なまえをわすれたおばけ
そのおばけには、なまえがありませんでした。
というより、なまえを“わすれてしまった”のでした。
姿はうすぼんやりとしていて、輪郭も、色も、声も、霧のようにゆれて、はっきりとはわかりません。
風がふくたびに、すこしずつかたちがほどけていき、それでも、「ここにいる」ということだけが、かろうじて伝わる。
そんな、あわい存在でした。
コトリがそのおばけに出会ったのは、まよい森の奥にかかる、古い石橋のたもとでした。
橋はもうひび割れて、苔にすっかりおおわれていて、下を流れる川の音が、ひっそりと空気の底を渡っていきます。
ざあ……ざあ……と水が石にあたる音。
木の葉のすれる音。遠くの鳥の声。
しんとした風がふいていて、おばけはその橋の下を、ずっと見つめていました。
まるで、自分の中に流れている“何か”を、そこに探しているように。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけはびくりとふるえて、かすれた声で、そっと言いました。
「こんにちは……でも、あなたはわたしのなまえを知らない」
「うん。まだ知らない。でも、教えてくれたら覚えるよ」
「……わたし、なまえをわすれてしまったの。だれかに呼ばれていた気もするけど、もう思い出せない。思い出せないから、わたしがわたしであることが、よくわからないの」
おばけはそう言って、風の中で少し身をちぢめました。
その姿は、霧が少しずつ薄れていくように、すこしずつ輪郭を失っていくようでした。
コトリはしばらく考えてから、そっと手をのばしました。
おばけのかたちは、冷たくもあたたかくもない、空気のすこし重くなったような感触でした。
「じゃあ、一緒に探してみよう?なまえって、ただの音じゃなくて、思い出とか、気持ちとか、そういうものの中にあるんだと思う」
おばけは、ふわりとゆれて、まるでうなずいたように見えました。
コトリは、ゆっくりとたずねました。
「好きなものはある?」
「すき……だったもの。あったかも」
「どんなもの?」
おばけはしばらく黙って、
風に運ばれる川の音を聞いていました。
「雨の音。あと……やわらかい羽の手ざわり……」
コトリはにっこり笑いました。
「それ、すてき。たとえば、鳥さんのおなまえの“つぐみ”とか、雨のかたちの“しずく”とか。そういうなまえが似合いそうだね」
おばけはふるえながら、少しだけそのかたちを整えました。
霧の中にすこし光がまざったような、そんな瞬間でした。
「呼んでみて……どれか、あなたのすきななまえで」
「じゃあ、“つぐみ”って、呼んでみてもいい?」
コトリの声が、橋の上の空気にやわらかくひびきました。
その声にふれるようにして、おばけはふるふると揺れました。
そして、ほんのすこしだけ、光を帯びました。
「……うん。そのなまえ、わたしのどこかに、しみこんでいる気がする」
それからの日々、コトリは橋のたもとを通るたびに、そのおばけ、“つぐみ”に声をかけました。
「おはよう、つぐみ」
「つぐみ、元気?」
「またね、つぐみ」
名前を呼ばれるたびに、
おばけのかたちはすこしずつ輪郭をとりもどしていきました。
霧が晴れるように、光がにじむように。
ときどき、コトリの声に重なるように、かすかに「うれしい」という響きが返ってきました。
ある日、風のつよい午後。
橋の上を、乾いた葉が音を立てて転がっていきました。
木々のあいだで光がちらちらとゆれ、川面に映る雲が速く流れていました。
おばけはその風の中で、ふっと息をするように言いました。
「ほんとうは、わたしのなまえは“つぐみ”じゃなかったかもしれない。でもね、いま、あなたが呼んでくれるこのなまえが、わたしにとって、いちばんたいせつなものになったの」
コトリは、そっと笑いました。
「なまえって、きっと“もらう”だけじゃなくて、“ともに生きていく”ものなんだね」
風がやんで、橋の下から水の音だけが聞こえました。
そのとき、夕陽が木々のあいだからこぼれて、おばけの体をやさしく染めました。
その光は、まるでおばけの“なまえ”がすこしずつ形をもって生まれなおすようでした。
なまえは、思い出せないこともあります。
でも、「呼んでもらえること」は、いつでも新しい自分を、ともしてくれる。
橋のたもとでは、今日もかすかに光がゆれています。
コトリの声と、水の音と、風の歌といっしょに。
そこには、たしかに“つぐみ”という名をもつ、おばけがいるのです。




