蒼天の静寂、白銀のリズムとカナリアの予感
昨夜の『特製オイルカレー』の熱狂から一夜明け、中機校を包む空気は、冷え切った機械油のように重く、澄んでいた。登校してくる学生たちが立てる規則正しい駆動音や、あちこちで交わされる挨拶。それらは昨日までと同じはずなのに、今のロスカにとっては、すべてが歪んだノイズのように聞こえていた。
ポケットの中に滑り込ませた右手が、硬い金属の感触を捉える。クランクから渡された『銀のコイン』。それは触れたからといって何か特別な力を発揮するわけでもない、ただの精巧な金属片に過ぎない。だが、その『物証』としての重みが、ロスカの歩調をわずかに乱していた。
「おい、ロスカ。朝からそんな、ぜんまいでも噛み込んだような顔してどうしたんだよ」
不意に声をかけられ、ロスカの肩が小さく跳ねた。振り返ると、そこには親友のギアが立っていた。
「あ……ギアか。おはよう」
「おはよう、じゃないぜ。昨日からずっと心ここにあらずだろ。……まあ、無理もねえか。昨日のあれは、俺が見ててもヒヤヒヤしたからな」
ギアはロスカと並んで歩きながら、肩をすくめて見せた。
「ピニオンのやつ、お前のこととなると途端に沸点が下がるからな。あいつ、お前が心配なのは分かるけど、あのコハクさん相手にあんなに火花散らすのは流石に見てるこっちの駆動系が縮むぜ。……お前、あいつに後で何か言われたか?」
「いや、昨日はそのまま別れたけど……。ピニオンは昔から、ああだもんね。悪気はないんだろうけど」
「分かってるけどさ。俺から見ても、あいつの『世話焼きトルク』は過剰な時がある。でもよ、ロスカ。……お前、あっちの『プラチナさん』とも、随分とうまくやってるみたいじゃないか。ピニオンがああなるのも、分からなくはないぜ?」
ギアのからかうような言葉。それが今のロスカには、別の意味を持って胸に刺さった。地下でクランクから聞いた話の余韻。それをギアにすら話せないことが、ロスカの内部回路に焦燥感を与えていた。
「そんなんじゃないよ。ただ……」
「まあ、深くは聞かねえよ。お前がピニオンをなだめるのに苦労するのは、今に始まったことじゃないしな。ほら、二限始まるぞ」
ギアはロスカの背中を軽く叩き、教室へと向かった。親友に嘘を吐き続ける孤独。それが、銀のコインが最初にもたらした変調だった。
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二限の授業が終わった後の長い休憩時間。ロスカは逃げるように屋上へと続く階段を登った。重厚な鉄扉を押し開けると、そこには初夏の鋭い日差しと、遮るもののない高所の風が吹き抜けていた。
地上から切り離された、静寂の領域。そこには先客がいた。フェンスに寄り添い、遠く広がる学園の境界線を見つめる白銀の輪郭。
「コハク、さん」
彼女はゆっくりと首を巡らせた。サファイアとエメラルドの瞳が、眩しそうに細められる。
「ロスカさん。……あなたも、ここへ?」
「うん。……なんだか、下の空気が少し重たく感じてしまって」
ロスカが隣に並ぶと、コハクから微かに、図書館で嗅いでいる古い紙の香りがした。
「……ここは、いいですね。下にいると、たくさんの個体の音が聞こえすぎます。……あの深夜の部室での出来事。……それらが、今の賑やかな音に混ざって再生されてしまうんです」
コハクの指先が、金網をなぞる手を止めた。彼女にとって、深夜の部室でクランクに捕らわれ、人質にされた恐怖は、未だに消えない致命的なエラーログとして刻まれている。
「……コハクさん。聞いてほしいことがあるんだ。昨日、僕がクランクから聞いた話を」
コハクは無機質な瞳をロスカに向け、静かにその言葉を待った。
「クランクは……僕のことを、『人間そのままの、剥き出しの衝動を持って生まれた個体だ』と言ったんだ。そして、コハクさん。君のことも。君は僕とはまた違う意味で、特別な存在なんだって」
コハクの受光器が、微かに揺れた。
「……私、が……? 特別な……?」
「うん。それから、あいつが僕に渡したこのコイン。これは学園の地下で見つけたって言ってたけど、ほら、ここに変な紋章が刻まれているでしょ。これが『リ・バース』っていう秘密組織の古い紋章なんだって。……そして警告してきたんだ。彼らは旧世界の遺物を集めれば、いつか機人の体を捨てて、人間のような柔らかな肉体やしなやかな体を手に入れられると本気で信じている集団で、その夢の実現のためなら何だってやる連中なんだって」
ロスカは銀色のコインを取り出し、コハクに差し出した。
「クランクはこうも言っていた。『人間回帰』なんて、絶対に不可能なんだって。でも、彼らはそんな叶わない夢のために、情報を独占しようとしている。このコインは、彼らがこの学園にも潜んでいるかもしれないという、不穏な証拠なんだ」
コハクはしばらくの間、そのコインを見つめていた。『リ・バース』という存在。そして、彼らが追い求める『届かない理想』という歪な構造を、恐怖を抱えながらも咀嚼するように。
「……『リ・バース』。……ありもしない肉体を求めて、影を追う者たち。……私たちの知らないところで、世界はそんな悲しい音を立てていたのですね」
「この学園の誰かが、彼らと繋がっているかもしれない。そして、あのガラス玉に反応した僕たちは、もしかすると連中のターゲットになるかもしれないって言うんだ。……コハクさん、怖い思いをさせた上に、こんな重い話に巻き込んで、ごめん」
ロスカの謝罪に、コハクはゆっくりと自分の胸元に手を当てた。
「……怖くは、ありません。むしろ、腑に落ちたような気がします。図書室で、あなたの音を聴いた時に感じた、あの不可解な熱。それが『衝動』というものなら。そして、私もまた、その流れの中にいる存在なのだとしたら」
彼女の装甲が、ロスカの腕に微かに触れる。冷たい金属の感触。けれど、その奥にある彼女が刻むリズムが、ロスカの皮膚を通じて直接伝わってきた。
「……聴いてください、ロスカさん。『リ・バース』が何を求め、学園が何色に染まっていても。私とあなたの間に流れるこの音だけは、偽物ではありません。私にとって、今は、それだけで十分な出力になります」
ロスカは、握りしめていたコインをそっとポケットにしまった。コハクと触れ合っている部分は、まるで太陽の熱を直接吸い込んだように、温かく感じられた。
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屋上の給水塔の陰。そこには、二人の会話が直接は届かない距離を保ちながら、高性能の集音デバイスと望遠レンズを構えた影があった。新聞部のリベットだ。彼女はファインダー越しに、密着する二人を、冷徹な観察眼で捉えていた。
「……ビンゴ。やっぱり、ただの『痴話げんか』じゃなかったみたいね」
彼女の記録端末には、二人の音声から断片的に拾い上げたキーワードが、不穏な赤文字で強調されていく。『人間回帰』『リ・バース』『特別な個体』。
「『剥き出しの衝動』に、『叶わない人間への夢』。……ずいぶんと詩的で、そして救いのない特ダネ。この学園の平和な日常を狂わせる火種としては、十分すぎるわ」
リベットはシャッターを切る。そこには、青空を背景に、肩を寄せ合うロスカとコハクの姿が刻まれた。
「友情、愛情、そして……秘密。さあ、次の号の見出しは何にしようかしら。……『学園に潜む黒い影』? それとも、『屋上の共鳴』?」
彼女は薄く笑うと、足音を消して階段へと消えていった。
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