いつかを待っているおばけ
まよい森の北のはずれに、ぽつんと空いた草地があります。
森の木々がぱたりと途切れ、そこだけぽっかりと空がひらけているのです。
風がよく通り抜け、木の葉のざわめきも鳥の声も届かない。
ただ、空だけが広く、空だけがいつまでも変わらずある、そんな場所。
そこには、季節というものが、ほとんど届きません。
春になっても花は咲かず、夏になっても草は深くならず、秋の紅葉も、冬の雪も、ほんの少ししか残らない。
ただ、淡い光と影が交互におとずれて、それが時間のかわりに草地をそっと撫でていくのです。
ある日、コトリはその場所に足を踏み入れました。
ふだんはだれも来ないはずの場所。
けれどその日は、なぜか足がそこへ導かれるような気がしたのです。
風の音がひときわ大きくなったとき、
コトリは、草の波のむこうに小さな影を見つけました。
大きな石のかげ。
そこに、ひとつの「おばけ」が、ちょこんと座っていたのです。
灰色のマントのような体。
顔も、目も、手も、はっきりとは見えません。
でも、その姿は、まるで空を見上げてじっと何かを待っているようでした。
「こんにちは」
コトリが声をかけても、おばけは動きません。
風がふいても、葉が転がっても、鳥が近くを飛んでも、まったく揺れないのです。
ただ、空気の奥から、かすれた心の声が聞こえてきました。
(……まだ、こない)
「だれかを待ってるの?」
コトリがたずねると、おばけは、ゆっくりと身じろぎしました。
(いつか、だれかが来るって──)
(むかし、言われた気がして……)
(それが、わたしの役目だと思ったの)
おばけの声は、まるで風の音にまざるようでした。
はっきりした音ではなく、気配のかたち。
コトリはその声を聞きながら、草のにおいの中で小さくうなずきました。
「それって、どのくらい前のこと?」
しばらくの沈黙。
おばけは、風のゆく先をじっと見つめたまま、やがて、かすかな息のように言いました。
(きっと、千年くらい)
「せ、千年……!」
コトリは思わず目をまるくしました。
けれど、おばけはその反応にも気づかないように、ただしずかに、空の向こうを見ていました。
まるで、そこにしか存在できないように。
「そんなに長く待ってたんだ……」
(まあね)
おばけの声は淡く、けれどどこかあたたかく、
長い時間をくぐり抜けた者だけがもつやわらかさがありました。
「こないかもしれないのに?」
コトリがたずねると、おばけは、はじめてゆっくりとこちらを向きました。
顔はなかったけれど、その向けられた“気配”には、たしかに微笑のようなものがありました。
(でも、こないって、まだ決まってないでしょ)
その一言が、風に溶けて空へ昇っていきました。
コトリは、胸の奥がすこしだけあたたかくなった気がしました。
待つということには意味がないと思っていた。
でも、このおばけは違いました。
「意味があるから待つ」のではなく、「信じているから待つ」。
その姿は、ただのしずけさではなく、希望そのもののように見えたのです。
「じゃあ、もしそのだれかが来たら、あなたはどうするの?」
コトリの問いに、おばけは空を見上げました。
高く、高く。
その目のない顔で、はるかな青を見つめながら答えました。
(きっと、なにもしないと思う)
(でも、その人が来たってことが、わたしにとっての『終わり』であり、『はじまり』なの)
風が一陣、草をなでていきました。
ざわざわと音がして、草の海が一面にゆれて、おばけの影を、やさしく包みこみました。
そのしずけさの中で、コトリはおばけの隣に腰をおろしました。
二人のあいだに、ひとすじの風が通り抜けていきます。
遠くで鳥が鳴き、雲がゆっくり流れました。
しばらく、ふたりは何も言わず、ただ同じ空を見ていました。
やがて、コトリが立ち上がり、しずかに言いました。
「わたし、その“いつか”のだれかにはなれないかもしれないけど……“いま”のあなたのとなりにいることはできるよ」
おばけは、ほんのすこしだけうなずいたように見えました。
灰色の体がやさしく揺れ、その中から、ほとんど聞こえない声がこぼれました。
(……ありがとう。こんな日が来るなんて、思わなかった)
その日から、コトリはときどきその草地を訪れるようになりました。
朝の光の中でも、夕暮れの風の中でも。
おばけは、いつもそこにいて、空を見上げています。
だけど、もうひとりではありません。
風が吹くたび、草がざわめき、まるでおばけが、何かを語るように響きます。
その声にまざって、ときどきコトリの笑い声がします。
「いつか」は、かならず来るとは限らない。
けれど、「いま、そばにいる」ということは、たしかに心を照らす、ほんものの光になるのです。




