようともせず、優雅に歩を進める。跳ね上がった泥水が彼女の足元にかかることはない。彼女の歩き方はあまりに精密で、水しぶきすら上げないのだ。そして、風で吹き込んだ雨粒が彼女の白い頬や肩についても、それは一瞬で真珠のように転がり落ちて消える。
(……やっぱり、彼女も手入れしているんだ)
ロスカは確信した。コハクが美しいのは、元々の性能だけじゃない。彼女もまた、この『見えない敵』と戦うために、完璧な準備をしているのだ。
ロスカは自分の腕を見た。雨を弾くスチールグレーの輝き。それは、コハクと同じ『準備』ができている証だった。
「……よし」
ロスカは小さく拳を握った。憧れのコハクとの距離が、また数ミリだけ縮まった気がした。
ロスカは傘を直し、雨音に負けない軽快な駆動音を響かせて、家路についた。梅雨のジメジメした空気の中で、彼のぜんまいだけが、晴天の日のように力強く時を刻んでいた。
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