黄金の香り、チェリーレッドと白銀の火花
地下礼拝堂から地上へと戻る階段を登りきると、そこにはいつものオレンジ色の夕焼けが学園を包み込んでいた。だが、ロスカたちは沈む夕日よりも、食堂から漂ってくる芳醇な『特製オイルカレー』の香りに吸い寄せられていた。
中機校の食堂は、昼食時は多くの学生でごった返しているが、夕食時はいつも学生もまばらで、静かに予備油脂を啜るだけの物静かな空間だ。しかし、月に一度のこのメニューの日だけは話が違う。鉄扉の向こう側は、高圧蒸気とぜんまいを巻き上げるキリキリという無数の旋律が渦巻く、この学園で最も活気に満ちた戦場へと変貌するのだ。
「――部長、とにかく急ぎましょう! 今、僕の演算リソースは、この非効率な行列をいかに最短時間で突破し、あの黄金のソースに到達するか……そのシミュレーション以外に割くことはできません! ああ、もしこのカレーが食べられなかったら......クランクの奴、末代まで呪ってやる」
テツは眼鏡を指先で押し上げながら、珍しく焦ったような口調でスパナをせっついている。 テツにとって、月に一度のこの『特製オイルカレー』より優先される事項は皆無である。 学園に潜む『リ・バース』の影も、ロスカの出生の秘密も、知ったことではない。
「ハッ、お前カレーのことになると人格が変わっちまうな……まあ、かくいう俺もこいつには目がないんだがな。見ろよロスカ、今日のトッピングは防錆鋼鉄チップが山盛りだぜ!」
スパナが豪快に笑い、僕の肩を叩く。その衝撃で、ポケットの中の銀のコインがカチャリと小さな音を立てた。地下で聞いたクランクの言葉――『人間そのままの、剥き出しの衝動』というフレーズが、一瞬だけノイズとなって回路を掠める。
「……素晴らしい。今日のソースは、いつもよりモリブデン配合率が大幅に高いようですよ。おお、これはある意味、学園による一種の洗脳とでも言うべきか。 実に見事な……浪費です……」
テツが恍惚の表情でカレーの配膳を見つめているのを見ていると、地下での緊迫感が少しだけ遠のいていく。僕のぜんまいは、この賑やかな日常のビートに、少しずつ調律され始めていた。
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やっとのことで長蛇の列から解放され、『特製オイルカレー』を手に、三人で空いている席を探していると、配膳台から少し離れた窓際の席に、差し込む夕光を背に、水銀のように滑らかに輝く白銀の輪郭があった。
「あ……コハクさん」
「ロスカさん。……こんばんは。みなさんも…… やはりこのカレーがお好きなんですね。」
喧騒に包まれた食堂の中、まるでそこだけ次元が違うかのようにゆったりとした雰囲気を纏いながら、コハクが一人カレーを楽しんでいた。
「うん。特に後輩のテツがカレーに目がなくて……ホントうるさいんだ」
「ロスカ先輩、何ですか、僕だけみたいな言い方をして。 このカレーを本気で愛していないんですか? うまいものを素直にうまいと言えないのは、美しい芸術を美しいと感じられないのと同じ。感性や教養が不足しているとしか言いようがないですね」
テツは芳醇な香りにいてもたってもいられない様子で、少しイライラしながら毒をぶつけてくる。
「皆さん楽しそうでいいですね。 ……せっかくですから、ご一緒しませんか」
コハクは周囲の空いている席を手で促した。
「ああ、ありがたいお誘いだが、今日は遠慮しておくよ。 おい、テツ、行くぞ! ロスカ、お前はここでコハク譲の相手をしてやれ。今日の詳しい話は、また明日、部室でな!」
スパナは、まだ何か言いたそうなテツの耳を引っ張りながら、足早に別の席を探しに行ってしまった。スパナなりにロスカを気遣ってくれたのだろう。
「……騒がしくてごめんね。」
「いえ、少しお話ししたかったので、ご一緒できてうれしいです」
向かいの席に座り、コハクを見る。窓から差し込む夕日が眩しかったが、それ以上にコハク自身を眩しく感じた。図書館ではいつも隣に座っているので、コハクの顔をあまりまじまじと見ることはないのだが、こうして正面に相対するとその完璧な造形に、どこを見て話していいのか分からなくなってしまう。
「……今日はその……図書館には、来ませんでしたね」
コハクが小首を傾げて僕を覗き込む。サファイアとエメラルドの二色が神秘的に混ざり合う瞳は、相変わらず感情の起伏を読み取らせない。けれど、その控えめな言葉には、微かな名残があるように感じられた。
