よるのかたちのおばけ
夜のまよい森は、昼とはまるでちがう顔をしています。
昼のあいだ、葉のあいだからこぼれていた光はすっかり消えて、代わりに、冷たい月のしずくが森の枝先ひとつひとつにおちています。
風が木々をすりぬけるたび、かすかな音が響きました。
まるで森そのものが、深い呼吸をしているようでした。
それは、だれかが耳もとでひそやかにささやいているようでもありました。
その夜、コトリはなかなか眠れませんでした。
布団のなかで目をとじても、心のなかがざわざわして、胸の奥にぽつんと小さな灯りがついたまま、消えません。
そこで、コトリはそっと起きあがり、窓をすこしだけあけて、夜のまよい森を見つめました。
森は、暗闇のなかにすっぽりと包まれていました。
でも、黒いだけではありません。木のあいだからこぼれる月の光が、雪のように静かに降りそそぎ、闇をやわらかく照らしていました。
コトリはその光の中で、ふと、木のかげに“なにか”の気配を見つけました。
そこに、まっくろな人のかたちが浮かんでいました。
音もなく、ゆらゆらと動き、どこにも足をつけず、まるで空気のうえを歩いているようでした。
けれど、ふしぎとこわくはありません。
むしろ、見つめていると、胸のざわざわがすうっと消えていき、心の中がしずかになっていくようでした。
コトリは、まっくろな人のかたちの“なにか”をもっと近くで見てみたくなりました。
そっと靴をはき、外に出て、夜の森へ向かいました。
草の露が足もとをぬらし、冷たい空気がほほをなでました。
木々の間をぬけていくと、あのくろいかたちが、少し先の月の光の下に立っていました。
「こんばんは」
コトリが声をかけると、おばけはゆっくりとふりむきました。
その顔はにんげんのようでもあり、影のようでもあり、やがて、ぐにゃぐにゃと形を変えていきました。
そして、やがて夜そのもののような姿になりました。
「あなたは、夜のおばけ?」
コトリがたずねると、おばけは声のない声で答えました。
『わたしは、夜のかたち。ひかりのうしろにしか立てない、影のなかの影』
その声は、言葉というより、風のふるえのようでした。
聞こえるというより、胸の奥で感じるような声でした。
『わたしは自分のなまえを知らない。夜がくるたびにあらわれて、夜があけると、森のどこかにとけてしまう。だれにも見られたことがなかったのに、君にはわたしが見えるんだね』
コトリは少し考えてから言いました。
「わたし、暗いのがこわかったの。だから、今まで見ないようにしていたのかもしれない」
おばけは、その言葉をきいて、ほんの少しだけ、かなしそうに目をふせました。
夜の深い闇のなかで、その姿がすこし揺れたように見えました。
「でもね、まっくろだけど、あなたはちがう。こわくない」
コトリの声は、小さくてもまっすぐで、夜のしずけさに溶けていきました。
おばけはゆっくりとうなずき、月明かりのようにやさしい声で言いました。
『夜は、こわいものではないよ。見えなくなることで、心の中の音が聞こえる時間。だからわたしは、だれかが眠るとき、そばにいるんだ。夢の入口で、目に見えない手をそっと引く。目をとじた人の心が、やさしくほどけていくように』
その夜、コトリはおばけと並んで歩きました。
夜のかたちのおばけは、ゆっくりとにんげんの姿になり、コトリの影と重なるようにして歩きました。
ふたりの足もとは、月の光がつくる銀色の道。
森の奥へすすむにつれ、星の音のようなしずけさがふたりを包みこみました。
おばけはふわりと手をのばして、コトリの髪に触れるでもなく、ただそっと空気をゆらしました。
『夜のなかには、やさしいものがたくさんいる。光を消すことでしか、見えないものたち。君も、いつかそれに気づくよ』
そう言うと、おばけは、空のほうへとゆっくりとほどけていきました。
その姿は夜の霧と混じり合い、最後には、ひとすじの風だけが残りました。
翌朝。
コトリが目をさますと、窓辺に一枚の紙が落ちていました。
それは、夜のしずけさがそのまま形になったような、墨色の紙でした。
そこには、くろいインクで、しずかにこう書かれていました。
「夜のしずけさの中でしか会えないものがある。
それは、さみしくて、あたたかい、影のやさしさ。」
コトリはその紙を胸にあてて、そっと目をとじました。
昨夜の闇の手ざわりが、まだどこかに残っている気がしました。
夜はおしまいじゃなくて、なにかが眠り、なにかが目をさます時間。
光がすべてを照らすのではなく、影がやさしく包みこむ時間。
そのなかでしか出会えないものたちは、きっと私たちの心の奥の、いちばんしずかな場所に手をのばしているのです。




