おとをたべるおばけ
まよい森の奥には、とても静かな場所があります。
鳥も鳴かず、風もとまって、木の葉も、草も、まるで「音をたてることをわすれた」ように、じっとしているのです。
その静けさは、ただのしずけさではありません。
音がひとつ、またひとつと落ちて、地面の奥に沈んでいくようなそんなしずけさでした。
コトリは、ある日その中でふと、ほんのかすかな「しゃり、しゃり」という音を聞きました。
まるで、誰かが小さなスプーンで砂糖をすくうような音。
そっと耳をすませると、それは確かに、やさしく、くり返し響いていました。
音をたどっていくと、そこには、ちいさなおばけがいました。
透ける体。光を通して見えるうしろの木々。
耳のようなものがふたつ、そして、手には透明なボウルと
音をすくうための、小さなスプーン。
おばけは、まわりに散らばる“気づかれなかった音”をすくっては、そっと食べていたのです。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけはびくりとして、スプーンをとめました。
「ご、ごめんなさい。たべちゃいけなかった……?」
「ううん、そんなことないよ。なにを食べてたの?」
「落ちた葉っぱがこすれる音とか、だれにも聞こえなかったくしゃみの音とか……そういう、ひっそりした音をたべてるの」
「それって、おいしいの?」
「うん。にぎやかな音は食べられないの。でもね、だれにも気づかれなかった音は、とてもやさしくて、やわらかくて、あたたかいの」
おばけはそう言って、口のない顔で、まるで笑ったようにふわりとゆれました。
たしかに、まよい森のしずけさは、おばけが少しずつ音を食べていたからなのかもしれません。
音を失った空気が、やわらかく、金色に光っていました。
けれど、おばけはすぐにうつむいて言いました。
「でも、ちょっとこまってるの」
「どうして?」
「このごろ、あんまり音が落ちてこなくなって……みんな、大きな声やにぎやかな音ばかりで、ちいさな音が、うまく残らないの」
おばけは、両手でボウルを抱えて、そこをのぞきこみました。
中は、ほとんど空っぽで、かすかに光る音のかけらが、ひとつふたつ、沈んでいました。
それを見たコトリは、ポケットをごそごそと探りました。
そこから出てきたのは、ちいさな鈴、ころんとした木の実、そして、くしゃっとまるめた紙の玉。
「これ、たべる?」
おばけは、目をまるくして、見えないけれど、確かに“目をまるくして”そっと紙の音をすくって、ぱくっとたべました。
「……ん。あまくて、しゃりしゃりしてる」
「よかった」
「この音は、きっと、だれかがためらったときの音だね」
「そうなの?」
「ん、待って、ほんとは言いたいけど、言えなかったときの音かも」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑いました。
それからしばらくのあいだ、コトリとおばけは、ちいさな音のごはんをいっしょに集めました。
木の枝のすれる音。
風が草の先をなでる音。
はるか上空で、羽ばたきがひとつきこえた音。
それらをすくっては、ひとつずつ味わいました。
そのたびに、森の奥の空気がすこしずつ明るくなり、音たちはまるで“ありがとう”と言うように、やさしくふたりのまわりを舞いました。
その日、森のいちばん奥、誰も知らないしずけさの底に、ほんのりとした「音のにおい」がただよいました。
しっとりしていて、あたたかく、少し涙の味のするような、甘いにおいでした。
コトリは小さく息を吸い込み、そっと言いました。
「ねえ、おばけさん。きっと、この世界の音ぜんぶを、あなたがやさしく食べてくれてるんだね」
おばけは、透明な手でボウルを抱きながら、うれしそうに身をゆらしました。
「ううん。わたしは、ただ、きづかれなかった音をひとりにしないようにしてるだけ。でもね、あなたが笑った今の音。それがいちばん、おいしいの」
森の奥に、やわらかな笑い声がひとつ、ひびきました。
きづかれない音にも、声にならない気持ちにも、耳をすませてくれる存在がいる。
それだけで、世界はすこしだけ、やさしくなるのです。
そして、今日もどこかで、しゃり、しゃり、と音をたべるおばけのスプーンが、しずかにひびいています。




