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とけてしまったおばけ

 それは、まよい森の中でも、とくべつしずかな朝のことでした。

 夜の名残をまとった霧がまだあたりにのこり、木々のすき間から、やわらかな光がこぼれていました。

 森は息をひそめ、草の露が光をのみこみながら震えていました。


 コトリは小道を歩きながら、鳥の声も風の音も聞こえないことに気づき、ふと足をとめました。

 そのときでした。

 風がふいていないのに、葉がわずかにゆれました。

 声はしないのに、だれかに名前を呼ばれたような気がしました。

 けれど、まわりを見わたしても、だれもいません。

 どこにも、なにも見えませんでした。

 それでもコトリは、胸の奥にひっかかるような気配に導かれて、しずかな木立の奥へと歩いていきました。

 しばらく進むと、森の地面の上に、ほんのりと冷たい空気がたまっている場所を見つけました。

 朝の光がその部分だけゆらぎ、まるで“そこだけが時間から取り残されている”ように見えました。

 コトリが手を近づけると、空気がしっとりと濡れていて、まるで涙の跡のような湿りけがありました。

「……だれか、いるの?」

 そうたずねた瞬間、

 ほとんど聞こえないような声が、コトリの胸の奥にすべりこむように届きました。

「ごめんなさい……わたし、とけてしまったの」

「とけた……?」

「うん。すこしずつ、だれにも話しかけられなくなって、すこしずつ、足音もきこえなくなって……それで、ある日、気づいたら、わたし、自分のかたちをわすれてたの」

 その声は、風のように弱く、でも、どこかに深い寂しさがまじっていました。

 それは、もともとはちゃんと姿のあったおばけ。

 けれど、だれにも見えず、だれにも触れられないまま、ゆっくりと気配だけになってしまった存在でした。

「でもね、あなたが来てくれたことで……わたし、ここにいるって思えたの。姿はなくても、あなたが“いる”と思ってくれたから」

 声は霧にまぎれるように、森の光といっしょにかすかにゆれました。

 コトリはしゃがみこみ、両手でそっと空気をすくうようにして言いました。

「じゃあ、いまから、もういちど“すがた”をつくろうよ。わたしが見てる。聞いてる。感じてる。あなたがここにいるって、ちゃんとわかってるから」

 すると、冷たい空気がふわりとうごき、霧がゆっくりと集まりはじめました。

 木々のあいだに漂っていた白い粒子が、まるで呼吸するようにひとつのかたちをつくっていきます。

「……こわくない?」

「うん。ぜんぜんこわくないよ。姿があるとか、ないとかは関係ない。あなたがここに“いたい”って思ってることが、たいせつなんだもん」

 おばけは、ゆっくりと霧のかたちをととのえました。

 それは雲のようで、影のようで、目も口もないのに、たしかに“笑っている”のが伝わってきました。

「ありがとう。でも、わたし、またとけちゃうかも」

「じゃあ、わたしが覚えるよ。あなたのなまえがなくなっても、姿がとけても、わたしが覚えているかぎり、あなたはここにいるってことになるから」

 その言葉を聞いた瞬間、霧の中に、小さな光がぽうっとともりました。

 それはおばけの“心の灯”のようで、朝の光の粒とまざりながら、ゆっくりと森を照らしました。


 その日から、まよい森の中には、ごくたまにだけ、やわらかな霧の気配が通りすぎるようになりました。

 姿は見えなくても、空気の中にあたたかさがのこっていて、木の実がころんと落ちる音のあとには、

 いつも小さな笑い声のような風がふくのです。

 コトリがその道を通るたび、霧はふわりと揺れ、朝日の中でほほえむように形を変えました。

 「こんにちは」

 コトリが声をかけると、霧はひときわ明るくゆれて、光の粒をはじけさせました。

 まるで「おはよう」と返事をするように。

 やがて季節がひとつめぐり、森に雪が降るころ、霧の気配は少しずつ薄くなっていきました。

 けれど、コトリはさみしくありませんでした。

 雪の朝の空気の中にも、ほんのすこし、あの霧の冷たさとやさしさを感じたからです。

 だれにも見えなくなっても、忘れられたと思っても、ひとりでも、あなたを信じる人がいれば、確かに、あなたは“いる”のです。


 そのことを知っているから、コトリは今日も森の奥を歩きながら、そっと空気に話しかけるのです。

「ねえ、とけてしまったおばけさん。あなたのこと、わたし、まだ覚えてるよ」

 森の奥で、雪が光をうけてきらめきました。

 それは、霧がひととき帰ってきて、笑ったようにも見えたのでした。

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