帰る場所のないおばけ
まよい森の奥の奥、だれも知らないほど深いところに、小さな十字路がありました。
苔に覆われた道標は、もうどちらを指しているのか読めないほどにかすれていて、地面には秋の葉っぱが折り重なり、足を踏みしめるたびにしずかな音をたてました。
木々は高く枝をのばし、昼間でも光がほとんど届かず、森全体がやわらかな緑色の薄闇に包まれています。
風が通るたびに、葉のこすれあう音が小さくひそひそとささやき、遠くから鳥の鳴き声がかすかに響いてきました。
その十字路には、いつもひとりのおばけが立っていました。
夜でも昼でも、晴れでも雨でも、どちらに行こうかと迷っているように、かすかな光をまとって立ちすくんでいるのです。
おばけの体は、薄い霧を折りたたんだようで、輪郭がはっきりせず、見る角度によってはすぐ消えてしまいそうでした。
その姿を見つけたコトリは、道の端で足を止め、そっと声をかけました。
「こんにちは」
おばけは、驚いたように小さく身をふるわせ、やさしい風のような声で返しました。
「こんにちは……」
「きょろきょろしてたけど、まいごになっちゃったの?」
コトリが首をかしげると、おばけは首をふりました。
その動きは霧がゆらぐようで、光がしずかにゆれていました。
「ううん。まいごじゃないの。わたし、どこにも帰る場所がないの」
その声は葉の間をすりぬける風のようにしずかで、けれど胸の奥まで届くさみしさをはらんでいました。
おばけは、ぽつりぽつりと語りはじめました。
「昔は、ちいさな町にいたの。でも、その町はなくなっちゃった。つぎは、だれかの夢の中にいた。でも、その人は夢を見なくなっちゃった。気づいたら、どこに行っても、わたしの居場所はなくなってたの」
その言葉を吐くたびに、おばけの霧がすこしずつ淡くなっていくように見えました。
十字路にたちこめる風が、おばけの声の残響をさらって、森の奥へ消していきます。
「だから、ずっと道に立ってるの?」
コトリがたずねると、おばけはうつむくように霧をしずかにゆらしました。
「うん。どこへ行ってもそこが居場所じゃない気がして……でも、止まっていても、ここも違うって思ってしまうの」
おばけの声には、根づくことのできない寂しさが、深い水の底のように沈んでいました。
森の空気までが、その気配に染まっているように思えました。
コトリはしばらく考えて、すこし微笑みながら言いました。
「じゃあ、わたしといっしょに歩いてみない?」
おばけは霧の体をふわりとゆらし、目のない顔でコトリを見ました。
「いいけど……」
「どこかに帰るんじゃなくて、いまをいっしょに過ごすっていう居場所でも、いいんじゃないかな」
その言葉に、おばけはおどろいたように、体を小さくふるわせました。
「……わたし、そんなふうに『今』にいてもいいの?」
「もちろん。わたしも、ずっとここにいたいって気持ち、まだよくわからないから、いっしょにゆっくり探してみようよ」
森の奥で、ひと筋の光がふたりの足元にさしこみました。
その光は、苔の上にやわらかな模様を描き、おばけの体を淡く染めました。
それから、コトリとおばけは森をいっしょに歩きはじめました。
とくに目的地がなくても、道のそばに咲いている小さな白い花に足を止めたり、風のかたちを手でなぞったりしながら、ただ同じ時間をすごしました。
足音はかすかで、二人分の影が木漏れ日の中に交じりあい、森の奥へ奥へと続いていきます。
やがて、おばけはふと、立ち止まりました。
「ねえ、コトリ。いま歩いてるこの道、なんだかちょっとだけ帰ってる気分になるの」
その声は、霧の奥にかすかなあたたかさを宿していました。
コトリはにっこり笑いました。
「きっと、帰る場所って、場所だけじゃなくて、帰りたいと思えるだれかでもあるんだよ」
おばけは、その言葉を胸の中で、何度も繰り返すように、しずかに目をとじました。
その瞬間、おばけの体の霧がほんの少しだけ濃くなり、そこに柔らかな輪郭が宿ったように見えました。
その日から、森の十字路におばけの気配が立ちつくすことはなくなりました。
かわりに、まよい森の小道のあちこちに、ふたつ分の足あとが、そっと続いています。
その足あとを見つけた風が、ひそやかに笑いながら森を吹きぬけていきました。
帰る場所がなくなった心にも、だれかと分けあえる時間があれば、ここがいいなと思える居場所が生まれる。
それは、今という時のなかに灯る、いちばんちいさな『家』なのです。




