ほんとうに消えてしまったおばけ
ある夜、まよい森にふしぎな風がふきました。
ざわり、と音がして、草が眠りからさめたようにゆれました。
木々のあいだから月がこぼれ、葉の影がゆっくりと森の地面をすべりました。
そのとき、どこか遠くで、かすかな声が聞こえた気がしたのです。
だれかになまえを、呼ばれたような。
コトリは目を覚ましました。
胸の奥が、なにかにやさしく引かれるように、少しだけ熱くなっていました。
コトリは上着を羽織り、眠る小鳥たちのあいだをそっと抜け出して、森の奥へと歩きはじめました。
風が、まるで道案内をするように、一定の方向へ吹いていました。
月明かりの小道を曲がり、倒木をまたぎ、ざわめきの消えた木かげをいくつも通りぬけていくうちに、やがてコトリは、光のまったくない場所にたどりつきました。
そこは、まるで森が息をひそめたような空間でした。
音がありません。
風も止まり、木の葉すら揺れない。
でも、たしかに、なにかが“いる”。
そんな気配だけが、あたりに満ちていました。
「……だれ?」
コトリがそうたずねると、闇のなかで、空気がかすかにゆらぎました。
けれど、返事はありません。
ただ、耳ではなく、心の奥に、そっと声が届いたのです。
「わたしは、もう、ほんとうに、いないの」
その声は、空気よりも淡く、
風が形をつくる一瞬のあいだにだけ生まれた音のようでした。
「あなたがここに来てくれたから、この声だけ、風にのせて残せた。これで、ほんとうに、おしまいになるの」
「……待って」
コトリは小さくつぶやきました。
「あなたのこと、なにか、のこしたいの。声でも、言葉でも」
「ありがとう」
その声は、森の奥でほほえむように響きました。
「でも、わたしには、もう、かたちも、なまえも、なにもないの。すべて忘れてしまったの。でも、たったひとつだけ、どうしても言いたかったことがあるの」
そのとき、森のすべてが息を止めました。
時間が、ほんの少しだけ静止したように感じられました。
そして、夜のいちばん深い場所で、たったひとつの言葉が、木の葉が落ちるように、コトリの胸にそっと届きました。
「だいじょうぶ」
風も星もない夜に、それだけが確かに響きました。
だれに向けたのかもわからない言葉。
もしかしたら、自分自身に。
もしかしたら、どこかにいる、たったひとりのだれかに。
けれど、それは確かに“残る”言葉でした。
もういない存在からの、最後の贈りもののように。
コトリは、胸に手を当ててつぶやきました。
「……わたし、覚えておくよ」
声は夜の奥へ溶けていきましたが、その想いは、そこにとどまりました。
「あなたの声は、たしかにここにあって、『だいじょうぶ』って言ってくれた。だからそれはもう、なくならない」
そのとき、止まっていた風が、そっと森をわたりました。
木の葉が一枚、ゆるやかにふるえ、どこからともなく、あたたかさのような気配が広がって、コトリの肩に、やさしくふれました。
……それが、たしかに“さよなら”のかわりでした。
それから、まよい森では、声すらないおばけの話が、ひっそりと語りつがれるようになりました。
かたちも、なまえも、声も、なにもなかった。
けれど、最後のひとつ、「だいじょうぶ」ということばだけをのこした、やさしいだれかの話です。
ほんとうにいなくなってしまっても、想いは、風にのって、だれかの胸に届くことがある。
そして、それが夜のどこかで、ふとだれかかをやさしく包むことがあるなら、その存在は、たしかに『ここにいた』のです。




