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たくさんのなまえをもつおばけ

 雨のしずくがまだ葉の先に残っている、しっとりとした朝のことでした。

 コトリは、まよい森のなかにある小さな図書館に足を運んでいました。

 その図書館は、森の奥でひっそりと息をしているような場所です。

 木の扉を押すと、かすかに軋む音がして、冷たい空気と紙のにおいがまじりあった匂いが広がりました。

 光は窓からやさしく差しこみ、積もった埃の粒が、金色の粉のようにゆらゆらと漂っています。

 古い時計がゆっくり時を刻む音だけが、しずかな空間に響いていました。

 コトリは背の低い棚のあいだを歩いていました。

 どの本も、長いあいだなだれにも読まれていないようで、背表紙は色あせ、ページのすき間には細い糸のような蜘蛛の巣がかかっていました。


 そのとき。

 一番奥の棚のすみに、一冊だけ、ぽつんと置かれている本がありました。

 まるで、だれかがそこにそっと置いていったように。

 コトリはそっとその本を手に取りました。

 表紙には、手書きのような字でこう書かれていました。

『たくさんのなまえをもつおばけ』

 ページをめくると、なかにはふしぎな絵が描かれていました。

 白いかたちの小さなおばけが、ページごとに姿を少しずつ変え、そして毎回ちがうなまえで呼ばれているのです。

 あるページでは「ポンちゃん」。

 つぎのページでは「黒い風」。

 またべつのページでは「うそつき」、「やさしい人」、「おまもり」……

 なまえはどれも違うのに、描かれているのは同じおばけ。

 ページをめくるたび、どのなまえもほんの少しだけ、そのおばけの表情を変えて見せました。

「これは……たくさんの人に出会ったんだね」

 コトリがぽつりとつぶやいたとき、ページのあいだから、ふわりと白い気配が立ちのぼりました。


 それは、やわらかい線でかたどられた、ちいさなおばけ。

 すこし透けていて、息をすると消えてしまいそうなほど儚い姿でした。

「こんにちは」

 コトリが声をかけると、おばけはかすれた声で答えました。

「ぼく、いっぱいなまえをもらったんだ。でも……どれがほんとうのぼくなのか、わからなくなっちゃった」

 おばけの声は、遠い昔の風が木々のあいだをすり抜けるような音でした。

「どれも、あなただったんじゃない?」

 コトリが首をかしげて言うと、おばけは小さく首を振りました。

「ううん。だれかになりきったときもあった。うそをついたときもあった。気づかれないまま通りすぎたこともあった。どのなまえも、そのときだけのぼくの形だった気がするんだ」

 おばけは、いろんな人の心のなかで、いろんな姿を生きてきたのだと言いました。

 こわがられたときも、たよられたときも、しらんぷりされたときも、なつかしまれたときもあった。

 そのたびに違うなまえが与えられ、違う“ぼく”として見られてきたのです。

 気づけば、ほんとうの自分の形が、どこかへ溶けてしまったように思えたのだと。


 コトリはしばらく考えこんでいました。

 そして、ゆっくりと顔を上げて言いました。

「じゃあ、いまここで、これからのなまえを決めてみない?」

「え……?」

 おばけが目を丸くしました。

「だれかにもらったものじゃなくて、あなたが“これがぼく”って思えるなまえ。それが、ほんとうのあなたになるんだよ」

 おばけは目をとじました。

 長い沈黙が、図書館の空気を包みました。

 時計の音がいっそうゆっくりに聞こえます。

 その沈黙のなかで、おばけの白いからだがかすかに揺れ、やがて、ひとすじの光のような声で言いました。

「……ノゾミ」

「それが、あなたのほんとうのなまえ?」

「わからない。でも、そう言ったとき……なんだかこれでいいって思えたの。あったかくて、すこしさみしくて、でもちゃんと自分の中にある感じ」

 コトリは、やさしく微笑みました。

「ノゾミ。それ、すてきななまえだね。たくさんの顔を持っていたあなたに、ぴったりだよ」

 その瞬間、図書館のなかをそよ風が通り抜け、本棚のすきまの埃が光にきらめきました。

 どこか遠くで、ページがひとりでにめくられる音がしました。

 おばけの姿は、すこしずつ薄れていきました。

 でも、その姿が消えるまえに、ほのかな笑みを残しました。


 その日から、その絵本には新しいページがひとつ増えました。

 最後のページ。

 そこには、これまでに書かれたたくさんのなまえの下に、すこしだけ太めの文字で、静かにこう記されていました。

『ノゾミ』

 それは、どんな呼び名にも似ていない、でも、すべてのなまえをやさしく包みこむような、ひとつの言葉。


 だれかに呼ばれたなまえも、だれかの心のなかで生きた姿も、きっとどれも本当の一部。

 けれど、自分で選んだなまえは、そのすべてをやさしく受けとめてくれる。


 “ノゾミ”というなまえ。

 それは、この世界に自分で灯した、小さな光。

 きっとそれはたくさんの顔を生きてきたおばけの、まるごとの希望なのです。

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