ふたつにわれたおばけ
ある霧の朝、まよい森は、息をひそめたようにしずまりかえっていました。
白い霧が木々の間をゆるやかに流れ、空と地の境い目がぼんやりとけあっています。
遠くで鳥が一声だけ鳴いて、それもすぐ霧の中に吸いこまれました。
音がすべてやわらかく包まれて、世界がまだ目を覚ましきれないような時間。
コトリは、そんな朝の中で、森のすみにある池のほとりへ足を運んでいました。
水面はひとすじの風もなく、ぴたりとしずまりかえっています。
霧が水に溶けこむように漂い、木々の影がゆらゆらと鏡の底で揺れていました。
そのとき、ふと、コトリは、そこにふたりぶんの気配を感じました。
でも、目をこらして見えるのは、ひとりぶんのおばけだけ。
そのおばけは、ふしぎな姿をしていました。
体の右半分は夜のように黒く、もう半分は朝の霧のように白い。
色の境い目はまるで火傷のように揺らいでいて、互いに触れようとしては離れ、ひとつになりきれずに震えていました。
まるで、別の心が無理にひとつの体を分けあっているようでした。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけはびくりと体をゆらし、すぐに返しました。
「こんにちは」「やめて」
ふたつの声が重なりました。
一方は明るく軽く、もう一方は暗く沈んだ声。
まるで風と影が同じ口を使って話しているみたいでした。
「えっ、ふたつの声?」
コトリが目をまるくすると、おばけは、ふたつの声で交互に話しはじめました。
「ぼくは歩きたい」
「わたしは止まりたい」
「だれかに会いたい」
「もうだれにも会いたくない」
ふたつの声は、おたがいを否定するように、でもどちらも必死に生きようとしていました。
おばけの体は、黒と白が溶け合いながら、ゆらゆらと揺れています。
水面に映るその姿も、ふたつの波紋のように重なっては離れ、ひとつになることを拒んでいるようでした。
コトリは、霧の中で静かに息をのみました。
それから、ゆっくりと言葉をえらびながら尋ねました。
「ねえ……あなたは、ほんとうは、ひとりなの?」
おばけは、長い間なにも言いませんでした。
風が一度だけ吹きぬけて、池の面に小さなさざなみがひろがりました。
ようやく、おばけは低く、ふたつの声を重ねて答えました。
「ほんとうはひとつだったの。でもある日、『前に進みたい気持ち』と、『傷ついて動けない気持ち』が、どうしてもいっしょにいられなくなって……だから、ふたつに割れてしまったの」
黒いほうの体が、少し前ににじり出て言いました。
「進まなきゃ、また消えちゃう気がするんだ」
白いほうが、その背を見つめながら言いました。
「でも、動いたら、痛みを置きざりにしてしまう」
コトリは、少しの間その姿を見つめ、それからしずかに口をひらきました。
「ふたつに分かれるって、悪いことじゃないよ。だって、どちらもあなたの気持ちだもん」
「でも……どっちかを選ばなきゃ、前に進めないと思ってた」
「選ばなくてもいいよ」
コトリは、池のほとりの石に腰をおろしました。
風に吹かれた髪が頬をかすめ、霧のしずくが小さく光ります。
「前に進みたいときは、こっちの自分と手をつなげばいい。立ち止まりたいときは、もうひとりの自分と寄りそえばいい。どちらも、ちゃんと、あなたなんだから」
おばけは、ゆっくりとその場で息をしました。
黒い半分が白に寄りそい、白い半分が黒に重なりあい、ふたつの声がすこしずつ溶けていきます。
池の水面に映る輪郭も、ゆらぎながら、やがて曖昧な桃色の光を帯びていきました。
夜と朝がまざりあうような色。
白でも黒でもない、どちらにもなろうとしないそのままの色。
「……ばらばらでも、いっしょにいても、『わたし』でいていいんだね」
「うん。だいじょうぶ」
コトリはやさしく笑いました。
「あなたが、自分のどちらにもやさしくできたら、それでまるごとのあなたなんだよ」
そのとき、霧の向こうからひとすじの光が射しこみました。
池の面が金色にきらめき、木の葉の影が水の底でやさしくゆれます。
おばけの姿はその光の中に溶けこみ、まるでしずかに呼吸をするように、そこに漂っていました。
笑っているようで、泣いているようで、でも何よりも穏やかで。
ようやく、自分自身として息をしている、ひとりの姿。
それからというもの、まよい森の池には、うすももいろの光がいつも漂うようになりました。
風がふくと、かすかに二重の声がひびくのです。
「いまは、だいじょうぶだよ」
まっすぐには決められない気持ちも、矛盾する思いも、どちらも『あなた』だからこそ、そのままを抱きしめることができる。
そして、ひとつの体の中にふたつの声があってもいい。
それはきっと、世界にやさしく生きている証なのです。




