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たったひとつのうそをついたおばけ

 まよい森の奥、ひとけのない小径をコトリが歩いていると、湿った土のにおいと、つめたい井戸水の気配がふっと鼻をかすめました。

 その古井戸は、森のどこよりもひっそりと沈黙している場所で、昼でも夜の底のように暗く、石組みのあいだからはいつも水のしずくがしみ出していました。


 その日、コトリが井戸のそばを通ったとき。

「くすっ」

 まるで折れた笛が一度だけ鳴ったような、ひそやかな笑い声が、石の間からこぼれました。

「……だあれ?」

 コトリがそっと声をかけると、井戸のかげから、ちいさなおばけがあらわれました。

 それは、まるで白い紙を折ってつくったような姿でした。

 体の表面には折り目のような線がいくつも走り、ところどころの角がすこし破れかけています。

 光があたると、紙の繊維の奥にある薄い水色がかすかに透けて見えました。

 かさり、と葉の落ちる音のような小さな動きで、おばけはコトリを見上げました。

「こんにちは」

 コトリが言うと、おばけはにっこりして、こう答えました。

「ぼくは、王子さまだよ」

 その言葉は、ささやきなのに、不思議と響きを持って森に広がりました。

「……そうなんだ」

「うん。むかしはお城にすんでいて、たくさんの人にしたわれて、いまはこの森をひとりで見守っているの。かっこいいでしょ?」

 コトリはうんとうなずきました。

 けれど、その王子の言葉の奥には、どこか紙の隙間にしみこんだ水のような、しずかな沈黙がありました。


 その日から、コトリはときどき古井戸まで足を運び、おばけに会いに行くようになりました。

 おばけはいつも楽しげに、「王子さまだったころ」の物語を語ってくれました。

 たくさんの塔、黄金のかがやく広間、祭りの日にひびく音楽……

 おばけの声の中に、その光景がぼんやりと浮かんでは、消えていきました。

 けれどある日、コトリが井戸のそばに座っていると、おばけの姿がぽろぽろと破けはじめたのです。

 まるで古い手紙が湿気をすってやぶれるように、紙の端からかすかな破片が舞い落ち、井戸水に溶けていきました。

「だいじょうぶ?」

 コトリがたずねると、おばけはすこしだけ笑い、ひそやかにささやきました。

「ほんとうはね……ぼく、王子さまじゃないんだ」

 その声は、風に溶ける紙の音みたいに、かすかで、どこか震えていました。

 コトリはすぐに答えませんでした。

 ただ、やわらかな土の上にすわって、おばけが話しはじめるのを待ちました。

 苔のにおいと、井戸からの冷たい風が、ふたりの間をそっと通りぬけていきます。

 やがて、おばけはぽつりぽつりと語りはじめました。

「ぼくはただの子どもだった。だれにもなまえを呼ばれなかったし、なににもなれないまま、消えちゃった。でも……だれかにすごいねって言われたくて、たったひとつだけ、うそをついたんだ。『ぼくは王子さまだった』って」

 その声には、少しの恥ずかしさ、少しの後悔、そしてなによりも、ほんとうに王子さまになりたかった気持ちがにじんでいました。

 折り目だらけの体が、しゅんと風にたわむれるように小さくなります。

 コトリは、ゆっくりと答えました。

「じゃあ、そのうそは、ほんとうにたいせつな夢だったんだね」

「え?」

「だれかになりたいって思うこと、それはうそなんかじゃなくて、こころのさけびだったと思うよ」

 おばけは、ふるふると体をふるわせました。

 破れていたすがたが、かすかに整っていくようでした。

 折り目の奥から、小さな光のすじがにじみ、紙の繊維をやわらかく染めていきます。

「……それでも、ぼくは、うそをついたんだよ?」

「うん。でも、わたしは王子さまになりたかった気持ちを信じる」

 コトリの声は、井戸の奥まで届き、やさしく反響しました。

 おばけは、まっすぐにコトリを見つめました。

 目のない顔に、確かに“見つめる”気配がありました。

「あなたがほんとうは王子さまじゃなくても、あなたがそうなりたかったこと、それがもう、あなたの物語になってるよ」

 おばけは、小さくうなずくように、紙の端を揺らしました。

 井戸の水面がほのかに光り、その背中に淡い誇りの色がにじんでいきました。


 それから、古井戸のそばには、白くてやわらかなおばけが、今日もぽつりとすわっています。

 もう「ぼくは王子さまだよ」とは言わなくなったけれど、その背中には、たしかな誇りがほのかに宿っていて、それを見たコトリは、いつも心のなかでつぶやくのです。


「あなたは、ちゃんとすてきなひとだよ」


 たったひとつのうその奥には、たったひとつのほんとうの願いが、ひっそりと隠れているのかもしれません。

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― 新着の感想 ―
優しいお話ですね。 嘘をつく後ろにある気持ちを私も大切にしたいので、このお話、大好きです! コトリもおばけも素敵な子! 読ませていただき、ありがとうございました!
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