その瞬間、図書館で二人きりになった時の感覚が回路を駆け巡る。手が触れた瞬間、そこから溢れ出した未知の熱。そして、自分の中からせり出してきた、あの『軸』の感触。
「ごめん。……今日はちょっとねじ巻きクラブで。……いろいろあって」
「……いえ、謝ることはないです。でも、ロスカさんのぜんまい、今日は少し、不規則な音を立てているような気がする。私には、そう聞こえます」
彼女は淡々と、しかし確かな重みを持って告げた。彼女がわずかに首をかしげた際、ジョイント部から繊細な金属音が響いた。その音色さえも、僕の回路を狂わせる磁気のようだった。
「不規則、か……。自分じゃよく分からないけど」
ごまかすように言ったその言葉とは裏腹に、彼女に見つめられることで、ロスカのメインスプリングの鼓動はピークを迎えてしまったようだ。ロスカの排熱バルブが「ピーッ!」と情けない音を奏でた。
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「ちょっと、ロスカ! あんたまた、気の抜けた音立てて、ボーっとしてるんじゃないわよ! 」
背中に、小さな、けれど小気味よい衝撃が走る。振り返ると、そこには鮮やかなチェリーレッドの装甲を纏った少女が、アンバー色の光彩を吊り上げて立っていた。幼馴染のピニオンだ。
「おい、ピニオンやめろよ。今、ロスカは取り込み中みたいだぜ」
ピニオンと一緒にいた、同じく幼馴染で親友のギアが慌てて止めに入る。
「ピ、ピニオン!? ギアも......いつからそこに……」
「今来たところよ! あんた、ここんところ全然連絡も寄こさないで、どこで何やってたわけ? 柄でもなく図書館に入り浸ってるみたいじゃない。どうでもいいけど、ボーッとしてるから、ほら、ここ! 肘のところにカレーが付いちゃってるじゃない!」
ピニオンはロスカの腕を強引に掴むと、ハンカチでゴシゴシと装甲を拭き始めた。幼い頃から、僕の身の回りの些細な綻びに誰より早く気づき、小言を言い続けてきた。
「も、もう、いいよピニオン。後で自分で拭くから……」
「ダメ! あんたに任せたら、明日の朝には全身錆だらけになってるんだから! ……それより、何よ。またその『プラチナさん』と一緒なわけ? あんた、最近その子にぜんまいでも握られてるの?」
ピニオンの視線がコハクへと向けられる。勝気なアンバーの輝きと、静謐なサファイアの光が、カレーの湯気の中で無言の火花を散らす。
「コハクさんは、友達だよ。ピニオンだって知ってるだろ」
「知ってるわよ。でも、あんたが鼻の下をだらしなく伸ばして見とれてるのが気に入らないの!」
まくしたてるピニオンの横で、ギアが「やれやれ」とため息をついた。
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騒々しいピニオンとのやり取りを、目の前の席でずっと黙って聞いていたコハクが、静かに口を開いた。
「ロスカさん。……食事が終わったら、少し、いいですか。あなたのその不規則な音……また、あの図書館の時みたいに、隣で触れて確かめたいから」
コハクの言葉に、食堂の空気がわずかに震えた。ピニオンのアンバー色の光彩が、驚きと焦燥で激しくまたたく。
「……ま、また触れて確かめるぅ!? ちょっとロスカ、あんた図書館で一体何を……っ!」
「ち、違うんだピニオン! あれはただ、一緒に本を読んでる時に偶然、その……!」
地下での出来事に大きな衝撃を受けたロスカだったが、今はそれが大したことではないように感じてしまう。二人の乙女の間で、文字通りすり減ってしまうロスカであった。
「……面白いわ。すんごく興味深いネタが取れそう」
そんな様子を、少し離れた席から『観測』している影があった。新聞部のリベットだ。彼女の視線はすでに、新しい物語の鼓動を捉えている。
「『プラチナホワイト、カレーと共に三角関係の渦中へ』……。これは、大スクープになりそうね」
学園の時計塔が、夜の訪れを告げる重厚な鐘の音を響かせる。夕日は地平線の彼方へと沈み、代わりに白銀の月が、図書館の尖塔を冷たく照らし始めていた。
中機校の、騒がしくも平穏な日常が今、始まろうとしていた。
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