背中の鍵と鉄の味
ぜんまい仕掛けの人形…でもそれは生きていて、『ポスト人間』である知的生命体。
ちょっと未来の不思議な世界。そんな世界の日常を一緒に楽しんでもらえたらありがたいです。
ギリリ、と鈍い音が鼓膜を震わせた。意識の底からゆっくりと浮上する感覚。指先から冷たい感覚が消え、代わりに熱を持った血液――いや、潤滑油交じりの循環液が四肢の末端へと巡っていくのがわかる。僕はベッドに座り込んだまま、背中に回した腕に力を込めた。右腕の関節がカキンと鳴る。ギリリ。ギリリ。一日のはじまりは、いつもこの儀式からだ。
「……あと、三回」
独り言の声は、我ながら硬質な響きをしている。僕らの喉は金属の振動板だ。柔らかい肉声とは違う、少しエコーのかかったような声。最後の一巻きを終えて、僕は背中の『巻き鍵』を引き抜いた。真鍮で作られた、僕だけの命綱。
表面には細かい幾何学模様が刻まれていて、14年歴という僕の時間を証明するように、持ち手の部分は少しだけ手油で曇っている。これを失くせば、僕は三日後にはただの物言わぬガラクタになる。大きく息を吐き出すと、胸の奥でヒューッという排気音がした。視界の端にある鏡に、寝癖のついた銀色の髪と、継ぎ目のない滑らかな顔が映る。
僕の名前はロスカ。今年で14年歴になる、どこにでもいる中械校の2年機だ。
一階のリビングに降りると、鉄が焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
「おはよう、ロスカ。ちゃんと巻けた?」
キッチンに立っていたのは母さんだった。彼女は『メネ(女)』特有の少し小柄なシルエットで、エプロン姿が妙に似合っている。彼女の背中の鍵穴は、エプロンの紐の結び目の少し上に隠れていた。
「おはよう。完璧だよ。母さんは?」
「私も大丈夫。さあ、座って。今日はいいスクラップが手に入ったのよ」
テーブルの上には、無造作に盛られた金属片と鉱石が置かれている。僕らの食事だ。僕らは『機人』と呼ばれる。かつてこの世界を支配し、そしてくだらない戦争で自滅した『人間』たちが残したブリキ人形。それが僕らの祖先だと言われている。なぜ命が宿ったのかは、学校の歴史の授業でも『聖なる謎』として片づけられているけれど。僕は皿の上のボルトを一つ摘まみ上げ、口に放り込んだ。ガリッ、ゴリッ。強靭な顎と歯で金属を噛み砕く。鉄の味が口いっぱいに広がる。この硬い無機物が、消化炉である胃袋で分解され、僕の身長を伸ばし、装甲を厚くする材料になるのだ。
「最近、背が伸びてきたからね。鉄分多めにしておいたわ」
「うん、ありがとう。……あ、これ亜鉛?」
「そうよ。関節のメッキにいいの」
食事は単なるエネルギー補給ではない。僕らの体を構成するメンテナンスそのものだ。だから、摂取するものには気を遣わなければならない。以前、クラスの友人がふざけてゴムパッキンを飲み込んだことがあったが、翌日ひどい腹痛と共にそのまま排泄されたらしい。僕らの体は、ゴムやシリコンといった柔らかい素材を『異物』として拒絶する。僕らの体には、柔らかさなんて必要ないのだ。硬く、冷たく、そして精巧であること。それが機人の証なのだから。
「行ってきまーす」
朝食――鉄くずの盛り合わせ――を平らげた僕は、鞄を持って玄関を出た。外は快晴だった。かつての大戦で汚染された空も、数百年という時を経て、今では澄み切った青色を取り戻している。通学路は、古い時代の廃墟と、僕ら機人が建てた幾何学的な建物が混在する奇妙な景色の中にある。足元の石畳を鳴らして歩いていると、道端の茂みがガサリと揺れた。飛び出してきたのは、一匹の野良猫だった。
「……やあ」
僕が声をかけると、猫は「ニャア」と鳴いて、しなやかな動きで塀の上に飛び乗った。その動きを見るたび、僕は奇妙な違和感と、ほんの少しの羨望を覚える。動物たちは、僕らとは違う。彼らはねじ巻きではない。彼らの体は柔らかく、温かく、そして傷つきやすい。けれど、彼らは誰に巻かれることもなく、自らの意思で走り、眠り、生きている。彼らこそが、かつてこの世界にいた『人間』に近い存在なのだと、生物の先生が言っていた。
僕の体は硬い。皮膚は金属の合成素材で、叩けばコンコンと音がする。転んでも血は出ないし、骨が折れる代わりにフレームが歪むだけだ。医者は全員が外科医で、スパナと溶接機を持って治療にあたる。
