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だれの記憶にものこっていないおばけ

 まよい森のさらに奥。

 朝と夜のあいだのような、時間の輪郭があやふやな場所に、「記憶の霧」とよばれるところがあります。

 そこでは、歩いた道をふりかえっても、すぐに足跡が消えてしまいます。

 歌ったはずの歌を口ずさもうとしても、旋律が指のあいだからこぼれていく。

 名前を思い出そうとすれば、舌のうえで音が霧のようにほどけてしまう。

 森の生きものたちは、そこをできるだけ避けて通ります。

 なにかを置き忘れて帰ってくるようで、胸のなかにぽっかりと空洞ができるから。


 けれど、その日、コトリはふとした気まぐれで、その霧のなかを歩いていました。

 霧は白く光をふくみ、足もとまでやさしく包みこみます。

 木の枝の影がすぐ目の前にあるのに、輪郭がにじんでゆく。

 遠くから、ぽつりと声がしました。

「……こんにちは」

 ほんの一言。

 でも、それは風の音でも、木のきしみでもないと、コトリにはわかりました。

 そっと立ち止まり、同じように返します。

「こんにちは」

 すると、霧の奥で小さな影が揺れました。

 ぼんやりとした人のかたち。輪郭はおぼつかず、風がふけば消えてしまいそう。

「えっと……はじめまして、でいいのかな」

 影のようなおばけが、ためらいがちに言いました。

 声は遠い夢のなかで聞くように、ふわりと響いて、すぐに薄れていきます。

「はじめまして」

 コトリが微笑んで言うと、おばけは、ほっとしたように体をゆらしました。

「わたし……だれにも覚えられていないの」

 おばけは、胸のあたりを両手で抱えるようにして続けました。

「なまえも、顔も、声も……みんなの記憶から、わたしだけ、ぬけおちちゃった。たぶん、わたしにも、だれかがいたんだと思うの。いっしょに笑ったり、泣いたりした記憶のかけらはあるの。でも、そのだれかが、もうわたしを思い出してくれないの」

 おばけは、霧のなかで少し震えました。

「どこへ行っても、『知らない』って言われてしまう。何度出会っていたはずの人にも、『はじめまして』って言われて。気づいたら、なまえがなくなって、声も思い出も、すこしずつ、薄れていったの」

 コトリはしずかにその言葉を聞いていました。

 霧がやわらかくおばけのまわりをめぐり、まるで涙のように光っています。

「でもね」

 おばけは、かすかに笑いました。

「それでも、だれかともう一度出会えるかもしれないって、思ってここにいるの。いつか、わたしを“知ってる”って言ってくれる人が、どこかにいるかもしれないから」

 コトリはポケットを探り、いつも持ち歩いている小さなノートを取り出しました。

 紙の端が少しよれていて、花びらや葉っぱの押しあとが残っているノート。

 彼女はそのいちばんうしろのページをひらいて、えんぴつでゆっくりと書きはじめました。

『きょう、きりのなかで、だれのきおくにもいないおばけに出会った』

 文字を書き終えると、コトリはノートをおばけの前に広げて見せました。

「わたしは、あなたのこと、ちゃんと覚えるよ。いま、ここに書いたから。これを読むたびに、あなたを思い出せる」

 おばけは、はっとしたようにコトリを見つめました。

 その輪郭がすこしだけ濃くなって、指先に淡い光がともります。

「……ほんとうに、わたしのこと、覚えててくれる?」

「うん」

 コトリは微笑んで言いました。

「だって、『はじめまして』って、もういちど出会うための魔法のことばなんだよ。もし、また霧のなかであなたを見つけたら、きっとまた言うね。はじめまして、って」

 おばけの目に、涙のような霧がにじみました。

 それは音もなくこぼれ落ち、足もとの草にしずかに吸いこまれていきます。

 霧の粒が、ほんの一瞬だけ、星のように光りました。


 その日、「記憶の霧」の奥に、たしかな記憶がひとつ、刻まれました。

 なまえのない存在が、だれかのノートに文字として残ったのです。

 おばけは、それから毎晩、そのページのことを思い出します。

 ノートに書かれた『わたし』という文字を、やさしく、うれしく、なぞるように。

 風がふくと、霧のなかにかすかに声がします。

「……おぼえてくれて、ありがとう」


 忘れられることは、たしかにさみしい。

 けれど、いま覚えると決めただれかがいれば、その存在はもう、ここにある。

 だれの記憶にも残らなかったものが、だれかの心のなかに生まれる瞬間。


 それは、消えることのない“はじまり”なのです。

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