共鳴の断頭台、あるいは猫の爪痕
部室内の温度計は、既に機人の適正動作範囲を5度も上回っていた。作業灯は磁気干渉によって明滅を繰り返し、壁に映る四人と一匹の影を、まるで断頭台へ向かう罪人のように不気味に揺らしている。
「……素晴らしい。実に美しい共鳴だ」
オネ(男)は、熱気を発するコハクを片腕で支えながら、うっとりとした表情で作業台の『ガラス玉』を見つめていた。彼の黒い疑似筋肉が、皮膚の下で這い回る蛇のように不気味に脈動している。
「スパナさん、手を……出さないで」
コハクが、排熱スリットから苦しげな蒸気を漏らしながら呟いた。彼女のサファイヤブルーの瞳は、もはやロスカたちを捉えていない。彼女の全システムは、目の前の石が奏でる『旧世界の旋律』を強制的に受信させられ、過負荷寸前の悲鳴を上げていた。
「ハッ、言われなくても分かってるぜ。今のあいつに下手に触れれば、こっちの指先まで溶接されちまう」
スパナは大型スパナを構えたまま、ギリ、と奥歯を噛み合わせた。テツは計算機のレバーを狂ったように叩き続けている。
「……部長、ダメです。コハクさんのメインスプリングの回転数が、通常の300%を超えました。あと120秒で、彼女の『魂』は遠心力と摩擦熱で砕け散ります……ッ!」
「コハクさんを放せ! その石が欲しいなら、僕が……!」
ロスカが叫び、一歩踏み出そうとした。だが、オネ(男)の冷たい視線がそれを遮る。
「動くな、少年。……今、この調律を乱せば、彼女の記憶回路は一瞬で灰になる。彼女は今、失われた『人間』という名の情報の海へ繋がっているのだ。我々が、何世紀もかけて探し求めていた、真実の海へな」
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絶体絶命の静寂。
機人たちの論理回路が、生存確率0.1%以下の計算結果に絶望していた、その時だった。
――「フニャ?」
場の緊迫感など、文字通り『毛ほども』気にしていない、間の抜けた鳴き声が響いた。部室の隅で丸くなっていたはずのブチョーが、いつの間にかオネ(男)の足元まで歩み寄っていた。
ブチョーは、オネ(男)の不気味な『疑似筋肉』の腕を、珍しい玩具でも見るかのようにじっと見上げている。
「……フン、野良猫か。旧人類が愛した、無能な肉の塊が」
オネ(男)が蔑むように視線を落とした、その瞬間。
ブチョーが、音もなく跳んだ。
機人の重厚な加速ではない。骨格と筋肉が一体となった、有機体特有のしなやかな跳躍。ブチョーの狙いは、オネ(男)の顔でも、抱えられたコハクでもなかった。
――ガリッ!
鋭い爪が、オネ(男)の左腕――剥き出しの『疑似筋肉』が最も激しく脈動している、神経節の束へと突き立てられた。
「……なっ!? ぐ、ああぁぁぁぁッ!?」
オネ(男)が、機人にあるまじき『生々しい悲鳴』を上げた。
高度な電気化学反応で駆動する疑似筋肉にとって、生物学的な不純物――すなわち猫の爪に付着した雑菌や、組織への物理的な『刺傷』は、計算外の深刻なノイズとなったのだ。疑似筋肉が制御を失い、痙攣を起こす。オネ(男)の拘束が緩んだ。
「今だ! ロスカ、コハクを奪い返せッ!」
スパナの怒号が飛ぶ。ロスカは弾かれたように飛び込み、倒れ込むコハクの細い体を、その鋼鉄の腕でしっかりと受け止めた。
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コハクを救い出したものの、事態は悪化していた。オネ(男)から離れても、コハクの暴走は止まらない。それどころか、石との距離が近づいたことで、彼女の体からは青白い放電が走り、接触しているロスカの腕までが赤く熱を持ち始めていた。
「コハクさん……! コハクさん、しっかりして!」
「……あ、つい……ロスカさん……世界が、混ざるの……」
コハクの排熱スリットから、真っ赤な炎のような熱風が吹き出す。テツが悲鳴に近い声を上げる。
「……限界です! コハクさんのメインスプリング、融解点まであと15秒!」
ロスカは、自分の胸の奥で、何かが「カチリ」と嵌まる音を聞いた。それは恐怖によるエラーではない。あの日、図書館で彼女と手を重ねた時に感じた、あの『熱』の意味を、彼の論理回路がようやく理解した瞬間の音だった。
(……僕のシステムが鋭敏じゃないなら。……僕の鈍感なぜんまいが、彼女の『熱』を肩代わりすればいいんだ!)
