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いまもここにいるおばけ

 ある雨上がりの朝、コトリはまよい森の奥にある古いあずまやに立ちよっていました。

 そこは、もうだれも使わなくなって久しい場所です。

 木の床はすこし沈み、歩くたびにきしむ音がします。

 屋根のすきまからは、まだ乾ききらない雨粒が、ぽつり、ぽつりと落ちていました。

 それでも、あずまやのまわりにはやわらかな朝の光が満ちていて、空気の奥にまだ雨の香りが残っていました。


 なぜかコトリは、その場所を「なつかしい」と思いました。

 来たことがある気がしないのに、心の奥だけがそっとあたたまる。

 その感覚を言いあらわすのに、ぴったりな言葉がそれしか見つからなかったのです。

 ふと見ると、机の上に古びたノートが置かれていました。

 湿気でふやけ、ページの端は波打っていて、文字の多くはにじんで読めません。

 けれど、最後のページだけは、なぜかくっきりとしていて、そこには一行だけ。

『わたしは、いまもここにいます』

 と書かれていました。

 だれが書いたのかも、いつのものなのかもわからない。

 けれど、その文字を読んだ瞬間、あずまや全体がすこしだけあたたかくなったような気がしました。

 まるで見えないだれかが、息をひそめてそっと見守っているような、そんな感覚。

 コトリはしずかに辺りを見渡しました。

 だれもいません。

 けれど、風がひとすじ吹き抜けて、古いカーテンがやわらかく揺れました。

 窓から差し込む光が、濡れた木の床をきらりと照らし、

 そこに、小さな足あとがひとつ分だけ、浮かび上がっていたのです。

 そのとき、どこからともなく、声ではない“気配”が、コトリの胸に触れました。

 それは風でも音でもなく、心に直接ひびくようなもの。

「わすれられても」

「なまえがきえても」

「もうあえなくても」

「それでも、わたしは、ここにいる」

 ひとつひとつのことばが、まるで雨粒が草の上をすべるように、しずかにコトリのなかに染みこんでいきました。


 その気配は、もう姿を見せることはありませんでした。

 けれど、あずまやの真ん中に満ちていたのは、たしかなぬくもりでした。

 だれかが見守ってくれているような、目には見えないやさしさ。

 コトリはそっとノートを閉じ、両手で包みこむようにして言いました。

「……うん。わたしも、また来るよ」

 そして、木の机の上をなでながら、小さく、けれどはっきりと続けました。

「あなたがいないって思わない。だって、いまここがこんなにあたたかいから。まだちゃんと、あなたがここにいるって、思いたいの」


 外では、雨上がりの陽ざしが木の葉に反射して、森じゅうがゆっくりと呼吸をはじめました。

 鳥たちの声が遠くで響き、風が花の香りを運びました。

 それから、コトリはときどきそのあずまやに通うようになりました。

 ノートを開いて風にあてたり、しずかに座って空を眺めたり。

 すると、ふしぎといつも、そばにだれかがいるような気がするのです。

 返事はなくても、たしかにそこにはだれかが“在る”。

 あずまやの空気はいつでもやさしく、とくに雨の日には、どこか懐かしいぬくもりがふっと満ちてきました。


 コトリは、ノートのすみに小さく文字を書き足しました。

『またね』

 そのたびに、ページの端がやわらかく震えるように感じられたのです。

 いなくなったとされていた存在も、それでも「ここにいる」と信じる心があれば、きっと、いつかふたたび、だれかのそばに寄りそえる。


 きょうも、まよい森のあずまやには、しずかに、だけどたしかに、だれかがいるのです。

 それは風の音のようで、記憶のぬくもりのようで、そしてなによりも、いまもここにいるおばけの気配なのでした。

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