あかりのつかない家
まよい森のずっと奥。
人の足音がもう久しく届かない場所に、ぽつんと小さな家がありました。
屋根は深い苔におおわれ、壁は雨の跡で灰色に沈み、窓はうすくくもっていて、ドアには古いくさびが打ちこまれたまま。
風が吹くたびに、ぎしり……ぎしり……と板の音がかすかに鳴りました。
まるで、家じたいが夢の中で寝息を立てているように。
そこに、誰かが住んでいる気配はありませんでした。
ただ、沈んだしずけさだけが濃く積もり、昼でもほの暗く、森の影といっしょに時間を飲み込んでいるような場所でした。
けれどある日、コトリは気づきました。
その家の前を通るたびに、ふいに背中のあたりで、かすかな「視線」のようなものを感じることに。
木漏れ日が揺れるとき、窓の奥で、何かがほんの一瞬だけ動くのです。
それは風でもなく、影でもなく、まるで“息をひそめてこちらを見ている何か”のようでした。
「……だれか、いるの?」
コトリがたずねても、返事はありません。
けれど、森の静寂の中に、たしかな気配がありました。
それは“いない”のではなく、“出られない”ような、そんな気配でした。
その日から、コトリは何度かその家の前に立ち寄るようになりました。
花を一輪、石の上に置いてみたり、小さな手紙をドアのすきまに差しこんでみたりしました。
「こんにちは」
「また来たよ」
「きょうの空はきれいだよ」
どの言葉にも返事はなく、家はただ沈黙のまま、深い森の呼吸と同じようにしずまりかえっていました。
それでも、ある日ふと見ると、くもった窓の表面に、指でなぞった小さな円が残されていました。
まるで、だれかがそっと“外をのぞこうとした”かのように。
コトリは、胸が少しあたたかくなるのを感じました。
見ている。ちゃんと、中のだれかが見ている。
その夜、月が森を照らしていたとき。
コトリはランタンを手に、もういちどその家を訪ねました。
草の上を歩く足音がしずかに響き、虫の声が遠くでこぼれていました。
ドアの前に立ち、コトリはそっと手をあてました。
木の感触は冷たく、けれどその奥には、かすかな“ぬくもり”がありました。
「中にいるおばけさん」
コトリはしずかに語りかけます。
「あなたがここにいるって、わたし、ちゃんと気づいてるよ」
沈黙。
森の奥で風がざわめき、木の葉が落ちる音がしました。
それでも、コトリは言葉を重ねます。
「見えなくても、会えなくても、あなたがまだ消えていないこと、ちゃんとわかってる」
しばらくして、ドアのむこうから、かすれた声がしました。
それは、長いあいだ使われていなかった声。
埃をかぶった楽器が、ようやく鳴り出したような音でした。
「……あかりが、こわいの」
「どうして?」
「むかし、あかりをつけたら、たくさんの人がやってきて、わたしを見て、“こんなの家じゃない”って言ったの。それからずっと、あかりを消していたの。あかりは、見られることで……見られるのが、こわくなったの」
その声は、おばけのようで、でもどこか、家そのものが話しているようでもありました。
長い年月のあいだ、閉じこめられていた気持ちが、ようやく言葉の形をとったように。
コトリはしばらく黙って、やがて、そっと言いました。
「でもね、わたしは、そのままのあなたを見たいと思ってる。こわれたところも、くもったガラスも、暗い中も。きっと、わたしならだいじょうぶ」
その瞬間、ドアの下のすきまから、ろうそくの火のような、細い光が、ふっとこぼれました。
ほんの一瞬の光。それでも、たしかに“生きた光”でした。
「……ひとりでいるあいだに、忘れてたの。わたし、ほんとうは家になりたかったの。だれかのあかりになりたかったの」
その声はふるえていましたが、その奥には、やさしいあたたかさが息づいていました。
「それなら」
コトリはポケットから、小さなランタンを取り出しました。
中で、小さな火がほのかに揺れています。
「これ、わたしからの最初のあかりね。いっしょに、つけてみよう?」
コトリがランタンをドアの前にそっと置くと、ドアのすきまの光と、ランタンの光が、ゆっくりひとつになりました。
その夜、まよい森の奥にある小さな家に、はじめてやわらかなあかりがともりました。
窓のくもりが少しずつ晴れ、屋根にこけた苔が黄金色に染まり、扉のすきまからは、ぬくもりのある空気がにじみ出てきました。
そしてその光は、見えないけれどたしかにずっとそこに閉じこもっていただれかの心を、そっと照らしていたのです。
あかりは、こわいものじゃない。
ひとりのときはまぶしすぎても、だれかと分け合えるとき、それは世界でいちばんやさしい光になる。
森の中のその家は、いまも夜になると、かすかに、灯のようなものをともしています。
きっとそれは「見られることをこわがらなくなった家」の、小さな心の明かりなのです。




