ねむらないおばけ
夜がふけたまよい森には、ときどき、ひとつだけの足音がひびきます。
それは、獣の足あとでも、風が葉をふるわせる音でもありません。
しんとした闇の奥で、絶えず続いている、かすかな音。
まるで砂時計の砂がこぼれ落ちるように、しずかで細く、けれど途切れない足音です。
その夜、コトリは月の光がこぼれる小道を、ゆっくりと歩いていました。
葉のうらにたまった露が月明かりをうけて白くひかり、あたりは夢の底のような青い薄明かりに満ちています。
とおくでフクロウの鳴き声が一度だけして、またすぐにやみました。
しん、と。耳にひっかかるような、その足音。
「……だれ?」
思わず声にすると、その声は霧の中へほどけ、すぐに吸いこまれました。
すると木のかげから、ふわりと、やせた影があらわれたのです。
それは、とても古びたおばけでした。
色あせた布のような体は、ところどころ糸がほどけたみたいに透け、すそがほつれ、夜風にすこしだけ揺れています。
目は閉じているようで、けれど眠っている気配はなく、ずっと遠くを見つめているような静けさをまとっていました。
「ごめんね」
おばけは、ひそやかに、それでもやさしくつぶやきました。
「わたし、眠れないの」
コトリは足を止め、首をかしげました。
「どうして?」
おばけはしばらく黙って空を仰ぎ、月明かりに薄い輪郭をさらしながら、遠い記憶をなぞるように言いました。
「だれかをまっていたの。でも、その人はもうとっくにいなくて……まっているうちに夜がのびて、夜がまちになって、気づいたら、わたしはずっとねむれなくなっていた」
「ずっと、ねむらずに歩いてるの?」
「うん。ねむるのがこわくなったの。目をとじたら、なにも感じられなくなってしまいそうで、あのひとのことも、すべてのことも、ぜんぶ失ってしまいそうで」
おばけの声は、どこか枯れた笛の音のように細く、それでも胸の奥にあたたかくひびきました。
コトリは、すこし考えて、やわらかい草の上にすとんと腰を下ろしました。
足もとの土はひんやりして、夜露のにおいが鼻に届きます。
ふわふわの苔がクッションのように指先に触れ、心までやわらかくなる感じがしました。
「じゃあ、ここで、すこしだけ目をとじる練習しようよ」
「えっ……」
おばけは一歩、たじろぐように空気の中を漂いました。
「こわくても、わたしがいるあいだだけだから。だいじょうぶだよ」
その言葉に、おばけはくるくるとその場を回りながら迷っているようでしたが、やがて決心したようにふわりと降りてきて、コトリのとなりに腰をおろしました。
そして、ゆっくり、そっと目を閉じてみました。
しばらくのあいだ、風が森の奥から通りぬける音だけがしました。
葉のこすれ合う音が子守唄のように遠くでひそやかに響き、二人は静かに呼吸を重ねます。
その呼吸が小さな波のように夜気の中にひろがっていきました。
「……どう?」
コトリがたずねると、おばけは目を閉じたまま、小さな声でつぶやきました。
「なにも感じないんじゃなくて……胸の奥に、なにかがあたたかくのこってる」
「それ、きっとやすむってことだよ」
「やすむ……か」
「やすめたら、元気になるよ。だから、だいじょうぶ」
コトリのことばを聞いたおばけの閉じた目から、やさしい光の粒がぽろぽろとこぼれ落ちました。
その光は夜露に混じって、草の先で小さな星のようにまたたきました。
その晩、おばけは森の片すみに身を横たえました。
何百年も止まらなかった足音をようやくとめ、夜の中でしずかに横たわる。
そして、ほんとうにひさしぶりに、まぶたをすこしだけ、ちゃんと閉じたのです。
次の朝、コトリがその場所を通ると、そこにはふかふかの草のくぼみだけが残っていました。
でも、そのまんなかに、小さな羽のような眠りが、そっと落ちていたのです。
それは朝の光に溶けるように、やさしく、淡くきらめいていました。
眠れない心にも、やすむ場所がある。
それは、だれかの声と、そばにあるしずけさが、そっと寄り添うあたたかい場所。
森のどこかで、今日もだれかが、目を閉じる練習をしているかもしれません。