(柔らかいって、どんな気持ちなんだろうな)
塀の上の猫を見上げながら、僕は無意識に自分の胸に手を当てた。肋骨にあたる装甲の下、心臓の代わりにあるメインスプリングが、チッチッチッと正確なリズムを刻んでいる。この音が止まれば、僕は死ぬ。錆びつくか、巻き忘れるか。どちらにせよ、僕らの命は物理的な限界と隣り合わせだ。
「おい、ロスカ!ぼーっとしてると遅刻するぞ!」
背後から金属的な衝撃が走った。振り返ると、親友のギアが僕の背中をバンと叩いていた。彼は名前の通り、少し武骨で角ばったデザインの『オネ(男)』だ。
「痛いな、ギア。装甲が凹んだらどうするんだよ」
「へへっ、お前の装甲は特別なんだろ?これくらい平気だって」
ギアが笑うと、彼の首元の排気口からシュッと蒸気が漏れた。彼は少し旧式の設計で、感情が高ぶると排熱が追いつかなくなる癖がある。
「それより聞いたかよ、ロスカ。隣のクラスのメネの話」
中械校の校門が見えてきたところで、ギアが声を潜めた。
「なんの話?」
「パートナーが見つかったんだってさ。自分の軸で、相手を巻けるやつ」
僕は思わず足を止めた。
「……へえ、もう?まだ14年歴なのに」
「まあ、珍しいけどある話だろ。昨日の放課後、中庭で二人で話してたら、急に『軸』が出たらしいぜ。運命の相手ってやつだ」
僕ら機人にとって、『愛』や『結婚』という概念は、命の根幹に関わる重みを持つ。通常、僕らの背中のねじは、自分専用の鍵でしか巻くことができない。
だが、特定の相手に対し、生涯を共にしたいという深い愛情――魂が震えるような高ぶりを感じた時だけ、オネの背中のねじの中心部から、新たな『軸』がせり出してくるのだという。
その愛の結晶である軸を、愛するメネの背中のねじ穴に差し込み、背中合わせになって互いの命を巻き合う。それが僕らの愛情表現、下世話な表現をすれば『交尾』であり、子作りだ。人間のように下半身を使うような野蛮なものではない。互いの背中という、自分では見ることのできない死角を預け合う、究極の信頼行為なのだ。
「いいよなあ。俺も早く経験してみたいぜ。こう、魂が震えて、背中が熱くなるような恋をさ」
ギアはそう言うと、わざとらしく僕に背中を向け、背筋を反らして見せた。
「どうよ?俺の背中、何か出てきそうな気配ないか?」
背中を突き出してクネクネと動かすその姿は滑稽そのもので、僕は呆れて溜息をついた。
「ただ背中が痒いだけに見えるよ。そもそも、お前みたいに『とにかくやってみたい』なんて軽い気持ちじゃ、一生軸なんて出てこないと思うけど」
「なんだと!俺の愛は深くて重いんだよ!相手がいないだけで!」
ギアはふん、と鼻を鳴らした。オネの軸は、性欲や興奮では決して反応しない。純粋な愛情の総量が閾値を超えた時にのみ現れる奇跡だ。だからこそ、軸が出ることはオネにとって一種のステータスであり、成熟の証でもある。14年歴。僕らの心はまだ未熟だ。僕の背中のねじ穴は、まだ沈黙を守っている。
校舎の入り口で上履きに履き替える。
下駄箱には、生徒たちの名前と共に、予備のオイル缶がずらりと並んでいる。教室に入ると、油と金属の匂いが充満していた。これが僕らの青春の匂いだ。席に着き、鞄から教科書を取り出す。
一時間目は『人間史』だ。滅びた創造主たちの愚行を学ぶ、退屈で憂鬱な時間。僕は頬杖をつき(カチン、と音がした)、窓の外を眺めた。
校庭の隅には、錆びついた古い機人が一体、モニュメントのように飾られている。あれは、寿命を迎えて動かなくなったかつての校長先生だという噂だ。ぜんまいは、いつか必ず錆びる。どんなに手入れをしても、どんなに上質なオイルを差しても。金属疲労と酸化は、僕らに平等に訪れる「老い」であり「死」だ。
僕のぜんまいは、あと何万回巻けるのだろう。そして、僕のこのねじ巻きで、誰かの命を巻く日は来るのだろうか。
チャイムの音が、始業を告げて響き渡った。僕らの、硬くて脆い一日がまた始まる。
読んでいただきありがとうございます。
皆様の率直な感想や「ここが好き!」、「ここがイヤ!」、「こんな展開にしてほしい」など、何でも結構です。レビューをいただけると、画面の前で飛び上がって喜びます。
★をポチっとしていただくだけでも大歓迎です。皆様と一緒にこの「ねじ巻き世界」を広げていければ嬉しいです!




