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まちがえてうまれたおばけ

 ある霧の日。

 まよい森のはずれは、まるで息をひそめているようにしずまりかえっていました。

 白い霧が木々のあいだをゆっくりと流れ、足もとでは落ち葉がしっとりと水をふくみ、踏むたびにやわらかく沈みこみます。


 その中を、コトリは小道をたどりながら歩いていました。

 鳥の声も、風の音もない、そんな朝。

 空気の奥に、ふと、なにかの気配を感じたのです。

 木と木のあいだに、なにかがじっと、うずくまっていました。

 霧にとかされそうなほど、うすく、あやふやな存在。

 コトリがそっと近づいてみると、それはひとつの、ちいさな「おばけのようなもの」でした。

 丸くて、かすかに揺れていて、体は墨をにじませたような黒。

 目もなく、口もなく、声も出さず、ただ、そこに「まちがって置かれた」ように存在していました。

 その場だけ、森の音が吸いこまれたようにしんとしずまり、空気の中で、霧の粒がひとつひとつ、ゆっくりとおばけのまわりをまわっています。

「こんにちは」

 コトリが、そっと話しかけました。

 おばけのようなものは、かすかに揺れました。

 けれど声はありません。

 まるで、聞こえているのか、聞こえていないのかさえ、わからないようでした。

「なにしてるの?」

 もう一歩近づいても、返事はなく、ただ、黒い体の中に、かすかに光の影がゆらめきました。

 やがて、おばけのようなものは、小さくふるえながら、体の奥から、薄明るい“文字のような影”を浮かびあがらせました。


 まちがえて うまれて しまいました


 その言葉を見て、コトリは息をのみました。

「……そんなこと、あるの?」

 おばけのようなものは、ゆっくりと、霧の中で震えながら続けました。


 よばれた 記憶も

 つかわれる 理由も ありません

 だれの 夢でもなく

 だれの 願いでもなく

 ただ まちがえて できて しまった

 わたしは いらないもの


 霧の粒がひとつ、おばけの体にふれて、しずかに溶けました。

 それはまるで、涙のようにも見えました。

 コトリはしばらく、なにも言えませんでした。

 風が木々のあいだをかすめ、遠くで枝がひとつ、こつんと鳴りました。

 やがて、コトリはその場にしずかに腰をおろしました。

 おばけのすぐとなり、少し離れた場所に。

 霧の中に並んで座ると、森の匂いがすこしだけ濃くなりました。

「わたしね」

 コトリは小さな声で言いました。

「まちがえて拾った花を、いまでも大事にしてるの」

「まちがえて書いた手紙を、机にしまってるの」

 おばけは動きません。

 でも、黒い体の内側で、光がかすかに脈打つように揺れていました。

「まちがいってね、ほんとうは、そのままでいいものなんじゃないかな」

 そう言ったとき、霧の中で木漏れ日がわずかにゆらぎました。

 黒い体のまんなかに、やさしい光の粒が、ひとつ浮かんだのです。

「それにね……」

 コトリは続けました。

「もしほんとうに、まちがえてうまれたとしても、あなたがいまここにいることは、もうまちがいじゃないよ」

 その言葉を受けて、おばけの体がふるえました。

 黒い色の中に、やわらかな光がにじみ出し、墨のようだった輪郭が、ゆっくりと透明に溶けはじめます。

 霧の粒がその光に反射して、まるで星のかけらのように、まわりを舞いはじめました。

 おばけは、まるく小さく身をゆらし、体の中に新しい文字をうつし出しました。


 わたしが ここに いても

 いいの ですか


「もちろん」

 コトリは、まっすぐに答えました。

「ここには、まちがいなんて、ひとつもないよ」

 その言葉が、森の空気の奥へと溶けていきました。

 黒いおばけの体は、やさしい光を帯びたまま、ふんわりと風にゆられ、まるで安心したように、深く息をするようにしずまりました。


 その日から、まよい森のはずれには、

 ときどき黒くてやわらかい影がぽつんと座っているようになりました。

 朝も、夜も、雨の日も。

 その影はだれにもじゃまされず、だれにも見放されず、ときどき風にふかれて、かすかに笑っているように見えるのです。

 近くを通ると、葉がそよぐ音の中に、ほんの小さな「ありがとう」という響きがまざって聞こえることがあります。


 まちがえてうまれたと思っても、その存在を見てくれるだれかがいれば、それは、もう「まちがい」ではなくなる。


 それが、まよい森に新しく生まれた、ひとつの、やさしいまちがいのかたちでした。

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