ことばがしゃべれないおばけ
ある日の夕暮れ。
コトリは、まよい森の中を流れる小さな川を渡っていました。
川の上には、古い木の橋がかかっています。
板はすこし色あせて、歩くたびに「ぎい」と低い音をたてました。
水の音はとてもしずかで、夕日が川面に細い帯のように伸び、ゆらゆらと光をほどいています。
木々のあいだから吹き抜ける風が、赤くなった葉を一枚、また一枚と流していきました。
そのとき、橋の欄干に、なにか白いものがよりかかっているのが目に入りました。
それは、ちいさな、おばけでした。
風にふわりとゆれるほど軽く、夕日の光をうすく透かして、淡い輪郭をしていました。
「こんにちは」
コトリが声をかけました。
おばけは、なにも言いません。
ただ、ゆっくりとコトリのほうを見ました。
瞳は深い夜の水みたいにしずかで、その奥に、言葉の代わりの気持ちがゆらめいているようでした。
「ずっと、ここにいるの?」
「……」
「わたしはコトリ。あなたのなまえは?」
「……」
返事はなく、風の音だけが橋をなでて通りすぎます。
コトリがすこし近づいてみても、おばけはただ、じっとコトリを見つめ返すだけでした。
「もしかして……声、出せないの?」
コトリがしずかにたずねると、おばけは、かなしそうにすこしだけうなずきました。
そして、指先で橋の板をとん、とんと叩きました。
それはまるで、言葉の代わりに小さな音を奏でているようでした。
おばけには、生まれたときから声がありませんでした。
空気をふるわせることも、音を作ることもできない。
何かを思っても、言えない。
だれかに伝えたくても、伝わらない。
だからずっと、ひとりで、黙って見ているしかなかったのです。
けれど、胸の奥には、どうしても伝えたい気持ちがありました。
それが何なのか、もう自分でもよくわからないほど、長いあいだ、しずかに息をひそめていた想い。
風が渡り、橋の下の水が小さくさざめきました。
コトリはその音を聞きながら、そっと言いました。
「ことばがなくても、気持ちを伝える方法は、きっとあるよ」
そう言って、コトリはしゃがみこみ、川辺に転がっていた小石をいくつか拾いました。
橋の上に並べて、ゆっくりと形を作っていきます。
おばけは首をかしげながら、その手の動きを見つめていました。
やがて、コトリの前に、小さなハートの形ができあがりました。
「これね、“好き”とか“ありがとう”っていう気持ち。声がなくても、伝えられるでしょ?」
おばけは、しばらくその石を見つめていました。
夕日が沈みかけ、光が赤くなり、橋の影が長く伸びます。
その影の中で、おばけはそっと石を拾い上げ、ハートのとなりに、まあるい円を描くように並べました。
それはまるで、「ありがとう」と言っているように見えました。
それからの日々。
ふたりは、声のない会話をつづけました。
小石をならべて気持ちを描いたり、足もとの砂に線を引いたり。
落ち葉を並べて、今日の気分を色で伝える日もありました。
風が強い日は、川の音が言葉のかわりになり、雨の降る日は、雨粒の音がふたりの声のように響きました。
ときには、なにもせず、ただ黙って並んで空を見上げることもありました。
それでも、そこには確かな対話がありました。
「わかろう」とする心が、しずかに橋の上に息づいていました。
ある日のこと。
コトリは、小さなノートを持ってきました。
その表紙は木の葉のような緑色で、ページの角は少し折れています。
開くと、ひらがなでひとこと、書いてありました。
『あなたのこえは、ちゃんとわたしにとどいています』
おばけは、しばらくその文字を見つめていました。
そして、そっとノートに指をのばしました。
指先がふれたところに、ほんの少しだけ、白い光がにじみました。
やがて、おばけはそのページのすみっこに、
ふるえるような筆跡で三文字を書きこみました。
『うれし』
その瞬間、コトリの胸の奥に、やわらかな風がふっと通り抜けました。
夕暮れの光が橋を包み、川面に映る二人の影が、ゆらゆらと寄り添うように揺れました。
ことばがないからこそ、ひとつひとつの動きやしぐさに、深い気持ちが宿ります。
伝わらないかもしれないと思っても、それでも伝えようとする、その小さな祈りのような姿。
その沈黙の中にこそ、本当のやさしさや、心のあたたかさが息づいているのです。
まよい森の橋は、今夜もしずかに流れる川の上で、ふたりの声のない会話を、そっと見守りつづけていました。




