おわらないおわかれをしているおばけ
まよい森の奥の奥。
そこには、ひときわ大きな木が立っています。
その木は、「手をふる木」と呼ばれていました。
風が通るたび、長くしなやかな枝がゆらゆらと揺れて、まるで人の手が「いってらっしゃい」「またね」と言っているように見えるのです。
朝には鳥たちが枝に集まり、夕暮れには葉が金色に透けて、夜になると、その葉のすきまから星がのぞいていました。
通りかかる者は、だれもがその木に手をふり返します。
なぜだかそうしたくなるのです。
それは、木の姿があまりにやさしく、別れではなく“つづき”を感じさせるからでした。
ある日、コトリは森を歩いていて、その木の根もとにたどりつきました。
足もとには落ち葉がつもり、あたりはしんとしずまり返っています。
鳥の声も風の音も、遠くでかすかに聞こえるだけ。
その大きな木の根もとに、ひとり、うつむいたまま動かないおばけがいました。
白く、うすい光のような姿。
木の影の中で、ほとんど空気にとけるように見えました。
「こんにちは」
コトリが声をかけました。
おばけは、なにも言いません。
ただ、ぽろぽろと光のしずくをこぼしていました。
それは涙のようでしたが、水とはちがう、やわらかくあたたかい光の粒でした。
コトリは、なにも言わずにおばけのそばにすわりました。
沈黙の中で、木の上の葉がざわめき、光のしずくが土に落ちるたびに、小さな音がしました。
しばらくして、かすれた声が風にまじりました。
「わたし、ずっと……おわかれのまんなかにいるの」
おばけは、かつて人と出会い、笑い、話し、やがて別れをむかえた存在でした。
その人はもう、遠いところへ行ってしまった。
けれど、そのとき、どうしても「さよなら」が言えなかった。
胸の奥で言葉がつかえて、思いだけが溢れて、声にならなかったのです。
だから、ただ手をふることしかできなかった。
その一瞬に、おばけの時間は止まってしまいました。
季節がいくつめぐっても、その手をふったまま、心はずっとそこにとどまっていたのです。
「いまも、その人を待ってるの?」
コトリがやさしく聞きました。
「うん。ほんとうは、もういないってわかってる。でも、どこかでまたつづきがあるかもしれないって……そう思ってるまま、ここにいるの」
おばけの声は、まるで霧のようにうすく、でも、ひとつひとつの言葉がしっかりと森にしみこんでいきました。
コトリは、そっと手をのばしました。
それは「さよなら」を言うときの手ではなく、「またね」を言うときのような、あたたかな手のひらでした。
「おわかれってね、終わることだけじゃないんだよ」
コトリは、小さな声でつづけました。
「つづいていくものも、ちゃんとあるんだよ」
おばけは、ゆっくりと顔を上げました。
「たとえば?」
「その人との時間を覚えてること。その人からもらった気持ちで、だれかにやさしくできること。それって、ぜんぶその人のつづきなんだと思う」
おばけは、何も言わず、静かにうなずきました。
そして、涙のような光をこぼしつづけました。
けれどその涙は、もはや悲しみだけのものではありませんでした。
光のしずくは、土の上でやわらかくひかりながら、ゆっくりと木の根へとしみこんでいきました。
その瞬間、手をふる木の枝が、さや、さや、と音を立てて揺れました。
それはまるで、木がふたりに手をふっているようでした。
しばらくして、おばけは顔をあげ、空を見つめながら、ゆっくりと手をふりました。
それはもう、過去のだれかに向けてではなく、まだ見ぬ未来のだれかに向けてでした。
風が渡り、葉がこすれる音がしました。
枝の先がひときわ高く揺れ、その姿はまるで「またね」と笑っているようでした。
おばけの輪郭は、だんだんと淡くなっていきました。
けれど、ふしぎなことに、悲しさはありませんでした。
それは「さよなら」ではなく、ようやく言えた「またね」だったからです。
それからというもの、手をふる木の下には、ときどきやさしい風が吹くようになりました。
風は葉をゆらし、枝をそっと揺らして、森を歩くだれかの背中を見送ってくれます。
おばけの姿はもう見えません。
けれど、風がふくたびに、どこかで小さく、光のしずくがきらめくのです。
それはきっと、おばけがまだそこにいて、“つづきを生きるだれか”に向かって「いってらっしゃい」と手をふっているのでしょう。
おわかれは、終わりではありません。
それは、その人との時間を心の中でゆっくりと育てていくこと。
言えなかった「さよなら」は、いつかやさしい「またね」になって、胸の奥で、しずかに手をふりつづけるのです。
森の中で、手をふる木は今日もそっと揺れています。
風とともに、「またね」をくりかえしながら、だれかの旅立ちを、あたたかく見送るように。