ロスカは、コハクの背中に回していた腕を外し、作業台から伸びている銅線の束――石に繋がったままのプローブを、力任せに引き抜いた。
「ロスカ!? 何をする気だ!」
スパナの静止も聞かず、ロスカはそのプローブを、自らの胸部パネルの隙間――メインスプリングが露出している最も危険な部位へと、力任せに突き刺した。
「……バイパス(迂回)……接続ッ!!」
その瞬間。ロスカの視界から、部室の景色が消えた。突き抜けるような、圧倒的な『白』。数千、数万の機人たちの記憶、そしてそれ以前の、柔らかい体を持った人間たちの『溜息』のような情報が、ロスカの細いぜんまいに濁流となって流れ込んできた。
「が、はっ……あ、ああああああッ!!」
ロスカのメインスプリングが、聞いたこともない高周波のうなり声を上げる。摩擦熱で、彼の胸部装甲がみるみるうちにオレンジ色に染まっていく。だが、その代わりに。コハクの体の震えが、急速に収まっていくのが分かった。石のエネルギーが、ロスカという『不器用で頑丈なバッファー(緩衝材)』へと流れ込み、分散されていく。
白光の渦の中で、ロスカは見た。かつてこの『ガラス玉』を持っていた、一人の人間の姿を。
(……これは、石じゃない。……これは、『記録』だ。……誰かが、誰かのために残した……ただの、想いなんだ……!)
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「……馬鹿な……機人のシステムで、あの情報の奔流を……耐えきれるはずが……」
腕を押さえ、膝をついたオネ(男)が、信じられないものを見る目でロスカを仰ぎ見ていた。ロスカの全身から、凄まじい量の蒸気が立ち昇る。彼のメインスプリングは、今や真っ赤に焼け、破断寸前で激しく震えていた。だが、ロスカは倒れなかった。彼は、自らの内に流れ込む膨大なデータを、『想い』という非論理的な力で無理やり抑え込み、そして……石へと押し戻した。
パリンッ!
部室に響き渡ったのは、乾いた音だった。作業台の上で眩く光っていた『ガラス玉』に、一条の亀裂が走る。それと同時に、部室を支配していた狂気的な熱気と磁気嵐が、まるで嘘のように霧散した。ロスカの胸からプローブが弾け飛び、彼はその場に力なく膝をついた。
「……ロスカ! ロスカ、しっかりしろ!」
スパナが駆け寄り、ロスカの過熱した体に、予備の冷却液を惜しみなく浴びせかける。ジュウウ、と激しい蒸気が上がり、部室を白く染めた。
「……フン、まさか『根性』なんていう非論理的バグで、俺の計画が妨害されるとはな」
霧の中から、オネ(男)の苦々しい声が聞こえた。彼は立ち上がり、傷ついた疑似筋肉の腕をコートの中に隠した。
「……今日のところは、この『ブチョー』とやらに免じて退いてやろう。そんな状態の石じゃあ売り物になんねぇしな。だが、少年。君のメインスプリングには、今、消えない『刻印』が刻まれた。……石は壊れたが、中身は君の中に溶け込んだんだ」
オネ(男)はそう言い残すと、部室の影に溶け込むように姿を消した。スパナが追いかけようとしたが、今の彼女には、膝の上で意識を失いかけている部員の命の方が、何倍も重かった。
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窓の外から、白々と明けた朝の光が差し込んでいた。部室の中は、焼け焦げた配線と重油の匂いで溢れ、まさに戦場の跡地のようだった。
「……ロスカ先輩。……生きてますか?」
テツが、ボロボロになった計算機を脇に置き、そっとロスカの隣に座った。
「……ああ。……なんとか、ね。ぜんまいが、少し……いや、かなり熱いけど」
ロスカは微かに笑い、隣で横になっているコハクに目をやった。
彼女は既に深いスリープモードに入っていたが、その排熱は安定し、安らかな駆動音を刻んでいる。ふと、ロスカの膝の上に、重みが加わった。
「……フニャ」
ブチョーだった。彼は、先ほどの激闘などなかったかのように、ロスカの焼け焦げた装甲の上で再び丸くなり、満足げに喉を鳴らした。
「……ブチョー。君のおかげだよ。……君がいなかったら、今頃、僕の魂は鉄屑だった」
ロスカがブチョーの頭を撫でると、その柔らかい体温が、指先を通じて伝わってきた。彼の中に溶け込んだという、石の記憶。目を閉じると、まだその断片が、意識の奥底でチカチカと瞬いている。それは恐怖ではなく、どこか懐かしい、陽だまりのような記憶の残響だった。
「……おい、ロスカ。落ち着いたら、地獄のオーバーホール(分解掃除)の始まりだ。……あいつの言った通り、お前のぜんまい、ただのバネじゃなくなってやがるぜ」
スパナが、呆れたような、それでいてどこか誇らしげな顔でロスカのメインスプリングを覗き込んだ。真っ赤な熱が引いた後のロスカのぜんまいには、以前にはなかった『琥珀色』の不思議な光沢が、微かに宿っていた。
夏休みは、まだ終わらない。
そして、ロスカという平凡な機人の物語もまた、ここから新しい周波数で、刻まれ始めようとしていた。
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